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幸せ

 榊宮さかきのみやの邸は、更級第さらしなのだいから少し東南に下った都の東辺にあった。

 都でも南側に行けば、家々の間の田畑が目立つ。北側の整然とした大邸宅の並びとはうってかわり、少し鄙びた田舎といった風情が漂っていた。

 人の少ない荒れた小路を歩いていくうちに、目当ての邸についた。更級第の品の良さとは比べるべくもない、荒れた邸だ。土埃の積もった濡れ縁を突き破って、竹が生えている。落ち葉を片付ける者もいないので、母屋への道がわからぬぐらいに枯れ葉が積もっていた。

 かしゃかしゃ、と踏まれた葉が面白い音を立てるので、わざと枯れ葉を踏みながら荒れ屋をさまよう。

 庭に大きな柿の木が何本も生えていた。落ちた葉の上にも熟して落ちた柿が落ちている。

 へび爺が時々、ここから柿を持っていっているはずなのに、柿はわらびたちの頭上いっぱいになっている。いっそ気味が悪いほどだった。


「ゆき、下で受け取って」


 わらびはするすると柿の木にのぼり、もいだ柿をひとつ、ふたつと落としてやった。ゆきはわらびを仰ぎ見るばかりで、柿は地面に転がった。

 代わりにひき丸がゆきの手にもたせてやると、ようやく意図を理解したのか、しゃくしゃくと食い始めた。


「ひき丸もほしい?」

「なら、あとひとつ、落としてくれないか?」


 いいよ、とわらびは言うとおりにした。

 わらびの足が地につくと、ひき丸は柿にかじりついた。柿の汁が柿を掴むひき丸の手から滴り落ちていた。ずいぶんと、うまそうに思えた。


「興味あるか?」

「ううん」


 わらびはすぐに首を振った。嘘つけ、とひき丸が笑う。食いながら落ちた枝を拾って上に投げれば、ぽとんと柿がひとつ落ちた。わらびの手に柿が収まる。


「また味がしないかもしれないよ」

「それがどうした。味がわからないことがわかるだけで、わらびは変わらないだろ」

「たしかに」


 わらびは珍しく怖がっていたらしい。ひき丸の言葉に背中を押される形で、なめらかな実に歯を立てる。口の中でしゃくりと音を立てた柿は、形を崩していく。


『ごめんね、ごめんね……』


 耳の奥で女人の、ささやきかける声がした。


『一緒に連れていけない母様をゆるしてね。いい子にして待っているのですよ。……さ、その手を放して、ね?』


 わらびはうつむいて柿を食っていたが、片方の手で母の衣を握りしめていた。柿と同じような色をしている。下に着こんだ緑の単衣との重なり方がとてもきれいだった。

 わらびはぱっと衣を手放した。


『ありがとう。本当にいい子ね』


 頭の上を母の手が優しく触れた。その手は髪から滑り落ち、頬、顎、そして首を撫でるように動く。


『ごめんね――母様はね、幸せになりたいの』


 柿を嚥下する喉に、ふたつの手が伸びるかと思った時。

 柿を握る手ごとぶたれた。食いかけの柿がてんてんてん、と木の葉の上を転がった。


「ゆき」


 手を上げたのは、ついさっきまでぼうっと立っていただけのゆきだった。今は肩をそびやかし、片方だけの目を爛々と輝かせている。


「うあうあうあうあうあぁ」


 ゆきが両腕を激しく振り、わらびへ威嚇の声を上げた。


「どうしたんだ?」


 ひき丸が不思議がるが、わらびも同じだった。せっかく何かが視えたところなのに、現実うつつに引き戻されたのだ。


「……もしかして、わらびが視ようとしたから、嫌がったのかな」

「何を視たんだ」

「ゆきの母親。あれはね、たぶん」


 ゆきを殺したんだよ。

 すっと木枯らしがわらびたちの間を通り抜ける。物騒だな、とひき丸が短く告げた。


「うん。殺したよ。首を絞めたの。ごめんね、と言いながら、笑いながら殺したの」


 だからこう話している今も、喉が苦しくて、息がしづらかった。首に手を置けば、ざらりとした感触があった。放した指先に、血が滲んでいる。まるで爪を立てられたみたいな傷だ。

 ひき丸もわらびの様子に気付き、離れようと提案した。


「だめ。もう少しだけ」

「おい」


 わらびはひき丸を振り切って、歩き回ろうとした。すると、今度はわらびの袖を強く引く者がいる。ゆきだった。


「ああああああああああぁあぁ」


 わらびを行かせまいとする幼子。さきほどまでの物静かさとはまるで別人のように騒ぐ。


「ゆきも嫌がっているようじゃないか。今日は引き上げよう。おまえだって怪我してるんだぞ」


 ゆきはね、母上が大好きだったんだよ、とわらびはぽつりと呟いた。


「ゆきはね、自分が殺されても、怒ってない。そればかりでなくて、わらびが母上を悪く思っていることに、怒ってるんだよ。……でもね」


 わらびは胸のあたりを強く押さえた。そうしなければ、胸の奥で蠢くもやもやとした何かが暴れ出しそうな気がしていたのだ。


「母親はわかってた……! 娘だから、何をしたところで、何もできないだろうって。母親だからって、自分が生んだから、殺したっていいんだって思ってた!」


 ゆきは純粋に母を思っていた。幼い子が、幼いなりに懸命に母親を慕っている。母親が悪人だということさえ、ゆきにはわからない。だって、たったひとりの母だから。あの母親はなんてずるい考え方をするのだろう、とわらびは憤った。


「そうだな」


 ひき丸は真面目にひとつ頷くが、「だが、ありふれた話だ」と硬い口調で告げた。


化人ひとの本性は畜生だぞ。愛しさよりも欲が勝る。その女は親であることよりも、己を選んだんだろ。穢れるというのはそういうことだ。たづ彦の時だってそうだったろ。血の繋がった父は畜生を選び、育ての父は化人ひとだった」


 だったら、化人ひとってなに、とわらびは問う。


「わらびはおかしい? こんなことをいうのは化人ひとじゃないから?」

「いいや。みな、頭のどこかでわかっているんだろうさ。でも、心は追いつけないし、どう動くのかもわからないから」


 みな、きれいに生きられた方がいいさ。ひき丸は優しい声で答えた。


「おまえは正しいよ。正しくて、まっすぐだから、俺は安心する」


 ひき丸の細い目に、溢れんばかりの優しさが宿っていることにわらびは気づいた。

 きっと、ひき丸がわらびといるのもそういうわけであろうし、わらびがひき丸といて安心するのもそういうことなのだろう。

 ひき丸に、これまで守られてきたのだ。そう感じると同時に、わらびは悲しくなった。

 生前のゆきを守ってくれた者はいなかった。へび爺は守れる立場になかった。どうして、ゆきの周囲の大人たちは優しくあれなかったのだろうと、そのことが気になった。




 ◇

 橘宮の父、榊宮さかきのみやの晩年を共にした女人、柿の君。ゆきは柿の君の子だが、その母の手で殺された。

 榊宮はその後、狂ヒとなって、橘宮を襲っている。

 榊宮の亡くなった当時、柿の実がたわわに実る小さな邸宅で、何かが起こっていたのだ。


「今、柿の君自身はどこで何をしているんだろうなあ。それがわかれば悩まずに済むのにな」


 うん、とひき丸に同意する。


「『母様は、幸せになりたいの』って言ってたよ。あれは、どういう意味なんだろうね」


 へび爺の話では、ゆきを見かけなくなった時期は榊宮の逝去の時季と重なっているという。

 榊宮は、冬の訪れの直前に、何の前触れもなく死んだそうだ。朝、起きてこない主人を心配した女房のひとりが寝所を訪れたところ、苦悶の表情を浮かべた主人が変死していたという。手足はばらばらの方向にねじ曲がった状態で固まり、棺に入れるためにさらに手足を折らなければならないほどだった。

 天人は死後、身体の外に宝珠を顕現させるそうだが、その宝珠の行方も知れぬままで、当時は奇怪なこととして噂されたらしい。


「また手詰まりになりそうだなあ」


 ひき丸が頭の後ろで両手を組んだ。そのまま横目でわらびをちらりと見るや、「美味いか」と訊ねてくるので、うん、と頷く。

 わらびの手の中には食いかけの柿がある。


「甘いの」


 不思議と、甘さを感じられるのだ。まだ柿だけだけれど。

 ゆきみたいに、柿ばかり食べるようになってしまった。

 しゃくり、とまた齧りつく。ひき丸とは反対側にいたゆきは、羨ましそうにわらびを見上げていた。

 接していくうちに、ゆきはどんどんと表情豊かになっていく。心の内が見えてくる。


「ほしいの?」

「……う」


 ゆきは大きく上下に頭を振る。差し出すと、ゆきは受け取った。ゆきの口の端がぴくぴくと動いた。

 わらびは両手の人差し指をそれぞれの口の端に触って、笑みの形を作ってみせた。にい、と笑う。


「急にどうしたんだよ、わらび」

「今ね、ゆきが笑おうとしたの。だから、お手本だよ」


 ひき丸へも同じように『お手本』を見せるわらび。


「ゆきもこうやって笑えばいいんだよ。みんなゆきが楽しいんだなってわかるよ」


 ゆきはきょとんとする様子だが、すぐにわらびと同じように指を口の端にくっつけ、にい、と笑みを作ってみせた。

 まだまだぎこちないけれど。素朴で、かわいらしい笑みだった。


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