菊君探し
久しぶりに佐保宮に顔を出したところ、同僚のふつが「逃げたわね」と恨めしそうに言った。
「佐保宮は今、ものすごく忙しいの。わらびも知っているでしょう?」
「うん」
近ごろ、佐保宮を流れる雰囲気が忙しない。何かが起こりそうな差し迫った感じがしていた。
あの夜。狂ヒが後宮を侵した夜からがらりと世相が変わってしまった。三人いた妃はひとりになり、他の家を押しのけていたはずの玄家は氏長者を失った。
今、佐保宮の桜の上と言えば、「たぐいなき幸ひ人」なのだ。帝の寵愛を一身に受け、子を宿したばかりでなく、競争相手ももはやいなかった。だれもこの妃の幸運に勝てないのだ。
佐保宮には今や世間の耳目が集まり、人が集まる場所となったのだ。
「青竹から逃げたの。ごめんね」
いいけど、とふつは唇をつんと尖らせる。
「いない方がよかったわよ。青竹様に怒られているわらびを見るのは嫌だもの。わらびは怒られてもへっちゃらだろうけれど、見ている方は頭が痛くなるから。ね?」
同意を求めるふつに、釈然としない気持ちになるわらびである。わらびの心配をするような口ぶりで、自分の心配をしているではないか。
「それで、わらびはまた『失せ物探し』をしていたんでしょ。終わった?」
「まだだよ。まだ、足りないの」
「何が足りないのよ」
うんうんと頭を捻って考えた上で、わらびは言った。
「……化人?」
「ひと」
ふつは胡乱な目をした。だれなの、と矢継ぎ早に問われるが、わらびにもわからないものはわからないのである。
「それはそれとして」
ふつは声をひそめた。
「また菊君の居場所を探してもらえない?」
「あのでぶ猫?」
「菊君」は梔子姫が飼っていたでぶ猫である。このでぶ猫探しのために、わらびも何度駆り出されたか知らないが、佐保宮に引き取られてもなお、放浪癖が収まらなかったようだ。のんきなやつである。
「雲隠れしてしまったみたいでね、桜の上が気にされているの。青竹様もぴりぴりされて、探すようにとわたしに命じていかれたわ」
「ふつに?」
「わらびがいないからじゃないの。代わりよ、代わり」
だから会って早々、恨めしそうな顔をするわけだ、とわらびは得心した。
「わかった。探しておくよ」
「どこへ行くのよ」
そう言いながら明後日の方向へ歩きだしたわらびをふつが止めた。腰に両手を当てて、仁王立ちになる。
「一緒に行くわよ。ここで逃したら、次はいつ帰ってくるかわからないじゃないの」
「仕事はいいの?」
わらびよりよほど仕事熱心なふつである。常日頃、口うるさく仕事しろと言っているのに、不思議なこともあるものだ。
「今は菊君探しよ! 最優先にしろというお達しなの」
まあ、青竹様ご自身は忘れていらっしゃるかもしれないけれど、とふつは皮肉めいた口調で言い、重いため息をついた。悩みが深そうな例のふつだ。
「どうしたの。お腹すいた? 柿食べる?」
「空いてないわよ、わらびじゃあるまいし……って、なによ、その柿は」
「もらいもの」
わらびが袖に忍ばせていた柿を不審そうな手つきで受け取るふつ。とりあえずもしゃりと食いながらなんとなく童女ふたりで歩き出す。
「わらび。もしもの話だけど、わたしが人の上に立つ化人になってもね、下の者を無体に扱うまいと思うわ」
納得できやしないもの、とふつは付け足して黙り込む。わらびの言葉を待っているようだ。だから、うん、と頷いた。
「……それだけ? なにかもう少ししゃべってほしいのだけれど」
「いいと思うよ?」
「不思議そうな顔をしないでちょうだい」
「ふつ」
「なによ」
「眉間にまた皺があるよ」
ふつは渋面になった。眉間に人差し指を立て、ぐりぐりと押した。
ふたりはそんなやりとりをしながら佐保宮周辺を回っていたが、でぶ猫の行方に関わる手がかりすら見つからない。
「他の宮に行ってみようよ」
え、とふつはその場で棒立ちになる。
「筒宮と竜田宮へ? あんなところに菊君は行かないわよ、絶対」
この口ぶりではふつは探しに行っていない場所のようだ。ならばいるかもしれないではないか。
「わらび、怖くないの? あそこでたくさんの方が亡くなられたばかりでないの」
「怖くないよ」
ただ、悲しいのだ。
あの時、わらびには何もできなかったから。気づいたら、もう終わっていた。
化人が死んだ、化人が死んだ、化人が死んだ……。
わらびにはその事実が重たすぎた。
救わなければならなかったのだ、と心のどこかでまだ思っている。
佐保宮の真南。筒宮の門前には物々しい出で立ちの衛士が仁王立ちしていた。
中がいまだ死穢で満ちているため、入れぬということなのだろう。
「やっぱりやめましょうよ」
しきりに帰ることを促すふつに、わらびは言った。
「ふつ、肩貸して」
「いやよ!」
梃子でも動かぬといった顔のふつ。わらびは仕方なしに筒宮を囲む築地をくるりと回りこみ、築地のすぐ外に生えた大木を見つけた。
よいせ、と跳躍して幹に飛びつき、するすると上る。筒宮の内部を上から見下ろした。
「あ……」
焼け焦げた黒い道が幾筋も見えた。なめくじが這ったような跡が、鬱蒼と茂っていたはずの木々をなぎ倒し、細い小川を越え、主殿まで続いていた。主殿は、一部が崩れていた。
風に乗って、厭な匂いが漂ってきた。狂ヒの残り香が、あの黒い道からぷうんと立ち昇っているようだ。
あれが、狂ヒの強襲跡なのだろう。今は死体も片付け、土地を清めるために封鎖している。
梔子姫に、太郎君。そこにいた女房たち。先日の絵合にはたしかにその場にいた者たちが、もうこの世にいない。あの豪奢な筒宮の景色は永遠に失われてしまったのだ。
わらび、と下にいたふつが慌てた様子で呼ぶ。
「だれかの足音が聞こえたわ、早く行きましょう!」
「ん」
わらびは元いた路まで飛び降りた。ちょうどそのとき、衛士の男が近くを通りかかる。童女ふたりが揃っているのを不思議そうな顔つきで見ていたが、無害だと判断したのか、門前に戻っていった。
「菊君は?」
「いなかった」
次に竜田宮へ行く。竜田宮は筒宮の隣に位置する宮だ。
狂ヒが後宮を襲った夜は、この竜田宮から狂ヒは侵入し、そのまま東へ進み、筒宮へ入った。その後、後宮を西へ抜けたところで、忽然と姿が消えたのである。
竜田宮でも筒宮と同じように衛士が門前を封鎖しているため、中を覗きこめる場所を探すが、上るのによい木は見つからなかった。
「ふつ、肩貸して」
「……わかったわよ」
諦め気味のふつがしゃがみこむ。わらびは裸足になって、ふつの両肩に足をかけ、一気に跳躍し、築地の上に手をかけた。そのまま腕力でよじ登り、内部へ目を凝らす。
竜田宮には、何度か行ったことがある。はじめは、わらびが知らずに迷い込んだことから始まり、その後、『失せ物探し』を頼まれることもあった。失くした恋文を探してほしいというようなささいなものばかりだったけれど。頼み主の女房もいなくなった。
そこに住まう主を、見たことがなかった。ただあの時、絵合の場で御簾の奥にある透き影を少し垣間見たぐらいのもので。
わらびが最後に見た竜田宮は燃えるような紅葉の盛りにあった。紅葉の錦が頭上にも、足元にも、敷地を流れる小川にまで鮮やかな渦を巻きながら見る者を呑みこもうとしていた。風が吹けば、それこそ紅葉が襲い掛かってくるかのようで。それはまるで気性の激しかった主、萩の御息所を思わせた。
しかし、今、わらびが目にするのは草木もまばらな荒れた地だった。主殿も形は残しているものの、屋根が傾き、半壊している。筒宮と同じく、焼け焦げた黒い跡がこの宮を蹂躙したのがわかる。
黙って地上に戻ったわらびに、ふつは静かに言った。
「もう……わかったでしょ。あそこには猫も近寄れないわよ。それだけのことがあったのだもの」
「そうだね」
「何よ。しょげないでよ。いつでも、なんでも、どこ吹く風のわらびのくせに」
「初めて聞いたよ」
「初めて言ったもの」
ふつがつん、と唇を尖らせた。
「わらびはわたしの実家の事情だってどうにでもなるって言い方をするのだもの。そういうふうでなくちゃいけないわ。……救われるもの」
ぼそりと付け加えた意味は取り損ねてしまったけれど、ふつの気持ちはわらびにも伝わった。要は元気を出せということなのだ。
「せっかくだから、最後に宇津田宮まで行ってみようよ」
ぴたりと隣を歩く足が止まるやいなや、ふつはぶるりと身体を震わせた。
「あそこにももののけが出る噂があるのよ!? 知らないの!?」
「大丈夫だよ」
「あなた、以前もあそこで三郎君に怒られたんでしょ! 正気なのっ?」
「大丈夫だよ」
何の根拠もないじゃないの、とふつはわめくが、わらびはさっさと宇津田宮へ向かう路を歩き始めた。
 




