夕占
ある時、帝は二人の女人をひそかに呼び寄せたという。女たちには互いを見ないように間に几帳が立てられ、帝と対面した。
帝は女人たちに氷を持たせ、長く持っていられた方を妃にすると言った。それを聞いた女人のひとりは席を立ち、もうひとりは残った。
残った女人は唇が青紫色になり、歯がかたかた震えながらも耐えた。帝がその訳を尋ねると、その女人は小さく言った。
初恋でした、と。
「昔、ほんのわずかにお目にかかった時、恋い焦がれてしまったのです、どうかわたくしの気持ちを受け取ってくださいませんか」
それを聞いた帝の心の氷も解け、その女人は帝の寵愛を一心に受けるようになった。
その女人は、今、桜の上と呼ばれている。
◇
「わらびっ、わらびっ」
春の宮とも呼ばれる佐保宮の主殿にて。金切り声の青竹が濡れ縁の上からわらびを呼びつけた。
青竹は、佐保宮の筆頭女房であり、わらびのような下っ端の樋洗童にとって頭の上がらない高貴な人だ。
「何をしているのです! 命じられたことをやっていないではありませんか!」
「命じられたこと? なにか、あったっけ?」
わらびははて、と首をかしげた。すっとぼけているのではなく、本当に身に覚えがないのである。そもそも、今日、青竹の姿を見かけていないのに、いつ命じたというのだろう。
「桜の上が舞姫の御支度をすることになったのです! そのために三郎君を呼んでくるように言ったではありませんか! 聞いてもすぐ忘れる鳥頭なのですか!」
「わらびは何も聞いていないよ」
舞姫だの、三郎君だの、本当に何も知らないのだ。
「おだまりなさい」
素直に答えたのに、聞く耳を持つ様子のない青竹である。
「桜の上は今、大切な時期です。皇子さまを身籠られている上、豊明節会で舞われる五節の舞姫のご支度もしなければならないのですよ。いくつ手があっても足りないのです! さ、はやく!」
「青竹」
蜜のように甘い声がするや、青竹は身体を固まらせた。奥でぱさりと持ち上げた御簾が滑り落ちるかすかな音。青竹の背後から、白の上に紫を重ねた二陪織物を纏う若々しい女人が姿を現した。まるでその場に春が訪れたような華やかな女。今や、たったひとりの妃となった桜の上が、少し膨れた様子の腹を押さえながら濡れ縁の上にゆっくりと腰を下ろした。
「桜の上、出てきてはいけません!」
「あら。どうしていけないの?」
「お体が冷えます!」
「これでも綿入りの衣だもの、十分暖かいわ」
幼い子をいじめてはいけませんよ、と桜の上は筆頭女房を窘めた。
「青竹は塗籠から香炉をとってきてもらえる? 大納言様からいただいた香を試してみたいから」
ぴんと背筋を張っていた青竹だが、急に頭を垂れて、無言で主殿の奥に消えた。
ふだんはほかの女房たちに囲まれているはずの桜の上と、二人きりになる。桜の上は春の陽気みたいにふわりと微笑む。
「青竹も悪い子ではないのですよ。ただ少し熱心すぎるだけ」
己より年かさの女房を桜の上はこう評し、ふと枯れ葉が今にも落ちそうな木々をひとつひとつ眺めながら「秋も終わりですね」とぽつり。
「たしかこのぐらいの時季でした。夕占で己を占うことがあったのです」
夕占とは、夕方に家を出て、小路で初めて耳にした声を兆しとして占うものだ。
「すると、どこからか現われた老婆がわたくしの腕を掴み、こう言うのです」
――貴方様は、この世でもっとも高貴な女人となられる人相を持っていらっしゃる。
「その時から、こうあることは定められていたのかもしれませんね。夕占のとおり、わたくしは妃になっていて……」
桜の上は悲しそうに俯いた。
「わたくしひとりが、死ななかった。梔子姫、萩の御息所に、太郎君も……気の毒でした」
珠のような涙とはこのような涙を言うのだ、とわらびは思った。ぽたぽたと板に吸い込まれて消える、儚い涙だった。
「もしや、わたくしのせいで、あの方々がこの世を去られてしまったのではないかしら……。そう思うと、恐ろしくてならないのですよ」
泣き濡れた面さえ美しい人だ。己のせいでないことで心痛めて泣いている。絵画にすればさぞや見る者を魅了する出来栄えになっただろう。
わらびが何も思わず、ふと口について出て来たのは、こんなことだった。
……わらびには、わからないよ。
その言葉に、桜の上は優しく笑んだのだった。素朴な物言いに、慰められたのかもしれない、とその時は思った。
桜の上と話した日の夜。
本当に突然の出来事だった。
眠ったわらびの身体を揺り動かすものがあった。見覚えのある黒いもや。わらびの名付け親であるもののけ、不知が少女を上から覗き込んでいた。あいかわらず、どこに目鼻があるのかよくわからない姿形をしている。
「どうしたの、不知」
『む……』
不知は近くで眠るふちを気遣ったのだろう、やや声をひそめながら言う。
『実は拾い物をしたのだ』
「拾い物」
わらびは自分を指さした。わらび自身も不知に会って、名前を付けてもらった身だ。わらびも、もののけの拾い物だ。
「いや、わらびではないのだ」
不知はずずっと横にのいた。すると、黒いもやの影にいた白いものが身じろぎする気配がした。
目を凝らしてみると、それはわらびよりずっと小さな幼子だ。まだ年が三つか四つほどに見える。ぼさぼさの髪をした女の子どもだ。
ただ、肌は恐ろしいほどに青白く、右目はどこでもない虚空を見ているようだった。もう片方の目は空洞だ。黒くて、何もない。
わらびを前にしても表情を変えることなく、ただ右手の人差し指をしゃぶっていた。
ああ、そうか。この幼子は……もう化人ではないのだ。
『この子は忌辺野にいたのだ。ただ、何をするわけでもなく、ぼうっと立っておった。昼も、夜も。いつからそうしておったのかはわからぬ。話をしようにも、話そうとせぬ』
わらびは己より小さな少女ににじり寄る。元は貧しい子だったのだろうか、衣はほつれ、ぼろぼろだった。
まるで、忌辺野で目覚めた時の自分のようだとわらびは思っていると、少女はおもむろに右目を押さえ、ゆらりゆらりと頭を振り始めた。
おやいけない、と不知は言う。
『わらびはほかの者には眩いのであった。なにか、右目を覆う余り布はあるか』
「余り布?」
少し考えたわらびは、ちょうど手元にたぐりよせた汗衫の袖を破った。それを細い布に折って、幼子の頭をめぐらせるようにぐるりと巻く。……ちょっぴり結び目がぐしゃぐしゃだが、右目は隠れた。
幼子はしばらく戸惑っていたようだが、右目が見えないことは気にならないらしい、また同じように突っ立っている。
それだけのことなのだが、不知はたいそう驚いたようだった。
『やはり……特別なのだな。この子が感情を見せたのは、はじめてのこと。わらび、頼まれてくれないか』
「なに? いいよ」
頼まれる前に承諾するわらびである。
『死ぬ前にこの子が持っていたものを、なにか持たせてやってほしいのだ。この世を去る時の、持ち物にしてやりたい。それができるのは『失せ物探し』のわらび、おまえしかおらぬ』
「この子がどこの子なのかもわからないんだね?」
そうとも、と重々しく不知は頷いた(ように視えた)。
『なにも持っていない子なのだ。このとおり、ほとんど心もないような有様だから、わしにもどうすればよいのかわからぬ。でも、おまえであれば、違うことができるやもしれぬ』
「違うこと……」
わらびは闇の中でじっと幼子を見つめてみた。わらびよりも低い背、小さな手と失われた片目。
何も持たない子。前のわらびみたいだ。
「この子にも名はないんだね」
『左様』
「名がないなら、不便だね。名はあった方がいいもの。あればだれかが呼んでくれる」
『そうであれば、わらびが名をつけてやればよい』
「思いつかないよ」
『考えてやればよいではないか』
そう言われたが、思いつかないものは思いつかない。ひき丸にでも相談してみよう。
不知は夜明けとともに消えた。動きが前と比べ、難儀しているように思えたのは気のせいだろうか。
わらびの傍らにはじっと動かない幼子が取り残された。見えるはずの片目さえ布で覆った子がひとり。
わらびはためしに「ねえ」と呼び掛けてみた。
当たり前だが、返事はなく。
また惰眠を貪ろうかと思って、背中を向けたところで、幼子が動いた。
わらびに向かって音もなく這いよったかと思うや。
「……ぎゅえ」
背後から首に両手が回り、わらびの首から背中にかけてずっしりとした重みがぶら下がった。
必死に首を巡らせると、やはり例の幼子がわらびにおぶさっている。重い。
仕方なしに寝るのは諦め、仕事をはじめたけれども。
この幼子が、わらびの背からぴったりとくっついて離れなくなったのだった。




