太郎君の思惑
絵合当日。わらびは催しに花を添えるべく、橘宮直々に贈られた衣裳に袖を通した。
一番外側に来る衵は表が菜種色、裏が萌黄色の浮織物だ。その下に重ねた単衣の色合いは内側へ向かって蘇芳から青、白に変わる。
白く浮いて見える浮織物の模様は臥蝶丸と呼ばれるもの。伏せた四匹の蝶が羽を広げて向かっているような形をしている。
わらびのような樋洗童が着ることは滅多にない上等な着物だ。わらびが絵を持って絵合の場を歩き回ったとしても、華やかな場に埋もれない明るい色合いをしている。
ひき丸に衣裳を持たせてきた橘宮は、
「これは済子が幼い時分に着ていたものだ。わらびに着せてやってほしいと頼まれた。わらび、せめて済子の心遣いに恥じない働きをしなさい」
あとは何もするなよ、と言わんばかりである。
「わらびは絵を見せて回るだけでしょ。何もしないよ」
橘宮は喉の奥で何かが出かかっているような顔をする。傍に座るひき丸は明後日の方向を見やり、「無意識にやらかすから始末が……」などと呟いていた。
わらびが何かをやらかすかはともかく、衣裳はどうにか着られた。ふつにも少し手伝ってもらった。彼女はわらびを見上げて、深く深くため息をつく。
「どうにかなってしまいそうだわ。相手は絵師の金人だから、勝ち目は薄そうだし……。もし負けたら、佐保宮の評判が落ちたと噂されるわ。噂する人たちは無責任だから、桜の上にすり寄っていても、いつ裏切るかわからないでしょう」
やる前から先の心配ばかりするふつ。わらびはその両肩をぽん、と叩いた。
「ふつは不安の種が多いね。いらないものは捨ててしまったら?」
「とりこぼしがあったら怖いでしょう? 一歩進めば、真っ暗な穴に真っ逆さまになることだってあるのよ? 何があっても大丈夫なように、たくさん考えた方がいいでしょう?」
「それは違うよ」
ふつの身体には余計な力が入っていた。緊張しているのだ。肩をそびやかし、唇はこわばり、目の奥に怯えがある。
「心が恐怖でいっぱいになっていたら、ふつは幸せになれないよ。どんなに恵まれた身の上でも、幸せを感じられないんだよ。それは不幸と同じなんだよ」
心配ごとにはきりがない。とめどなく溢れていく。心の堰を押し流し、壊してしまうこともある。
「だいたいの物事は、ふつが考えたところでどうにもならないんだから、放っておけばいいんだよ」
ふつの家族も、桜の上の身の上も。幼いふつに動かせるほどの力はない。他人の心は思い通りに動かせない。
「自分でどうにかなることだけ、心配すればいい。あとの悩みは必要ないものなんだ。思い切って捨ててしまおうよ」
「言うこともわかるけれど」
ふつは戸惑い顔になる。心からまだ納得できていないようだった。
「それなら、とっておきのおまじないを教えるよ。眼を瞑って」
こう、とふつは素直に目蓋を閉じた。そこへ、コンッ、と額に小気味のいい音が鳴る。
「あたっ。何をするの!」
ふつはしくしく痛む額を押さえ、涙目で抗議した。こともあろうに、同僚が中指で額を弾いたのだ。
「私をだましたのね、わらび! 許さないわ!」
怒りで我を忘れたふつは、両手をあげてわらびに襲い掛かろうとした。それをひょいひょいと躱したわらびは、ひとしきりふつの憤怒が発散されるのを観察した。落ち着いたところで最後に、
「今の気分はどう?」
「……すっきりした」
ふつの肩から余計な力が抜けていた。両手を後ろ手についた少女は、着飾ったわらびを呆けた顔で見上げていた。
「たしかに、わらびが何かしらやらかしても、私に災いが降りかかるわけでもなかったものね。うん、納得したわ」
私、絵合に出ないし。いたところでわらびを助けられないし。
妙に明るい口調になっているふつは、鼻歌混じりに局を出ていった。どこに行ったか知らないが、しばらく戻ってこないだろう。
何かが違う方向に振り切れた気がするな。わらびはそう思うも、重苦しい顔で傍にいられるよりはだいぶましだと考え直した。
わらびは、真新しい衣裳で廊に出た。そろそろ筒宮に出かけるころだ。
今上の帝は画を好むという。自ら筆をとることは少ないが、さまざまな画を蒐集し、時には桜の上と画の談義を楽しんでいるようだ。
筒宮に娘を送り込んだ鹿毛家の氏長者、太郎君はそれを聞くやいなや、方々へ手を尽くして数々の名画を取り寄せた。画を目当てに帝が筒宮に関心を持つのではないかと考えたのだ。さすれば娘の梔子姫をお召しになり、ゆくゆくは次代の帝を生み、国母となり、鹿毛家の将来も安泰である。
だが今上は頑なに佐保宮の桜の上を寵愛した。とうとう懐妊まで。
梔子姫は齢十三だ。子を孕むには早いにしても、桜の上に先を越されるのは太郎君には面白くない。
桜の上が子を生む前に知らしめようではないか。
我らこそが上である。
あなた様はなよなよしい桜の花。散るしか知らぬ儚い花で、『実』をつけるものではありませぬ。
「……そなたには期待しておるのだ。この絵合は筒宮が圧倒するのだ。後宮で日輪のごとく輝くのは筒宮、ひいては我が娘、梔子であると知らしめよ」
自邸の寝殿で、太郎君は眼前で頭を低くする小柄な白髪頭を見る。床に揃えてついた指先には、絵の具が小さく凝り固まっていた。
「主上もこたびのことに関心を寄せておられるとのことだ。そなたにも悪い話ではあるまい」
小汚い爺である。先ほどから一言も話さず、太郎君の語りかけることに耳を傾けている。
「わしは佐保宮に勝ちたい。鹿毛家の命運はそなたの肩にかかっていると心得よ」
「はっ」
ようやく、老人が短く言葉を発した。
太郎君は絵合のために当代随一の絵師を用意させた。名は金人。
人曰く、彼の絵はあまねく神の心を動かし、描いたものはさながら生きているようである、と。
絵への執着も人並み外れている。火に巻かれた人の苦しみを描くため、己の娘を牛車に入れ、火を放ったという逸話もある。そのせいもあってか、この男がまるで地獄の業火を背負って見えた。身体の芯が震える心地がした。陰鬱で、ぎらつく眼を持った小男である。
やってもらえるか、と重ねて問えば、老いた絵師は深く平伏したものだ。
「御代で一の臣下であらせられる御方が望まれることならば、つつしんでお受けいたしましょうや」
わずかに頭を上げたその眼光の鋭さたるや、虎の眼よりも凄みがある。太郎君は冷や汗をかきながら、表向きは顔色変えず、うむ、と鷹揚に頷いてみせたものであった。
その後、絵合の話を耳にした末弟は厳めしい顔をして、「考え直されては?」と反対した。
「兄上の方策は上等なものではありますまい。今動くのは早計でしょう」
「なぜだ。何事も先手をうたねばどうする。桜の上が子を生むぞ」
「子を生んだところで何ですか。皇女かもしれませぬ。男子であっても今すぐどうこうはありますまい。ここは腹を据えて……」
「いや、ここはあえて勝負に出るべきだろう。帝の桜の上への寵愛は日に日に増している。主上には一旦、よそへ目を向けていただくべきなのだ」
「それが梔子姫を前面に出しての絵合なのですか」
弟の口調には隠しきれぬ呆れがあった。娘を一番にして何が悪い。
「たしかに絵合そのものは悪くありませぬが、兄上の眼は今、濁っておられるのをご存知か?」
「なに?」
歯に衣着せぬ弟だ。普段はそんなところも可愛く思うが、近ごろは意見が合わぬことが多くなってきた。
「『子を思う親の闇』に惑っておられるのでは?」
我が子を心から思うからこそ、親は冷静な判断ができなくなるという世間でも言われる常套句である。
「何を言うか。親の欲目をなしにしても筒宮さまはとてもお美しくなられているではないか。この美しさならば主上の関心を惹けると思って、入内させたのだぞ」
娘の容姿については、弟もすべては否定しなかった。
「たしかに長じた暁にはそれなりにはなるでしょうが……美しさだけで人の心は奪えませんよ。兄上、梔子を後宮の本命にするのなら、なぜ『中身』を詰めなかったのですか。兄上があらゆるものを与えすぎたからか、あの子には自我というものがありませんよ。何も己で決められない。人形が女狐に勝てると思っているのですか」
弟は弟なりに心配しているようだが、太郎君にはその心配こそが不思議であった。
桜の上も似たようなものではないか。帝に愛されて、愛されて……愛されるだけの、女だ。
「筒宮さまにはこの父がいる。鹿毛家も、そなたもついているだろう。幼いところは補ってやればよいのだ。……それに、筒宮さまはああでよいのだ」
いまだ真っ白で染まらぬ娘。未踏の新雪、空白の画幅、できたばかりの白絹の手触り。だからこそよいのだ。
まっさらな梔子姫に、好みの色を足して染め上げる人物はこの世でただひとり。太郎君の役目は極上の器を差し出す、ただそれだけだ。
「梔子姫に手を入れ、新雪を踏み荒らし、画幅に墨を垂らし、染色を施すのは帝のみである。鹿毛家の差し出す妃は無垢なのだ。今上の母君もそうであったから愛されたのだからな」
三郎君はただ嘆息した。若いくせにいちいち年食った仕草をする。肌のたるみが気になったことなどないだろう。
「なんだ、気にいらぬか」
「いいえ。今の鹿毛家を率いているのは兄上ですから」
「納得しておらぬと言っているようなものではないか」
弟は答えず肩をすくめて立ち上がる。思わず言った。
「三郎。そなたは二郎のようにわしの元を去りはすまいな」
「あいにく、出家遁世の願望はありませんので。……私はどうあがいても俗世間から逃れられませんよ」
弟は宙を見ながらふと何事かを考えていたようだった。あれはあれなりに、己の兄について思うところがあるのだろう。「世を儚んで突如出家を思い立った愚鈍な兄」と思い続けてもなお、断ち切れぬ「何か」。血縁は、憎悪と親愛が常に隣り合わせだ。
「……まだもう少しだけ、義父上が生きていらっしゃったら、何とおっしゃっていただろうか」
ただの思いつきで口にしたことだった。天人の生まれでありながら、先代の氏長者になった夜明公は、三兄弟にとって育ての父でもある。太郎君にはこよなく尊敬する父であったが、三郎君はいつも一歩引いた態度でいた。夜明公はそんな弟を気にかけていたようだが、親心がわからないのも子の心である。
「知りませんよ。死んだ者は死んだままです」
弟はぴしゃりと言う。
「何にせよ、絵合では侮らぬことです。桜の上には常に運が味方するようですから」
よいよい、と太郎君は微笑んで手を振った。
「金人が勝てばよいのだ。梔子姫さまが中宮となられた時には、わしも摂政か関白に上がる。そうなればどうとでもなるわ。
三郎よ。わしは我が娘がこの国でもっとも尊き地位に座るのを見てみたいのよ。我が孫が帝となるのをこの眼で見たい」
まだ幼く、物もよく知らぬ我が娘。父は、国で一番高いところの景色を見せてやりたい。そなたの幸福はここにある。娘にしてやれる精一杯の贈り物だと、誇らしく差し出してやりたい。
まだ帝に寵愛されぬのは歯がゆいが、それも時が解決してくれよう。桜の上さえ、いなければ。――桜の上さえ。




