桜の人
日がすっかり落ちて、灯台に火が点されるころ。ひき丸が更級第に帰ってきた。
「来ていたのか」
「うん。ひき丸はどこに行っていたの?」
あぁ、とひき丸は言い淀みながら後頭部を掻いた。
「佐保宮に行ってきたんだよ。ちょうどわらびとは入れ違いになったみたいだな」
桜の上への文を渡した後、わらびを訪ねようとしたという。
「今日は水精を見つけたか?」
「ううん、まだ」
ひき丸が、わらびの掌に欠片を握らせ、手招きした。少女は欠片を口に放り込みながらついていく。
ひき丸が連れて来たのは、ひき丸の室である。襖や壁代で囲まれた中に、使い込まれた文机があり、そこら中に貝殻の上に溶かれた絵の具や筆、硯が散乱していた。ひき丸は画家としても橘宮に目をかけられているので、他の者の室よりも広い。
ひき丸は文机の上にあった料紙をわらびに持たせ、灯台を手繰り寄せて、火を灯す。
二人で頭を突き合わせ、料紙に描かれたものを見た。
「奇麗……」
紙上でたくさん桃の花が咲いている。曲がりうねった川もある。まるで一面が桃色の薄布がひらめいているよう。わらびが春に見た『おぼろの桃園』だった。
『おぼろの桃園』は生涯に一度しか行けない幻の桃園だ。わらびが景色を惜しんでいたのを見て、「絵にしてみせてやる」と約束したのがひき丸だった。
「なかなかいい色が出せなくて時間がかかったんだよ。ほら、俺たちも描いておいたぞ」
ひき丸は紙上の右隅を指さした。桃の枝に腰かけた水干姿と汗衫姿の少年少女がいる。わらびは黒い瞳でまじまじと覗き込む。
「……わらびが、不細工だね」
頬の辺りが膨れているのだ。まるで不機嫌そうに目を細めているみたいだし、なんなら隣のひき丸から身体をのけぞらせようとしているようではないか。
「ちゃんと美人に描いておいたんだがなあ。描き直した方がいいか?」
「ん。いいよ。もらっておく」
わらびは絵を取られないよう、自分の手元に引き寄せた。気に入っているじゃないか、とひき丸が笑う。
ひき丸がわらびのために頑張って描いてくれたことぐらい、わらびにもわかるのだ。
「そうだ、わらび」
ひき丸が平々凡々な顔を寄せてくる。いつになく神妙な面持ちだった。
「……俺な、佐保宮と筒宮で行う絵合で、佐保宮の絵師になったんだ」
ひき丸に白羽が立ったのは、橘宮の推薦があったからだという。
元々、判者を頼まれていた橘宮だが、佐保宮と筒宮が争うことには懐疑的だった。
『鹿毛家が後ろ盾ゆえ、順当に行けば筒宮が勝つだろう。己の優位を誇り、佐保宮に見せつけるために行われるのだ。わしは己の誇りにかけても嘘の判定はせぬが、鹿毛家のやりようは美しくないと思う。聞けば佐保宮でも人選に困っていたようで少し手を貸してもらえぬか』
橘宮はひき丸にこう切り出したので、ひき丸は一も似もなく承知した次第である。
佐保宮は、『雅な宮様』が推薦する人物ならば間違いないと判断した。ひき丸が持ってきた文は、その承諾の返事だ。筒宮にも了承を得たという。
橘宮から絵師を佐保宮へ差し出すのは、判者が公平でないと不満も出そうなものである。ただ、橘宮はあらかじめ自分の家人であっても依怙贔屓をしない旨を告げ、何なら己を判者から外しても構わないと言い切った。
「俺は見ていないけれどさ。あちらの使者に対してもものすごくきっぱりした言いようで、使いの方も面食らったそうだぜ。さすが宮様だ!」
褒めるひき丸に対し、わらびは半信半疑で聞き流す。
「ひき丸は……都合よく利用されているだけじゃないの?」
橘宮に、利用されているのだ。けれど、少年はあっけらかんとして、「宮様ならいいんだよ」と言い切った。
「宮様は俺に期待してくださっているよ。今回、宮様はわざわざ佐保宮と筒宮の争いに介入されたんだ。下手な立ち回りをすれば、宮様ご自身の責任が問われることになる。あの方はそのあたりのことも覚悟されていると思うぞ」
「わかるけどわからないよ……」
気づけばそう言っていた。本来ならば関わらなくてもよい佐保宮と筒宮の争いに自ら飛び込む必要はない。勝っても負けても、ひき丸の身の上に何か起こるかもしれない。心配しているのに、どうしてひき丸はのほほんと笑っていられるのだろう。
「フッ、わらびもまだまだお子ちゃまだなあ。俺にも野心はあるんだよ。叶えたいことがある。だからやるのさ」
大丈夫だ。ひき丸の声は優しかった。
「終われば帰ってくるんだ。何も変わらないさ」
絵合は、文月吉日を選び、筒宮で行われることとなった。
双方が課題に沿うこれぞという絵を持ちより見せあい、判者が優劣を判定するのが主な流れになる。
左方、筒宮からは梔子姫、姫の父である大納言の太郎君、弟の二郎君と三郎君。梔子姫御付きの女房たち。
右方、佐保宮からは桜の上と御付きの女房たち、二、三の親戚と、わらびである。
左方の絵師は当代一の呼び声高い絵師、金人。
右方、青侍ひき丸。
判者は橘宮と、萩の御息所ということとなった。
「萩の御息所?」
唐突に秋を司る竜田宮に住む妃の名が出たので、いぶかしむ。
「うむ。後宮には妃がお三方おられるが、あの方だけをのけ者にするような形にはできまい。そこでわしと同じく判者としてお出ましいただくことにしたのだ」
とはいえ、あの方はなかなか気難しいお方でおられるから。橘宮は慎重な口ぶりで言う。
「元は前の帝の妃として入内するはずだったのだが、時機を逃したお方だ。今上とは年齢差もある。……そのため、まあ、気難しくなられたのだよ」
「怒るんだ」
「あくまで噂だがね。わしとは接点がないものだから真実など知らぬよ」
ここで、「己は何も関係ないという顔をするでないぞ」と真面目顔で警告された。
「わらびには、左方と右方、判者へ絵をお見せする役につくのだ。当日はその恵まれた容姿を大いに生かして、務めを果たしなさい」
衣裳は橘宮が用意してくれるという。わらびが事態を呑み込めないうちにありがた迷惑なやり方をする。
「その役目はわらびでなくてもいいと思う」
「何を言う。こういう時、見栄えがよい者が人前に出ると、皆が喜ぶものだ。ひき丸が望んだことでもある。ひき丸のためなら、そなたも引き受けるであろう? あやつの雄姿を見届けてやりなさい」
男が恰好をつけようとしているのだからね、と橘宮はふふふ、と含み笑いをする。人が悪い「雅な宮様」である。
わらびは納得していない。だが、珍しくひき丸がわらびに望むのであれば、叶えてやりたい。
わらびはにやつく橘宮にむすっとしたむくれ顔で応えるのであった。
その夜のことである。ふつと同じ局で寝ていたわらびは、いっこうに寝付けなかった。カタカタ、と風で揺れる板戸の音が響いている。退屈になってきたので、外に散歩に出ることにした。
秋になってきたので、外は前より肌寒くなっていた。
みなが寝静まった佐保宮で、庭をそぞろ歩くわらびの足音だけがざくざくとこだまする。
月は半分より少しだけ満ちた形になっていた。明るくて歩きやすい。
ぐるぐると回っているうちに、いつしか桜の木に行き会った。それも、花は今を盛りに咲き誇る大きな桜の木である。
先日、佐保宮にある桜が一本だけ狂い咲きしたのは知っていた。心ない者は桜の上と結びつけ、不幸の前触れだと囁いていることも。特に興味がないから見物しようとも思わなかったけれど。
その桜の下に、だれかがいた。
ほっそりとした女人だ。黒々とたくわえた黒髪がしゃらりと動き、肩越しにわらびと目があった。
あれは桜のように美しい、というのだろう。
わらびが知るだれよりも、その女人は凛々しく、嫋やかで、優美で、柔らかく。桜の木の下が似合う女だった。
彼女はわらびを見るや、人差し指を口元に当てた。
「ここで会ったことは秘密よ。抜け出したと知られたら、青竹に怒られてしまいから。約束してちょうだいね――わらび」
その微笑は艶やかで、惹きつけられた。その唇からわらびの名が零れたのが信じられない。
御簾越しでない、直に面を見るのは初めてだった。
わらびの予想が正しいならば、この人は……この御方が、桜の上。今上帝の寵愛を一身に集め、この世の栄華を約束された国一番の幸運な姫君だ。
お腹を撫でていなければ、身重だということもわからなかった。
「絵合があるのでしょう? とても楽しみ。どんな絵が出てくるのかしら。あなたは知っているの?」
「わらびは知らないよ」
「佐保宮の絵師の話を聞いたわ。たしか、名は……」
「ひき丸」
「そう、そんな名でしたね」
桜の上はにこにことわらびを見下ろした。
「《失せ物探し》のわらびの相棒だわ。その名を聞いたから承諾したのですよ。《失せ物探し》の成果も上々のようですね」
柔らかく目を細める妃。その奥には思慮の光が宿っていた。この女はただ愛されるだけの人ではない。
「主として誇らしく思いますよ。あなたは、これからのわたくしに必要となる子。今後も期待しています」
「絵合も?」
妃は春の微笑を深め、桜の枝に手を伸ばした。枝は触れるか触れないかの高さにある。かすかに人差し指が触れるたび、さわさわと枝が震える。
だが彼女は軽やかだった。つま先立ちになり、それも足りないと見るや、軽く跳んだ。
「人はみな、わたくしをまれに見る幸運の持ち主と思っているわ。たしかにそうね。この上もない幸いを一身に受けていては、謙遜することさえ嫌味になってしまうもの。だからこう思うの。
もしもこの幸福が続くのなら――どんな物事もうまく転ぶに違いないと。この狂い咲きの桜も、寿ぎのしるしだと信じているの」
花一輪を掴み取った姫君は小さな声で口ずさむ。
「咲き散らむ 今ぞさかりに 桜花 せめて今宵は 散らしたもうな
(今をさかりに咲き散る桜の花よ。せめて今晩だけは散らさないでおくれ。この刹那の時を留めておきたいのだから)」




