金人
あれを見つけたのは、夏の頃。橘宮の邸宅を出るところだった。
橘宮は絵への関心が深く、金人のような絵師にも何かと声をかけてくる。その日も、己が目をかけている者がいるから、弟子にしてみないかと持ち掛けられ、むべもなく断った。
橘宮は残念そうな顔をし、しみじみと「あなたが、まだあの子を忘れないでくださるのがありがたい」と告げた。
「せめて我々だけでも、あの子の本当の姿を覚えていなければ……やりきれない」
金人は、心の奥底に沈めた澱が揺れ動かされたのを感じた。橘宮が竿を挿して、引っ掻き回したためだ。
だが金人の面にはあらゆる感情も浮かばなかった。彼は己が空っぽな男だと知っていた。己の人間らしい柔らかな心を殺された際に己が空になったことも知っていたのだ。
弟子を取らないのは、他人に構う暇などないため。己が進む絵の道に不要だと悟ったためである。橘宮の指摘は的外れに過ぎない。
あれを見つけたのは、橘宮に暇を告げ、優美に整えられた夏の庭を横切ろうとした時だ。暑さで滲んだ額の汗を拭ったところ、背後で気配を感じた。振り返ると、墨で描かれた蛙が老人の後ろを二本足でついてきていた。つぶらな二つの目が愛くるしい。
またか、と金人はため息をつく。
この蛙は金人の蛙だ。己を描いた主人よりも金人を気に入り、金人の後ろをついて歩くようになった。それがあんまり続いたものだから、蛙を描いた元の主人は、絵そのものを金人に渡してきたのだ。それ以来、蛙は金人の家でおとなしくなったのだが、今でもたまについてきてしまうことがある。
金人は蛙を摘まみ上げ、掌に乗せて家に帰った。
しかし、そこで金人は驚いた。――家にも絵の蛙がもう一匹いる。濡れ縁で悠々と寝ころび、尻を掻いている蛙が。
持ってきた蛙を放すと、そいつは家の蛙の元へ行く。……そっくりである。もののけ同士で何を思ったのか、勝手に相撲を取りはじめたのを眺めながら、金人は思案する。
外見がまったく同じ二匹の蛙がいるのは、ありえない。金人が知る限り、絵に描いたものに魂を吹き込む御業ができたのは、ひとりだけ。その御方は、すでにこの世の人でない。
だが、本当に瓜二つなのだ。金人は絵師として、多くの絵師を見て来たし、見定める目も養ってきている。絵師の違いがまるでわからない。
ならば、一体だれが描いた蛙なのか。答えはわからなかった。
例の蛙は時々、金人の蛙に会いにくるようになった。しばらく遊んで、どこかへ帰っていくようだ。
金人は遊びに来た蛙の後を尾けることにした。蛙は月明りの下、二つの足でよろよろ、よたよたと乾いた地面を歩いていき、やがて橘宮の邸宅に至った。門から内を覗くと、建物の中から人影が出てくる。「あ、蛙だ」とのんきな童女の声がした。
「遊びにいってきたの? わらびもだよ」
蛙はぴょん、と童女の掌に乗り、おとなしくなった。童女は蛙の背中を撫でている。
金人はまた驚いた。童女に絵の蛙が視えていたことだけではない。金人以外に懐く人物がいたことに驚いたのだ。金人の蛙は、描いた絵師にすら懐かなかったのだが。
蛙に集中していた童女の目が、門の外へふと向く。金人がいる物陰をじいっと見ている。金人はすぐにその場を離れたのだが、あの蛙のねぐらを知ることができた。
橘宮がぜひ弟子にと勧めてきた絵師。……もしや、あの蛙の描いた者と同じなのではないか。
金人は思案し、その者を試してみることにした。己を抱える鹿毛家の主に、こう吹きこんだ。
「先だって、筒宮と佐保宮で何か物合をしたいと仰せでしたな。絵合など、いかがでありましょうや。橘宮様がよきように取り計らってくれましょうぞ」
重い腰を上げた老絵師に、太郎君はたいそう喜んだ。どうせ絵合の件はとうに腹の中にあって、金人をなだめすかして、どうにか承知させるつもりだったのだろう。すぐさま、金人の望みのままに舞台は整う。佐保宮の絵師は、橘宮の推挙で決まったそうだ。
絵合では、己の絵の持ち合わせは早々に終わらせ、心ゆくまで佐保宮の絵師の絵を見分した。
――やはり、あの蛙は、あの者が描いたものであったか。
絵の描きぶりは、金人の知る御方とよく似ている。あの者と、すでにいないあの御方とは、どういった間柄なのだろう。
疑問は解かれることなく、絵合はあっけなく終わった。……蛙が潰れたから。
家で共に遊んでいた二匹の蛙が、いつのまにやら一匹でいるところしか見なくなっていた。金人の家にずっといる方が、元からいた蛙なのだろう。
初め、どちらの蛙が潰れたのだろうと思っていたが、答えは簡単だった。もうずっと一匹だったなら、潰れたのは金人の蛙だ。
元からいた蛙が、今日に限って金人についてきてしまったのだ。滅多にない華やかな場に出たものだから、上機嫌になり、あちこち見て回ってしまったのだろう。あれは、元の主と似て、そっけない顔で好奇心旺盛だった。変なところで化人臭いところがあったから。
あの蛙は、最期まで愚かで馬鹿だったと金人は思う。ただ、金人の家でぐうたら過ごしておけばよかったものを。
金人は絵の道具の入った包みを抱えて、筒宮の階を下りた。騒ぎはまだ落着していないが、金人はもうお呼びではないだろう。太郎君まで逃げ出したのだから。
しかし、筒宮の門を通り抜けたところで、「金人殿、お待ちください」と佐保宮の絵師が呼び止める。まだ少年からいくつか抜け出たばかりの若者が、視線をうろうろと彷徨わせながら金人へ近寄ってくる。
「本日は有難うございました。金人の絵を間近で眺める機会は滅多にあるものではありません。よい勉強をさせていただきました」
「そうかね」
少しの沈黙があった。相手の絵師は落ち着かない様子だ。物を話すわけでもなく、もじもじしている。金人は相手に「絵の蛙は視えるかね」と尋ねた。いえ、と若者は打って変わって言葉少なに、
「気配は少しだけ。……かわいそうなことをしました」
と、答えた。どうやらこの男は己の蛙が潰されたのだと思っているらしい。それは事実ではないのだが、かといって、この絵師の蛙の行方など知らぬので黙っていた。
「ならば次はもっと巧く描いてやりなさい。あれはまだ、《だれかの》猿真似さね」
「いえ、俺は……」
その先の言葉がどんなものであれ、金人には関係のないものだった。
「おまえという化人の色が、まだあそこに加えられておらぬ。見えない天井を感じていては、若木ものびのびと育たぬぞ。次はもっと巧くやれ」
「……はい」
若者は控えめにだが、しっかりと頷いた。
「俺はそうおっしゃっていただきたかったのかもしれません。有難うございました」




