来迎図
筒宮の南面は、外に面した部分を除いた三方に御簾が垂らされた。御簾の内にいる妃の御座所同士も几帳で隔てられている。それぞれの妃には女房が数人同席することを許された。
男たちは南側の板敷に敷いた円座か、畳の上に着席した。着席を許されぬ身分の者は地べたに簡易な床几を立ててそこに腰を下ろす。
わらびの到着時は人がまばらで広々と感じられた筒宮も、御簾の内に桜の上と萩の御息所が着座した頃には、集った人々の多さでにわかに活気づく。
桜の上の席は向かって右の御簾に。萩の御息所は判者のため、中央の御簾の後ろにいる。御息所の前方に場を仕切る太郎君と橘宮が円座の上に座っていた。
最後に御簾の奥から筒宮の主、梔子姫の小さな影が大勢の女房たちにかしづかれながら現れると、場にぴんと緊張の糸が張る。
わらびは橘宮が指示したように梔子姫と萩の御息所がいる御簾の前あたりでちょこんと正座をした。時折、橘宮がちらちらと後ろを見てくる。心配せずともわらびは何もしない。
「さて、みな集まったようだな」
橘宮の隣にいる太郎君が片膝を叩く。
太郎君は明朗快活とした男であった。あのひとでなしの末弟と違う。陽の気に溢れ、笑みにはひとなつこさがある。声も太く、よく通った。
この男がはたはたと手を打てば、わざと空けられた濡れ縁の中央に男が二人進み出て、深々と平伏した。
ひとりは痩せぎすの老いた男で、顎に白髭をたくわえている。ひどく恐ろしい眼光を放つ。あれが金人であろう。
もうひとりは少年から少し抜け出たばかりの若い男。いつもの着古した浅葱の水干ではない。濃い蘇芳色の狩衣を纏い、きっちり烏帽子もかぶっていた。その顔立ちは平凡。だが誠実さと実直さが表に現れた「若い男」。
「……ひき丸にございます」
居並ぶ貴人を前に堂々と声を張る青年。
わらびは、あの人を知らない。別人のように澄ました顔をする男は、わらびの知るひき丸ではないのだ。
――ううん、本当はわかっていたことなんだ。
童女のわらびに調子を合わせていただけで、ひき丸はすでに一人前の男だ。気づこうとしていなかっただけだ。ひき丸だけひとりで遠くに行ってしまうかもしれないと認められていないだけ。
挨拶を述べて頭を少し上げたひき丸がわらびを見つける。視線が邂逅するや、ひき丸はにやっとした。あの笑みである。俺、ちゃんとやっているだろ、すごいだろ、と言いたげではないか。
なんだか妙に腹が立つわらび。ふん、と面を背けてみせる。……不安がって損した。
太郎君の口上を終えれば、わらびの出番である。わらびもこういう場ではそこそこ空気を読むので、表向きは楚々として動く。
絵合で出す絵は、絵師にそれぞれ持たせており、わらびがそれを一枚ずつ受け取ってから、判者に披露し、それからそれぞれの妃に御覧いただく。そしてまた判者の手に渡すことになっていた。
絵合は一番から三番まである。
「左方、一番の絵を持ってまいれ」
橘宮が命じるがままにわらびは動く。左方の絵師、金人の手元から一帖の絵を受け取り、判者の橘宮に差し出した。
橘宮は、ほぅ、と瞠目した。そのまま食い入るように絵を眺めるや、むむ、と唸る。
「これを始めに持ってくるとは……絵から妄念が溢れんばかりではないか」
金人が初めに出してきた絵は、地獄を描いた絵である。画面いっぱいに、地獄で苦しむ人々が描かれている。
釜茹で、八つ裂き、美女を求めて剣山に群がる人々。画面からすさまじい火炎の熱気が伝わってくる。
まして、秀逸なのは、人の苦悶の表情だ。しかめ面、おどけ顔、泣き顔。絵の人物たちの表情が生き生きと伝わる。
わらびもこの絵を次から次へ見せるうちに何度か盗み見たが、描き込み方が細かい。奇麗というよりは面白い絵だと思った。
しかし、この絵は御簾向こうの女たちには不評なようだ。絵を見るなり、顔を背ける者や、絵を手で押しのける者までいる。もったいない。
「この世は儚きものにて、死後に至るは地獄でございます。この身体も畜生へと返り、畜生の魂は永劫の炎で焼かれるものでありますゆえ。化人の悲しき定めでございます」
絵師の金人がしゃがれ声で絵の補足をする。髷に納まり切らない弱々しい白髪の一房が、落ちくぼんだ頬へ垂れた。
「人が苦しむ姿にこそ生が宿るもの。それゆえ、わたくしは人の苦しみを描かずにはいられないのでしょう。業が深いというのはまさにこのこと」
「何を言うのだ。お前の絵はすばらしい。人の苦悩を見て来たかのように描く手腕は、あっぱれとしか申せぬではないか!」
太郎君が屈託なく笑うのを、金人はひっそりと微笑んで応える。そして、話を続ける。
「生まれながらに穢れを帯びた我々にも救いがございます。極楽浄土へ至る道筋を照らしてくださる輝く日の一族が降臨されております」
金人が次の絵を見せようとした。
おや。わらびはひき丸の方を見た。ひき丸は絵を描いた巻き紙を解きかける手を止めた。それから、橘宮やわらびへ視線を向けた。
本来ならば、金人とひき丸の絵を交互に披露する手はずになっていた。金人はその手はずを堂々と無視したのである。
「早く見せなさい」
わらびに太郎君の声が飛ぶ。太郎君も事の次第を知っているはずだが、この場は素知らぬ顔で進行することを決めたようだ。わらびは金人から絵を受け取り、橘宮たちの元へ運んだ。
「天人と呼ばれる方々、それぞれがお持ちの宝珠は、化人に救いをもたらすものと言われております」
現世で徳を積んだ者が死んだとき、極楽は使いを寄こし、その者を迎えに行く。その時、空から極楽に咲いた花が下界に散り、妙なる香と楽の音が漂ってくる。極楽の行列は黄金に輝き、うっすらと発光した美しい天女が死んだ魂に手を差し伸べるという。
この様子を描いたものを、「来迎図」と呼ぶ。
「ここ近年では、鹿毛家の氏長者であらせられた夜明公が身罷られた際、幻のように立ち現れたのがこの行列でございます。このわたくしも、直に目にすることがございました。まことに尊き方でございました」
夜明公。鹿毛家へ現在に続く繁栄をもたらした天人だ。臣籍降下した後に、鹿毛家の当時の氏長者の娘を妻としたこの男は、太郎君たち三兄弟を養子とし、氏の長となり、太政大臣まで上り詰めた。
絵合の左方は、筒宮だ。鹿毛家が後見しているのだから、夜明公のことが語られるのも致し方がない。その男は鹿毛家に今も燦然と輝く太陽であり、帝王となって君臨しているのだから。
「力強い筆なのだが、不思議と優美さも醸し出しておる。金人が今まで描いたものとは趣を異とするが、これもよい。この着物の皺の描きこみの見事さよ。まるで本当の風にたなびいているようではないか」
「それだけではないぞ、橘宮。天女の眼を見よ。すべてを見透かしたような静寂を湛えた眼光は、地から茫然と見上げる化人に向けられておる。救いの眼は平等に彼らにも注がれておる」
たしかに、と橘宮は同意し、太郎君は胸を張る。
「しかし、群衆の描写もまた見事であるのだ。ひとりひとり描き分けられておる」
来迎図は御簾向こうの女人にも見せられた。御付きの女房たちは首を長くして、来迎図に見入っている。
「いかがかな、佐保宮の御方」
太郎君から話を振られたことで、桜の上を取り巻く空気がにわかに緊張を帯びた。
「とてもよい絵だと存じます」
柔らかな花のような声が控えめに響いた。
「来迎図はえてして来迎の行列を細やかに描きがちですが、この絵では、行列と対比するように描き込まれた群衆にこそ注目すべきように思います」
「どういうことでしょうか」
橘宮が尋ねれば、桜の上はゆっくりと、「人々が、来迎という出来事に出会い、各々の立場からさまざまな心境をのぞかせるように見えるのです」と語る。
「わたくしの知る来迎図は、極楽からの迎えにひれ伏し、拝む人々が小さく描かれたものばかりでした。この画は違いますね。夜明公の極楽往生に対して、驚く者、噂する者、首を傾げて懐疑的な眼差しを向ける者まであるのです。群衆を一様に描いていないのです。
すなわち、この絵の群衆はすべて同じ心を持つ塊ではなく、ひとりひとり異なる心を持つ人の集まりとしてあるのです。そこが新しく思えました」
「筒宮はどう思われましたか?」
桜の上の話を遮るように太郎君が実の娘に話を振り、絵が筒宮の人々に渡る。
梔子姫の御座所では、御付きの女房たちが姫君にいろいろ囁きかける。やがてか細い少女の声が御簾内から漏れ出た。
「すばらしい……もの……と。きらきらしくて……」
蚊の鳴くような声がぷつんと途切れ、沈黙。
姫らしき御簾の透き影が左右にゆらゆらしていた。……寝ている?
慌てて筒宮の女房が利発な意見を述べたが、もう遅い。
これは、桜の上と梔子姫を争わせ、桜の上の無教養さを露呈しようとしていたであろう、太郎君の明らかな失策だった。
「うむ。たしかにすばらしい画であるな!」
太郎君は大口を開けて笑った。場が凍り付いたことに気付いているのか、いないのか。




