天人
ばかだなあ、と更級第にいたひき丸が言う。不知と幼子の一件を耳にした感想がそれだった。
「そのもののけが何を思ってその子を預けたのかよくわからないじゃないか。いつまで、とも言わなかったんだろ」
「うん。でも大丈夫だよ。なんとかなる気がする」
のんきなわらびを、ひき丸はちらりちらりと横目で見てくる。少年は大真面目な顔で尋ねた。
「わらび、杖はいるか?」
「ううん、座る」
わらびはよっこいせ、と地べたに座り込んだ。足を投げ出し、背筋をのけぞらせる。ずっとずっと、背中と腰に重量がかかっていて、辛いものがあった。
ひき丸には見えていないが、首を巡らせたわらびの目には例の幼子は無表情でぶら下がっているのが映る。わらびはこの幼子をもう三日もおぶさったままで動いているのだ。
「だんだん重くなっている気がするよ」
そう言いながら地面の上で横になろうとするわらび。
さすがにやめとけ、とひき丸はわらびの背に手を伸ばしたが、触れた途端、驚いた顔をする。
「どうしたの」
「いや。なんでもない」
言葉を濁したと思ったら、こんなことを言う。
「この件ははやく解決した方がいいと思うぞ。いろいろと物騒な世の中だし、『失せ物探し』よりも水精探しをした方がいい」
ひき丸はふと空を仰いだ。
そこには重苦しい灰色の空がある。もうずいぶんと、日の光が入らなくなったので、近ごろはぐっと冷え込むことが多くなった。
人の陽気さを垣間見なくなり、顔を合わせても互いの憂いが目の奥に映っている。
あの事件以来、『狂ヒ』の目撃談が都の中でも聞かれるようになった。彼らは毎夜のようにどこかに出没し、化人を襲っている。都を守護する検非違使も動いているし、橘宮をはじめとした天人が毎日のように都に溜まった穢れを祓う儀式を宮中で行っているというが、被害は収まらない。
天人は穢れを祓う宝珠を生まれ持つ特別な人びとだ。天人と宝珠はそこに在るだけで狂ヒを祓い、都へ寄せ付けなくしていた。だが、今は違う。狂ヒは平気な顔で都に入り込んでくる。
「わらびも夜にひとりでふらふら歩くなよ。まがりなりにも今の後宮は厳重に守られているんだ。あそこほど安全なところはないぞ」
ひき丸は近ごろずいぶんと難しい顔をするようになったとわらびは思う。『失せ物探し』は以前と同じように一緒にやるけれど、心の欠片は別のところに置いている。宮中へ出仕する橘宮についていき、夜の更級第の警固もするひき丸は前より忙しくなっているはずだ。
「ちゃんとおとなしくしているよ」
「ん。そうか」
ひき丸はわらびに手を出させると、そこに水精の欠片を落とした。わらびの御馳走だ。
「どこにあったの」
「道端で死んた烏が咥えていた」
化人ではなく、ふつうの烏だったらしい。
「……なんで?」
「さっぱりだよなあ」
ともあれ、わらびの探しているものには違いない。さっそく食おうとしたのだが、ふと肩越しに視線を感じた。
即席の眼帯で目を覆った幼子が、わらびの手元を注視している。しがみついているわらびの背から伸びあがり、よく見ようとしている。興味を抱いているのだ。
「見てみる?」
わらびは幼子の顔に欠片を近づけた。すると、幼子は顔を寄せ、すんすんと鼻をうごめかして……食った。とんでもない俊敏さだった。
「あっ」
「はっ?」
欠片が消えたのを見たひき丸もわらびと一緒に驚いた。
「わらびの、ごはん……」
衝撃を受けたわらび。へなへなと座り込む。状況を察したひき丸は、幼子のいる辺りに両手を突き出し、
「とられたのか? だめだぞ、吐き出しなさい!」
と、騒いだのだが。
わらびの耳元では、ごくん、と嚥下する音までも聞こえたのだ。
「ひき丸。どうしよう」
「いや……どうしようもない、な」
食えないことを知った腹がぐおおおおおぅ、とまたも怪音を鳴らし始めた。ますますみじめな気持ちになるわらびである。
すっ、とわらびの脇にひき丸のものではない影が差し、わらびの袖を引く者がいる。
あの幼子が二本の足で立ち、わらびを見上げていた。目元を覆っていた眼帯がその時、はらりと地に落ちた。
左目は空洞のままだったけれど、右目はしっかりとある。わらびを見ている。眩しがった様子もなかった。
「お、おい、わらび」
ひき丸が震える指でわらびの隣を指した。
「わらびが話していた子は、ここにいる子のことだよな。俺にも、見えるんだが。夢や幻じゃないんだよな?」
「ひき丸にも見えるの?」
ああ、急になと戸惑いながらひき丸が頷く。
あれだけ背から離れなかった幼子が自分の足で立ち、ひき丸にも見えるようになった。
こころなしか、頬にも血色がある。弾力のあるふっくらとした肌のようだった。……まるで生きているように。
確認でひき丸が軽く幼子の手に触れたのだが、ちゃんとした感覚があったとのことだ。
ひき丸は沈思した末にこう切り出した。
「なあ、わらび。俺は今、恐ろしいことを思っているんだが、言ってもいいか?」
「うん」
ひき丸は声を潜めながら、自分の意見を口にした。
「わらびがいつも食っている欠片を食べたらああなった。――あの水精には化人を蘇らせる力があるんじゃないか?」
「蘇らせる? どうなるの? おかしなことだよね」
幼子を見ながら言うわらび。ひき丸がきつく眉根を寄せる。
「おかしいだろ。……ありえない。あってはいけないことなんだが」
わらび、とあらたまったように名を呼ばれる。聞きたくないなと思った。ひき丸が嫌なことを言う時の声色だ。
「あの水精はなんだと思う」
「ごはん」
うん、とひき丸が相槌を打つ。
「わらびにはそうであっても、ほかの言い方をするかもしれないということだ。あれは集めると、わらびの中で珠の形になっていく。不思議な力を持つ珠に。……なにかと似ていないか」
「知らないよ」
「知っているはずだ」
ひき丸は間髪入れずに告げる。厳しい顔つきのままだった。
「あれを集めるわらびは、宮様たちを救い、狂ヒさえ救おうとした。そんなことをできる存在は限られている。むしろ、それしか考えられない。……もうそろそろ覚悟を決めておけ、わらび」
「覚悟?」
「わらびが集めているのは宝珠なんだぞ。おまえの正体もおのずとわかってくる。わらびがすべき覚悟はこの世でもっとも尊き、清き方々の一族に属するという事実を受け入れることなんだ」
――天人だ。わらび、おまえは天人なんだよ。
ひき丸が、意味の分からないことを言っている。わらびが、なんだって? そんなわけない。わらびは、ひき丸たちと同じだから。ちょっと変なところはあるけれど、同じだから、同じなのだ。
「ひき丸が、いじわるを言ってる……」
「言ってないぞ。大切な話をしたんだ」
「ち、ちがうもん。わらびはそんなのじゃなくて。ひき丸と同じで」
ひき丸は黙って首を振る。
わらびは混乱した。混乱して、涙が出て来た。止まってくれない。ぼろぼろ、ぼろぼろ、と零れてしまう。
「うぅ……うぅぅ……」
「どうしてだ? どうして泣くんだ?」
「わかんない。でもかなしい。かなしくて、かなしいんだよ……」
ひき丸までも悲しそうな、今にも泣き出しそうな顔をした。
ひき丸は前々からうっすら気づいていたが、確信が持てなかったから言ってこなかったのだと思った。
わらびの目に、ごしごしと布が当てられた。幼子が、眼帯にしていた布切れで涙を拭おうとしていたのだ。ありがたく受け取って、自分で拭き、遠慮なく鼻もかんだ。
「なぁ、わらび。おまえがたとえ天人だとしても、俺は態度を変えないぞ。そんなの、とっくに覚悟している。おまえがだれであろうと、どうだっていいんだ。俺の気持ちは、あの時、河原院で倒れていたのを見つけた時から変わってない」
「うん」
「傍にいるぞ。許される限りは、ずっと」
「うん」
約束だよ、とわらびは小指を差し出すと、ひき丸はゆっくりとその小指に自分のものを絡めた。
だからわらびは安心した。ひき丸が一緒にいるなら、どんな真実が待ち受けていようとも平気でいられると。
「許される限りは」と言ったひき丸の真意を無視したのだ。




