肝試し
夜、わらびはまた青竹から呼び出しを受けた。以前のように公達との夜語りの場に引っ張り出されたのである。わらびとしても拒みたかったところなのだが、遣いの女房が「失せ物探し」があるかもしれませんよ、と言ったものだから不承不承で寝床から出て来た次第だ。
「おぉ、来たか来たか。青竹殿、この者に肝試しをやらせようというのですな」
「はい。良い趣向になるかと存じます」
わらびが参上するや、青竹と公達たちは互いにだけわかる会話を交わした。
「何の話?」
「たわいもない『遊び』の話ですよ」
ほほほ、と御簾向こうの青竹は口元を扇で覆って笑う。
「――実は昼間、《鬼門の穴》の近くで中将さまがわたくしへの文を落とされたようなのです」
「はあ」
「まさに失せ物ではありませんか」
「場所がわかっているなら、落とし物だと思う」
「違いますよ。失せ物です」
青竹は力強く言う。わらびもわらびで減らず口であったけれども、その減らず口を許さないとばかりに、失せ物です、と青竹はまた念押しした。
「文は水物なのです。時機を逸しては価値も下がるというものでしょう。今からとってくるのですよ」
「どこに」
「もちろん、鬼門の穴まで。怖い噂はありますが、おまえのような豪胆な者は臆することもないでしょう」
鬼門の穴。宮中に出入りする者なら知らぬ者はいない怪異が起きるとされる底なしの穴だ。場所は大内裏の北東の一角、まさに「鬼門」に位置する穴だから「鬼門の穴」。正式には「御樋殿」という名があるのだけれど、「殿」がつくわりに建物もなく吹き曝しになっているのでそう呼ぶ者もいない。
「樋洗童は鬼門の穴近くを通っているのであろう。不浄なものを捨てに行くそうではないか」
中将と呼ばれた公達も口を挟んだ。
「不浄なもの」とは要は御樋箱に溜まる人の排泄物である。樋洗童はこれを捨てに行くことになっている。都の外へ運んで肥料として使うため、一か所に集めているのだ。
ただ、その場所が鬼門の穴に近いため、昼間でも薄気味悪いと言って行きたがらない者も多いけれども。
「わしには恐ろしくて近づけないが、たしかにあの辺りで落とした気がするのだ。大事な文ゆえ、頼むぞ」
はっはっは、と中将は笑い飛ばした。
これほどやる気の出ない「失せ物探し」もあるまい。
承知しなければ帰してもらえなさそうなので、仕方なく「わかった」とだけ言う。
「道案内もつけますからね、迷ったという言い訳は通用しませんよ。……そうそう、鬼門の穴なのですが」
にっこりとする青竹。
「つい先日も穴から這い出る黒い人影を見た者がいただとか、狂ヒを見ただとかいうことがあったそうですよ。気を付けていってらっしゃいね」
松明を持たされた童女が渋々佐保宮を退出した後も、青竹と公達たちは夜語りを続けた。
「貴女は気に入った者には意地悪をしてしまう質ですか?」
「さあ。どうでしょうか。でも、あの者は気に入っていますわ」
「たしかに、見目も良いし、特技もある。青竹殿が気に入っているのもわかりますな」
「きっと中将さまの文も持ってきてくださるはずですわ」
「ええ、お願いされましたからね。……やはり、意地悪ではありませんか。あの子は桜の上のお気に入りです。いつか桜の上を盗られてしまうかもしれないと恐れているのですか?」
まさか、と女は微笑んだ。
「あの方が一番愛しているのは私ですもの。女房たちの中で一番長くお仕えし、信頼されているのです。一時の「お気に入り」とやらで揺らぐような地位ではございません」
「しかし、未来はわからないものですぞ」
「いいえ? 私が桜の上の傍らにいることは変わりませんわ。変わらせませんもの」
「なるほど、怖い女だ」
「だって怖い話がたまらなく好きなんですもの」
青竹はそらとぼけた。
「ああいった変わった者に行かせて、怖いことがあれば話の種になるではありませんか」
「怖いことが何もなければ? あの面構えからして、そうそう驚きはしないでしょう」
「そうですわね。――でも、今晩はいつもより一層闇が濃いような気がしますから」
青竹は御簾越しに遠い、真っ黒な闇へ目を細めた。
雨上がりのむっとした熱気が立ち昇る夜だ。
「何が起こっても不思議ではありませんわ。でしょう?」
水を向けられた中将は、袖で額に浮かんだ汗を拭った。
青竹の目の奥が笑っていないことに気付いたのだ。
すると、そのことさえにも気づかれて、
「ご安心ください。中将さまは味方ですもの。桜の上にあだなすことがない限り、今度もよい友人でありたいと思います」
もし敵となったなら、という冗談すら許されないような物言いだった。
怖い女だ、と中将はそれだけ言った。
文を落としたと口を滑らしたのは事実だが――それだけの話がここまで発展するのは予想外である。
中将はわらびの『失せ物探し』に懐疑的だ。文はきっと見つかるまいと信じている。その方が中将には都合がよい。
いたずらに時間を浪費させられる哀れな童女のことは考えないようにした。
わらびは松明をひとつ持たされ、佐保宮を出た。
一緒に行く者などだれもいない。元から怖さなど感じる質ではないが、気乗りしないのもあって、足取りは重い。
ところが歩いているうち、
「ちょっと! 何しているのよ!」
「うえ?」
気が付けば、仁王立ちのふつが両手を広げ、立ちふさがっていた。
「もう出発したかと思っていたら全然だめじゃない! また佐保宮に戻ってきているわよ! ほら、あれ、佐保宮!」
たしかにふつが指さした先には、さっき出ていったばかりの建物がぼんやりと闇の中に佇んでいる。
「しょうがないわね。……行くわよ」
ふつがわらびの腕を掴み、ずんずんと進もうとする。青竹に呼ばれる時はわらびの下敷きになって寝ていたのに、いつ起きたのだろう。
「あなたのとばっちりよ。遣いに叩き起こされて、道案内しろとついさっき青竹さまからご伝言をいただいたの」
そう説明するふつ。夜のわりに威勢がいい。
「ふつは恐がったりしないの?」
暗闇を怖がる相棒を思い出しながら問えば、ふつはむっとした顔で振り返る。
「怖いわよっ! すっごい怖いわよ! もうっ、思い出させないで! いいこと、今は昼間なのよ。明るいの。だから平気なのよ!」
「おお……?」
謎の勢いに押され、ずるずる引きずられるわらび。
しばらく右へ左へと歩くうち、ふつの歩みがひたりと止まった。わらびがふつの肩越しに行先をのぞく。
「鬼門の穴だね」
松明で前を照らした先。続いていたはずの草地が忽然と消える場所がある。ちょっとした池ほどの大きさにもなる穴だ。昼間でさえ底が見えず、夜の今は、真っ黒な口が今か今かと犠牲者を呑みこもうと待ち望んでいるようだ。この近くには殿舎もなく、通る者も少ない。蛙の鳴き声がぎいこ、ぎいこ、と寂しげに響いていた。
「ここ……落ちたら助からないんだって聞いたわ。ほとんど底なしなんですって」
穴の淵に立つふつは急に怖気づいたようで、驚くほど暗い声で言う。今はぴったりとわらびにくっつき、袖を掴んでいた。
「昔から時の帝が何度も埋め立てようとされたのだけれど、どれもうまくいなかったって。仕方なく、今もそのままにされているらしいわよ」
「へえ」
わらびは気にせず、松明で辺りを照らしながら、周辺を歩く。昼間落としたという文を目で探した。
「うーん、なさそうだね。風で飛ばされたかな」
「青竹さまも見つかるとも思っていないでしょうよ。わらびをここに行かせるための口実だもの。……青竹さまは恐ろしい人ね。他人の事情もよくご存じよ」
「……ふつ、なにかあった?」
「まあ、ね」
ふつはじっと穴の奥の暗闇を見つめていた。
一歩前へ踏み出すだけで穴へまっさかさまだ。
「実はね、さっき青竹さまにご命令されたの」
ふつが意を決したようにわらびを見る。
「ここでわらびを脅かしてやりなさいって。穴の淵に立たせてね。あなたが驚くとも思えないけど、もしそうしたら……どうなるかなんて赤子でもわかるわよ」
「青竹は本気で言っていないよ。真面目なふつを迷わせたいだけ。ふつで遊んでいるんだよ」
「どうして……そんなことをするの。私はほかに行き場がないのよ?」
ふつは継母との仲が悪い。宮仕えしているのも、元は家族との不仲が原因なのだった。
「だからこそだよ。ふつが弱いと知っていて、いじめているんだよ。たぶんね、そうなったのは、わらびのせいだと思う」
「わらびの……。そうでしょうね」
ふつはあっさり納得し、袖で目元をごしごし拭いた。虚勢を張っていただけで、ふつは内心で葛藤していたのだ。
「青竹のことは放っておけばいいよ。文を探して早く帰ろう」
「文はまだ探すのね」
ふつは嫌そうな顔をするけれど。
「だって『失せ物探し』を頼まれたから」
「変なところで律儀ねえ」
わらびとふつは穴の周囲をぐるりと回り、白いものが落ちてないかを確認した。最後にたまたま穴を覗き込んだふつは、あっ、と声を上げた。
「あれ。白いのが見えるわ。なにかしら」
わらびも釣られて、穴の中を覗いた。
松明の明かりも届かぬ真っ黒な闇が下に向かってどこまでも続いているように思えたのだが。
きらっと、底の方で光るものがあった。
「ほんとうだ」
よく見ようと少し身を乗り出したわらび。
突如、右足を引っ張られた。
「わらびっ!」
ふつの叫び声が大きく響く。その手がわらびの右腕を掠めたけれど。ずるんと両足が浮き、身体は宙へ――底なし穴の中へ。
刹那、闇より濃い黒い靄が穴から細く伸びて右足首あたりを掴んでいたのが見えた。あれがわらびを穴へ引っ張り込んだのだ。
――ひき丸。
唯一無二の相棒が、ひとりで失せ物探しに行くなよ、と怒っているような気がして、さすがにごめんなさいと謝った。
耳元でひゅうひゅうと風が吹きすさんでいる。衣がばたばたとはためく音もした。
視線の先で、ぼんやり光る蝶の羽が見えた。あれだ。あれが奥底で光って、わらびを誘ったのだ。
しかし、それが今更何になる。わらびは黒い靄に引っ張られるがまま、落ちていき――。
「わらびっ! わらびっ!」
ひとりの童女が消え、残ったもうひとりは穴の淵で気が狂わんばかりに名を呼んだが、返ってくる声はない。
どうしよう、どうしよう。
ふつは懸命に考える。
一瞬、「このまま黙っていたら、変に疑われずに済むかもしれない」とも思うが、すぐに自己嫌悪に陥った。――友達を見捨てるという選択肢が頭に浮かんだことさえ許せなかった。
ぜんぶ――ぜんぶ、ふつのせいなのだ。白いものが見えると言ってしまったから。いや、それだけでなくて……ふつがひどいことをしてしまったから、大事な友達さえ失くそうとしている。ふつが悪いから。
嘘はいけない。正直でいよう。助けを呼ばなければいけないのだ、今すぐにでも。
ふつは穴から駆け出した。だれでもよかった、わらびを助けてくれる者であれば。
「だれか――っ、だれかっ!」
苦しくってたまらなかった。
懐に入れたものをぎゅっと強く握りしめて走る。彼女も無意識のうちに心の拠り所にしていたそれは、わらびが手ずから縫った不細工人形だった。




