三郎君
ひき丸が急にどこかに行ってしまったが、このまま三郎君を帰すわけにはいかなかった。なにせ、三郎君は蛙が咥えていた水晶を袂に入れてしまったのだ。あれをどうにかして手に入れたい。腹も減ってきた。
わらびは騒ぎから退散する三郎君の後を追いかけた。従者も連れず、ひとりですたすたと足を進めている。
三郎君が立ち止まったのは、筒宮の北にある宇津田宮だ。梅の枯れ木が、いまだに幻の花を咲かせている。風でそよそよと花の枝が揺れているのを眺めていた。
「ねえ、あれも視えているの。だから蛙もふみつぶしたの」
三郎君もわらびの尾行に気付いていたのか、驚く様子も見せなかった。わらびへ顧みると、しつこい、と眉間に深い皺を寄せ、わらびの問いを振り払うように袖を振る。
「ひどいことをするね。絵の蛙なんだから、誰かが描いたに決まってる。もののけになるぐらいだから、真心で描いた無害な蛙なんだよ。少し驚かせてしまっただけで、踏みつぶす必要なんてなかった」
「真心? あんなものに真心など籠るわけがない。……偽物だ」
三郎君は不自然なほどに言い切った。あれはひき丸の蛙だ。本物も偽物もないのだ。
「昔、同じ蛙を見たことがある。その蛙を描いてみせた御方も存じ上げている。あの場にいたのは、偽物だ」
そして、と三郎君はわらびを睨む。
「偽物の絵師もいる。私には見分けもつかないほど、あの御方と似た絵を描く偽物だ」
「それって……ひき丸のこと? ひき丸が偽物ってこと?」
わらびは腹を立てた。ひき丸が偽物の絵師とはどういうことだ。わらびはひき丸が一所懸命に絵に打ち込んだことを知っているし、ひき丸が描いた絵も知っている。あの絵は、ひき丸自身の中から生まれたものだし、本物だとか、偽物だとかは関係のないことだ。
「ひき丸のことを何も知らないくせに、勝手なことを言うな」
「はたして、そうだろうか」
三郎君は余裕の声音で「証拠はある」と告げる。男は宇津田宮の主殿へと近寄り、縁の下を覗き込む。そして、両手で抱えるほどの匣を引きずり出した。蜘蛛の巣や砂や泥で少し汚れた匣の蓋を取れば、ぴょん、と何かが飛び出して、わらびの頭に乗った。なんだと思って、摘まみ上げれば、墨で描かれた蛙である。魂消たとはこのことである。
これでは、蛙が二匹いることになる。――もう一匹は、だれの蛙だ。
わらびはじいっと蛙のとぼけ顔を観察する。うん、と頷いた。
「これはひき丸の蛙だよ」
三郎君は沈黙した。どうせわらびの言うことなど信じていないのだろう。
構わず、蛙に話しかける。
「おかえり。ひさしぶりだね。ひき丸が心配しているよ」
蛙は口をぱくぱくさせている。わらびの言うことがわかっているかわからないが、ほっとした。これでひき丸が失くしたことを気を咎めることはないだろう。
蛙を掌に乗せたところで、ぐごおおおおおおうぉ、とすさまじい腹の怪音が響き渡る。そうだ、と思い出したわらび。空いた手を三郎君へ差し出す。
「さっき拾っていた水晶をちょうだい」
「それは、これのことか」
三郎君は袖から小さな欠片を摘まんで出した。きらきら、と陽光に光る。わらびは素直に頷いた。
「大事なものなんだよ」
「これが」
男は唇を歪ませる。何か意地悪なことを考えていそうな顔をしていた。
「大事なものならば、犬のように這って探してみせればどうだ」
男が力強く右腕を振ると、欠片のきらめきは、宙へ放り出される。そして、宇津田宮の庭奥に消えた。
同時に、わらびの手の上の蛙が、庭奥に跳ねていく。
「得意の失せ物探しでもしておればよい。……邪魔はさせぬぞ」
そう吐き捨てて去ろうとする背中に、わらびはふと尋ねた。
「ねえ、もう一匹の蛙を描いた人はだれ」
「おまえのような者が知る必要のない御方だ。もういない」
背中が、どことなく寂しそうだった。
もしかしたら、わらびが知らないだけで、この人にも心の奥底に仕舞った人がいるのかもしれないと思う。かと言って、今まで三郎君にされたことは忘れないけれど。
「いつか逢えるといいね、その人と。わらびにもそういう人がいるんだよ」
男は一瞬、固まったように見えた。
「……死んだ相手と、どう逢おうというのか。後世の話か?」
馬鹿にしたような声が飛び、男はずかずかとわらびに迫る。おそろしいほど怒気を孕んでいた。
「私が逢いたいと思うはずがない。貞潔さを装った裏で、人を裏切り、醜い本性を隠し持っていた女だ。あれは死んで当然の女だった! 蛙の描き手を知りたいなら、教えてやろう。あれは、女東宮と呼ばれた高貴な女だった。前の帝を父に持ち、今の帝の次に強い宝珠を持つ女! 絵を好み、描いた絵には魂が吹きこまれる異能を持った、久世でもっとも尊い女人だった。なのに、裏切った。私はあれを生涯許すことはない。わかったなら、その口を閉じていろ!」
ぽけっと口を開けたままのわらびを残し、三郎君はきびきびとした所作で去る。
ふと足元を見た。そこには頬いっぱいに欠片を詰め込んだ蛙がいて、わらびを見上げていたのだった。
更級第に顔を出し、ひき丸に今まであったことを話すと、「お、おま、おまえなあ……!」と呆れられた。
「なんて無謀なことをするんだ……。斬られなかっただけマシだと思え」
「うん、よかった。ほら、無事に失せ物だった蛙も戻ったよ」
わらびの両手の上に乗った蛙は、なぜか己の胸を張っている。いや、俺には視えていないがな、とため息をついたひき丸は、白紙になっていた元の絵を出した。墨の蛙は、ぴょんと絵に飛び込んだ。あっけなく、欠けた絵は元通りだ。元の絵は、一人相撲をとる蛙の図なのだった。
「やっぱり、ひき丸の蛙が踏みつぶされたじゃなかったんだね」
「そうだな……でも素直に喜べない。絵の蛙が踏みつぶされたことは事実だろ?」
ひき丸には気が咎めることがあるらしい。
「ねえ、ひき丸はもう一匹の蛙を描いた絵師を知っているの」
「何か聞いたか?」
「うん。女東宮だと言っていたね」
そうか、とひき丸は上滑りな返事をして、口元を固く引き結んでいる。
「三郎君はその人を許さないと言っていたよ。何があったんだろう」
「その三郎君が馬鹿だってことさ。お前の話を聞く限り、三郎君は俺の蛙だと思って、女東宮様の蛙を潰したってことだろ。ほら、馬鹿だろう? 大事なものを取り違えて、本当に大事なものを壊したんだぜ? 馬鹿だなぁ。笑えるだろ」
絵に戻った蛙を見つめたひき丸は、とうてい笑っている顔には見えない。
わらびは、知っているんだね、と重ねて聞いた。そうだよ、とひき丸は少し微笑む。
「俺にとっては母のような方だ。あの方がいなかったら、俺はここでこう生きてはいられないほどの、恩のある方だ。だが、あの御方は、醜聞にまみれた挙句、不本意な形で失われた」
ひき丸の声には深い悲しみが籠っていた。泣く事のできない悲しみもあるのかもしれない。
「俺は、あの御方の無実を知っている。濡れ衣を晴らさなくてはならないんだ。あの方は正しく国を思われた気高き姫宮であらせられたことを証立てるため、俺はここにいるのだと思う」
「初めて知ったよ」
ひき丸は隠し事をしないけれど、話さないことはある。わらびが初めて知る、ひき丸の心の底だった。
「野心は心の内に秘めておくものさ。大切な物事ほど、口に出さず、慎重に推し進めていくものだろ」
「わらびに出来ることはある?」
少しの沈黙の後、いや、とひき丸は首を振る。
「俺のことなんか心配するなよ。おまえはおまえのやるべきことがある。……そろそろ、欠片は集め終わるころだろ」
わらびはうん、と頷くと、目を瞑る。胸に手を当てると、そこに欠片が寄り集まったモノの存在を感じる。玉の形に近づきつつあった。蛾眉の月から満月へ。
「不思議な感じがするよ。触っていると、胸が温かくなるよ。集め終わったらどうなるのかな」
「戻るんだろ、元の自分に」
「逢いたい人に逢うんだよ」
そう言うと、ひき丸は俯き、わらびの両肩を優しく二度叩いた。ああ、逢えるといいな、とかすれ声で言う。
「なぁ、わらび。俺たちはきっと、化人を救うためにいるんだぜ。忘れるなよ」
「それは、失せ物探しのこと?」
たしかに化人を救っているかもしれない。だが、ひき丸は曖昧に誤魔化した。
「これからの未来もこれまでの過去も、すべてを見通せるわけじゃないってことさ。それができるのは帝ぐらいだろ。……俺たちは、いつまで一緒にいられるんだろうなぁ」
晴れ間が明らかに減ったと化人が気づいたのはいつだったのか。
日の光が当たらなくなった。地面から底冷えがする。雪の時期には早いが、燃えるような紅葉も、この年ばかりは暗さのうちに沈み込んだ。
化人が明らかな世の乱れを感じ取ったのは、ある夜がきっかけだった。
天人たちが守護する都、その奥まった、もっとも清浄なはずの地が穢される事件が起きた。
わらびはその夜、突然の高熱を出して動けなくなっていたのだが、
ふと胸騒ぎがして、寝床から起き出した。そして、遠くで人びとの騒ぎの声を聞く。
助けて、助けて、死にたくない、と泣いている女たちの声が、細い煙のように次々と立ち上がってくる。
わらびは感じた。人の命の火が次から次へと失われていくのを。今から行っても、間に合わないことも。気が付けば、滂沱の涙を流して、その方角を眺めていた。
早朝、佐保宮に急ぎの知らせが舞い込んだ。
後宮の筒宮、そして竜田宮に狂ヒの集団が侵入、わずかな時に内部を蹂躙していった。
筒宮、梔子姫、身罷る。
竜田宮、萩の御息所、身罷る。
同時に、二つの宮にいた女房や下人たちも狂ヒに襲われて次々に命を失う。
また、筒宮に居合わせた梔子姫の父で、大臣の太郎君もまた、娘を守ろうとして襲われ、絶命。鹿毛家の氏長者の訃報により、朝廷は混乱の渦に放り込まれた。
重苦しい季節がやってくる。
狂ヒが跋扈し、化人が怯える、恐ろしい季節が。
蛙の絵合編、完




