暴れ蛙
わらびはなんだかムズムズしてきた。落ち着かない。つまらない。とにかく、この場にいるのが苦痛だった。
その時だった。わらびの目の前に、小さな蛙が飛び出してきたのだ。それもただの蛙ではない。墨で描かれた、二足歩行の蛙だ。
つぶらな黒い瞳には愛嬌がある。そして、蛙は口の中にきらっと光るものを咥えていた。あれは、水晶だ。
「あ、蛙」
わらびに気付かれたためか、蛙がびょん、と跳ねた。
「ひき丸、蛙がいた!」
「え!」
突然、立ち上がった童女にみんな目を白黒させていた。橘宮に至っては額に手を当て、空を仰ぐ。
蛙は筒宮の寝殿を自由に跳ね回る。時に、太郎君の烏帽子の上に、時にはひき丸の肩の上に。
「な、なんだ。今、手の上に変な感触がした!」
「俺もだ、何かが足に当たった!」
わらびはぐるぐると目で蛙を追いかけつづけた。蛙は元気いっぱいだ。とうとう少しの隙間から御簾内に入った。竜田宮の女房が金切り声を上げる。
「きゃあっ、萩の御息所さまの顔に何か乗っているわ!」
萩の御息所らしき人影が御座所で両手を宙にもがいている。
わらびはまた目を凝らした。蛙が次に向かったのは、佐保宮だった。佐保宮も、蛙が入った途端に、恐慌状態に陥る。人が激しく動いたため、掛けられていた御簾が落ち、内部が露わになる。
「やめなさい! 落ち着くのです!」
青竹が叫び、桜の上を人びとの眼から隠すように前に出る。しかし、桜の上はあくまでも落ち着いた様子だ。
「騒ぐことでもありませんよ。以前、住んでいた邸にも蛙はたくさんいましたよ。かわいいではありませんか、蛙。この目で見られないのは残念な気もしますが……」
「蛙ではなく、もののけでございます!」
青竹が金切り声を上げた。
わらび、と桜の上は己の樋洗童を呼んだ。
「困った蛙を捕まえていらっしゃい」
元々、わらびもそのつもりだった。
わらびは御座所へ飛び込む。晴れ着も気にせず、袖をまくった。後ろをひき丸がついてきた。その面は真っ青だった。
「わらび。俺には蛙が見えないんだ。頼む」
しおらしいひき丸とは、珍しい。頼み事をされるのも普段ほとんどないことだったから、うんと胸を張る。
「いいよ」
そろそろ動き疲れていたのか、蛙はびたん、びたん、と畳の上にのろまな動作で跳ねるのをやめた。中腰で腕を構えたわらびと相対する。
蛙は口いっぱいに水精を頬張っていた。どこで手に入れたものかわからないがちょうどよい。腹も減ってきたところだ。
驚かさないようにそうっと手を伸ばす。あと少しで捕まえられるという時、突如、蛙がわらびの肩に乗り、その肩から大きく伸びあがった。
「あっ」
振り返ったわらびが止める間もなく、ある者が着地した蛙を上から踏みつぶした。びちゃん。嫌な音が耳底で響いた。
「……何ぞ踏んだ。気持ち悪い」
墨で真っ黒になった足の裏を無感動に眺めた三郎君は、わらびへ顎をしゃくった。
「水を張った盥と布を持ってこい」
「はっ、お待ちくださいませ!」
押し黙るわらびに、すかさずひき丸が助け舟を出し、筒宮の女房に用意してもらえるように頼みに行った。
三郎君はその場で胡坐をかき、どっかりと座った。そして、足の裏で踏んでいた水精の欠片をつまむ。手のひらで転がし、観察しているようだった。
改めて辺りを見渡せば、絵合の場は散々な様子だった。逃げ出した者もいれば、騒ぎで衣裳を着崩した者、几帳の裏でぶるぶる震える者もいる。かかっていた御簾がすべて落ち、豪華な調度品も壊れてしまっていた。これでは絵合を続けられない。仕切っていた太郎君さえいないのだ。
「むごいことをされる。あれは絵師ならばだれもが夢見たものでありますぞ」
ひき丸が出した二枚の絵を眺めていた金人は、深い皺の刻まれた面を上げ、三郎君にいざり寄る。
「絵師の筆で絵に魂を宿らせるのは、天賦の才ある者にしか許されぬ御業。もったいないことをなさる。実に、もったいないことをなさる。あれはとてもよく描けた蛙でございました」
いや、と三郎君は首を振る。
「あれは、みなを惑わせていたぞ。このありさまが見えぬか、金人。兄上の段取りが水の泡になった。すべてあの奇天烈な蛙のせいではないか。あの蛙を描いた者を罰せねばなるまい」
三郎君は汚れた足の裏を金人へ見せつけるようにする。
「そして、描いた者もおおよそ検討がついている。偶然、ある者たちの会話を耳にしたもので」
三郎君は、意味ありげにわらびへ目を移した。手の中では水晶を弄んでいる。面には微笑すら浮かんでいるが、目の奥は笑っていない。
蛙を踏みつぶしたのは、わざとだ。わらびは確信した。三郎君にはひき丸の蛙が視えていたのだ。そうでなければ「奇天烈な蛙」などとは言うはずがない。
ひき丸の蛙。ひき丸が探していた蛙なのに。踏みつぶされるためにあの蛙を描いたわけがない。だって、あの蛙は、とても生き生きと動いていた。ひき丸も気にかけていた蛙だ。抜け出した絵はもう二度と戻らない。永遠に失われてしまったのだ。
三郎君はやはりひとでなしだ。大切なものが何もないから、無情になれるのだ。
わらびは何かを言おうとしたが、それより早く口を開いた者がいた。
「どこの誰のことを言っているか存じませぬが、あの蛙を描いたのは、この金人でございますよ」
「ほう」
三郎君の眼が驚きを隠しきれないように大きく開いた。
「おかしなことではありますまい。この金人は当代一の絵描きでございますれば」
「では、こう尋ねよう。……なぜ、こんなことをしたのだ」
「なぜというのはおかしな言いようでございますな」
金人は腹の奥から嗤ってみせた。
「むしろ、鹿毛家の者はお忘れになられたのか。なかったことにされますか」
ふう、と息をついて金人は低く唸る。
「三郎君は、亡き御父上に一番似ておられますなぁ。あの方と、同じことをなさるつもりで?」
三郎君は金人の疑問には答えない。涼しい顔で問う。
「鹿毛家に恥をかかせたかったということか? おまえも存外、人らしいところもあったものだ。娘が我が父のせいで焼き殺されたために復讐しようと考えつくとは」
「……娘は、わたくしめを化人たらしめる唯一無二の者でございました」
いかがなさいますか、わたくしめを罰しますか、と金人は三郎君に問う。三郎君はしばらく押し黙っていたが、いや、と首を振る。
「当てが外れたからやめてやろう。今回は見逃す」
「はっ」
三郎君の元へ筒宮の女房が盥を持って戻ってきた。三郎君の足が清められる中、わらびの隣に来たひき丸は、何かあったか、と尋ねた。
「よくわからない」
「変な答えだなあ」
そんなひき丸へ三郎君の眼が向いた。感情が読み取れない目である。三郎君は次に金人へ目を移す。
「金人。お前から見て、絵合はだれが勝った?」
「わたくしめの勝ちでございます。まだまだ、当代一の名を譲るわけには参りませぬ」
問われた金人はいまだ持っていたひき丸の絵に目を落とし、「ただ」と付け加える。
「少し、心惹かれる気持ちになりましたな。この者はよき絵描きとなるでしょう」
ひき丸はやや困った顔になりながら、金人に会釈する。金人は鋭い眼はそのままに、でも不思議と嫌な感じにならない声で、「励みなさい」と告げ、絵を返して去った。




