物言ひ
「次の絵を見せなさい。……ひき丸」
橘宮は何事もなかった顔で次の絵を催促する。
はっ、と返事をしたひき丸が巻いた紙をしゅるりと解き、取り次ぐ役のわらびを見つめる。
ひき丸は言葉少なだった。表情もいつもより硬く、笑顔がない。
「頼む」
わらびも応えるようにうん、と頷く。それから絵を見下ろし、にこりと花の笑みを浮かべた。
――どんな絵を出してくるかと思ったら。とてもひき丸らしい。
「恐れながら、わたくしめは絵所の絵師でさえない、無名の青侍でございますが、多少の風流を嗜みまして、このような場に参上する機会を得ました」
一斉にひき丸へ注がれる好奇の目。だれとも知れぬ武者が当代一の絵師に挑む無謀さを嘲笑ってはいまいか。
しかし、ひき丸はどっしりと地に太い根を下ろした大木のように、微塵も揺らぐ気配がない。周囲の懸念を薙ぎ払うように、正面から視線を受け止めた。
「この絵は『おぼろの桃園』でございます。都近くの山中をさまよい歩くうち、幻のように立ち現れる幻の桃林は、古来より多くのひとびとを魅了して参りました。辿り着こうとした者は数知れず。ただ、辿り着ける者はごくわずか。生涯で一度だけ訪れることが許されるのでございます。
わたくしは春、かの桃園に立ち入ることとなりました。その光景を描いたものでございます」
ひき丸が見せたのは、わらびへ渡した絵とは少しだけ違う絵だ。絵の中にわらびとひき丸はいない。
代わりに桃園に逍遥する男女。女を男がおぶっている。
「ある御方が、昔話をされました。ある女人と恋仲になったものの、ひきさかれ、女人は他の男の妻となったことがあったそうです。そうなる前に、その御方は女人を連れ、この桃園を訪れて約束したのです。この絵に書き入れました詞書はその約束でございます」
『あかざりし桃の花』。
『千代にかざせよ桃の花』。
橘宮は何も言わず聞き入っていた。
「本当はその女人を連れて逃げてしまいたかった、とその御方は後悔されていました。その昔語りを基に描きました絵でございます」
絵を見た太郎君は目を眇めて、「悪くはないようだが」と口火を切る。
「迫力が足りぬ。凄まじいまでの筆力がここからは感じ取れぬ。そなた、ここに居並ぶ御仁の顔ぶれを存じておるな。悪いことは申さぬから大人しく引くのだ」
それは違いますぞ、と橘宮がやんわりと遮る。
「絵師として持っている作風が異なるのです。金人が迫力であれば、ひき丸は情感で見る者を訴えかける。どちらが上ということでもありますまい」
「宮様はあの者をよく知っているからでございましょう」
太郎君は少し棘のある言い方をした。兄上、と止める声が入る。
「宮様がそんなつまらぬことをされるとお思いで? 私もこれは良い絵だと存じます。霧に見立てた胡粉の使い方がとてもよく、女を抱えた男の憂い顔の表現がすばらしい」
末弟の三郎君の言葉に、ううむ、と太郎君が唸り、やがて両膝を叩いた。
「悪かった、皆の者。次に行こう」
供覧された絵は、一周すると本人の手に戻ってくる。わらびもひき丸に絵を渡そうとしたのだが「渡せ」とだみ声が飛ぶ。
太刀のように鋭い眼がわらびを見つめていた。じっと目を合わせたわらびはすぐさま応じた。
「いいよ」
老絵師の手にひき丸の絵が渡る。
わらびはすぐに次の絵をひき丸から受け取った。ひき丸は金人に絵を見せたことには触れず、ただ「頼む」とだけ言った。
「二枚目の絵は『鵜の一族』。鵜の一族と申すのは、青野川のもっと上流にある神有川に住まう漁師の一族でございます。彼らは夜、鵜を用いて鮎を獲るのですが、この絵はそのさまを描きました。
わたくしめの友が、ここには描かれております。その隣で立つ髭の男は、その父です。友はもう都にはおりませぬが、友から聞いた話を絵に起こしました」
わらびは思い出す。
この絵は初め、故郷に帰るたづ彦へ持たせようと描いたものだ。見せられた本人は『ふうん。いいじゃねぇの』と口を曲げていたけれど。結局、たづ彦は絵を受け取らなかった。
『おまえたちが持っておけ。……そんで、忘れるなよ』
そう言って旅立っていったのだ。……そうか。ひき丸はこの絵も見せることにしたのか。
絵詞にあるのは、『瀬をはやみ 岩をせかるる滝川の われてもすゑに あはんとぞ思ふ』。ひき丸は、別れた友に、また会おうという願いを込めて書き入れたのだ。
「萩の御息所はいかがでしょうか」
太郎君の問いに、ずっと沈黙を守っていた竜田宮の妃が「よろしいのでは」と感情の籠もらない声で言う。
「鄙びた地にある変わった景色です。面白いですわ」
「のびのびとした筆遣いだ。一本一本の線に心が浮き立つ。ひき丸はこういう絵となると水を得た魚のように巧く描く」
橘宮が穏やかな口調で批評する。
「太郎君、ここまで二人の絵を二枚ずつ御覧いただきましたが、どう判じますか」
「わたしの返答は初めから揺るがぬ。宮様の眼は今日ばかりは曇っておいでのようだから。みなのものもそう思わぬか?」
わらびはそう言っている太郎君の手から絵を受け取った。改めて画面も確認した。いい絵なのに。
二人の絵の優劣はともかくとして、太郎君がまともにひき丸の絵を見て、判じているとは思えない。なぜなら、太郎君は圧倒的な差で金人が勝つものと決めてかかっているからだ。
太郎君、と橘宮が眉根を寄せた。
「判者はあなたさまではございませぬぞ。萩の御息所とこの橘宮です。
わしは、まだ勝負がついたとは思わぬ。まだ続きを見せてもらいたい。萩の御息所はここまでをどう判じられますか」
また意見を求められた萩の御息所。御座所の影が、あからさまにため息を吐く。
「もう意見など聞かないでくださいまし。絵など、どうでもよいことですわ。ばかばかしい」
怒り、絵付けされた檜扇をばらりと開いて、面を隠す。
「お情けで設えられた席に座ったものの、その実、私など体面を整えるためのお飾りに過ぎませんものね。こうなったら、居てもいなくとも大して変わりませんでしょう?」
「そのようなことはございませぬぞ」
ほほっ、と萩の御息所は嘲笑う。
「太郎君は、おつむがおかしい梔子姫をどうしても盛り立てたいのですものね。さぞやご苦労されていらっしゃることでしょう。妃になった自覚さえない御方ですもの!」
明確に嫌味を言われた形となった太郎君は顔を真っ赤にした。しかし、それでも秋の妃は止まらない。止めていた堰から水が溢れたようだった。
「ご存知の通り、この絵合は佐保宮と筒宮の争いですわ。私のような年増な女は敵には非ず。そういうことですものね。ええ、知っておりますわ。私は筒宮のように実家に恵まれず、佐保宮のように帝から愛されぬ女だと噂されております。それでもお情けをくださった橘宮さま、感謝申し上げますわ。だって、三人の妃が一同に会することなど滅多にありませんもの。見定める良い機会となりました」
落ち着かれなさいませ、と橘宮が諫めたが、口調に覇気がない。少なからず「お情け」という言葉が刺さったのだろう。
「梔子姫は評判通りの人形ですね。自分の心すら持っていらっしゃらぬご様子。周囲に言われるがままの人形に、果たして妃の役割がふさわしいとは申せません。
桜の上は恐ろしい女狐ですわね。その美貌と若さで主上をたぶらかしたのでしょう。ご懐妊されたのも運がよいのでしょう。しかし、無邪気さを装っているところが気に入りません。本当はしたたかなくせに。私だけは騙されたりしませんわ」
雲行きが怪しくなってきた。人の悪口を聞くのが、絵合なのだろうか。大勢が集まる場で感情をあらわにした萩の御息所が考えていることがわからない。
御息所は桜の上の御座所を扇で指した。
「ごらんなさい。そのうち化けの皮が剥がれますわ。あの御方……宇津田宮《うつたのみや|》《・》に住まわれていた御方と同じですわ」
場が静まり返る。筒宮と佐保宮の女房も殺気だっていた。一人我関せずの姿勢を貫き、二枚目のひき丸の絵を眺めている金人を除いては。




