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約束

 佐保宮にひき丸がやってきた。橘宮たちばなのみやからの文をたずさえてだ。橘宮はひき丸とわらびを通じて知ったくまのの窮状を憂いているようで、しょっちゅうくまのへ文を送っている。


「悪いな、わらび。今日も頼む」

「いいよ」

「あと、ほれ」


 口の中に突っ込まれる水晶。反射的にごっくん、と呑みこみ、ぽんとお腹を叩く。前払いの褒美だ。

 最近、ひき丸は暗い顔を見せているが、ここ二、三日は特に深刻そうな様子でため息をついている。


「ひき丸も、くまのが心配?」

「あ……ああ、そうだな」


 歯切れの悪い返事である。じっとひき丸を見つめていれば、少年の唇が弧を描く。


「なんだ、見惚れているのか?」


 違うだろ、とからかい混じりに言うけれど。明らかに何かを誤魔化している。


「わらびもひき丸が好きだけど、今のは違うよ」

「お、おぅ……」


 少年は赤くなった頬を掻いていた。

 わらびは少年の手に握られた文をもらいながら訊ねた。


「ねえ、わらびに隠していること、ある?」


 すると、ひき丸は困ったように笑う。


「うーん、あるといえばあるなぁ」

「あるんだ」

「生きていればひとつやふたつぐらいあるだろ。俺は……今が大切だから言いたくない」


 ひき丸はふいにわらびの小さな手をとった。宝物を扱うかのように優しく両手で包み込む。

 わらびよりもあたたかな手だった。よく知っているはずなのに、はっとさせられるほど切なげな光を湛えた眼がわらびをのぞきこんでいた。

 どうしてだろう。わらびもきゅうっと胸が苦しくなる。

 いつも隣にいて、わらびを助けてくれるひき丸。

 けれど。いつか別れの時が来るのではないかとひき丸は恐れているのだ。

 だって、わらびが望みを叶え、「本当の己」を見つけてしまったら――。


「きっと、おまえは願ったとおりに、『逢いたい人に逢える』。それを見届けるのが、俺の役目なんだ。はじめて会った時からさ」


 さびれた河原院の庭。雪の降る寒い日に、橘宮のお付きでやってきたひき丸がわらびを見つけたのだ。

 はじめ、ひき丸は倒れた人を見つけたためか、目を丸くして。一瞬、嫌悪の表情を浮かべたが、はぁ、と肩を落とすほど大きく息を吐いて、ぼろきれみたいな童女を拾った。


――仕方ないなぁ。これが、俺の運命なんだな。


 ひき丸の背に負われ、夢見心地の中で聞いた呟き。

 あれの意味はわからないけれど、わらびはひき丸に助けてもらったから、何があってもひき丸のことは信じている。


「わらびが幸せなら、俺は満足だ。それだけでいいんだ」

「……わらびはいるよ。自分のことがわかったとしても、ずっとひき丸と一緒だよ?」

「そうか。うれしいなぁ」


 どうにも信用されていない気がして、わらびはひき丸の手をひょいと振り払った。


「お?」


 戸惑うひき丸の手を今度は自分からがっちり握りにいく。

 ぶんぶんぶん、と握手した手を上下に振る。


「なんだなんだ」

「手をつないだ」

「見ればわかるぞ。……変なやつだなぁ」


 ひき丸が嬉しそうになるのを見て、ほっとした。寂しそうな顔じゃなくなってよかった。……くまののことについては誤魔化されてあげよう。

 少年が去った後。くまのへ文を届けにいくことにした。




 自身のつぼねで文を受け取ったくまのは「あの方も筆まめね」と半ば呆れたように呟いた。


「『貴女らしくありませんよ』と書いてあるわ。……そうね。わたしらしくないわね。周りを敵に回してひとりぼっちだなんて、女東宮さまがいらっしゃった時には考えもしなかった」


 くまのの周囲にはずっと人気がなかった。彼女も無理して桜の上の元に参上せず、ほかの女房たちも彼女を呼びに来ることもしない。それは女房としておかしなことなのだとわらびでさえわかっていた。


「くまのはそれでいいの? これからどうするの」

「そうね。どうしようかしら。もう、失うような大切なものもないから、何でもできそうな気もしますよ」


 少し微笑んだくまのは筆をとった。橘宮への返信を書こうというのだろう。


「……ねえ、わらび。おまえはだれかを恨んで復讐しようと思ったことはある?」

「ううん。ないよ」


筆を取りながらもくまのの手は動かなかった。ぽとりと筆に含んでいた墨が紙へ一滴落ちる。その一滴の滲みをくまのはじっと見つめているのだった。


「わたしも前までそんな恐ろしいことはできないと思っていたわ。でもね、最近は人を憎む心がわかってきてしまうのよ。いくら考えても、許せないでいる。あの青竹がいなければ……女東宮さまは今も生きていらっしゃったかもしれない」


 くまのは皮肉そうに唇を歪めると「おまえに言ったところで仕方ないのにね」と呟く。


「いいよ。話したいなら話せばいいと思う。ずっと抱え込むのも辛いことだから」


 くまのはそれを聞いて、筆を置いた。驚きの目でわらびを見つめる。


「……女東宮様も、私が辛そうにしているのにすぐ気づいて、同じ言葉をかけてくださったわ。あの方はいつも私の話を聞いてくださるから、ついついどんなことでも話してしまうところがあって」

「優しい人だったの」

「もちろんよ。誤解されやすい方だったけれど、あの方の真心は曇りないものだったわ。一番近くで見ていたもの。世間がなんと言っても、私はあの方の味方をする。もう、女東宮様の名誉をお守りできるのは私だけだもの」


 前の主人の話をすると、とたんにくまのの顔が綻んだ。よほど入れ込んだ主人だったのだろうし、どんな人だったのだろうと想像したくなる。けれど、どうしてかわらびには想像ですらその姿を思い描くことができない。霧がかったようになって、考えること自体を拒まれているような……。


「……どうして」

「え? えぇ、そうね。わたしもどうして佐保宮ここにいるのかしら、と思いますよ」


 わらびの疑問を、くまのが違うふうに受け取った。


「佐保宮に出仕するということは新しい主人を持つということ。噂好きな人があれこれ言っているのでしょうね」


 なにか知ってる、と言いたげに見られたが、わらびは首を横に振る。


「桜の上はすばらしい方だわ。まるで花のような方。帝が夢中になられるのも無理ないことなのかもしれないわ」

「だから桜の上に仕えることにしたの」

「いいえ」


 くまのはきっぱりと否定した。


「出仕のお誘いを何度もいただいていたこともきっかけではあったけれど、桜の上がいくら良い方でも出仕しようとは思わないわ。女東宮様に代わる方なんてこの先もう現れないもの。ただ、また宮中に出入りできるようになるのがわたしには好都合だっただけ。生前の女東宮様が望まれたから……」


 くまのはこらえきれずに涙をこぼした。

 この人はどれだけ袖を濡らせば、悲しまなくなるのだろう。あいかわらず、羨ましいとわらびは思う。


「――『もしもこの身に何かあった時も、くまのは宮中にいるのですよ』とおっしゃった。その次の日に嵐の最中、急に出かけられて、牛車ごと川に落ちるのを知りもしないで。わたしはあの時、あの方のすすめで、実家に帰っていたのです。帰らなければよかった……」

「青竹は、その時に関わっていたの」

「いいえ。もっと前ですよ」


 くまのは眉根を寄せて否定した。


「青竹は、讒言ざんげんをしました。女東宮さまにとってとても不名誉であり、事実でないことを言いふらした。青竹……彼女も、女東宮様にお仕えしていたのに。あの女は主人を裏切ったの。そのために女東宮さまは宮中を退出せざるを得なくなって、そのまま亡くなられたわ」


 だから、とくまのの震える声がひとけのない屋内に響く。


「あの方が今、桜の上に熱心にお仕えしていることが……あんな女が、今をときめく妃の腹心の女房をやっているのが、信じられないですよ」




 はじめて青竹を見た時は、目端の利きそうな子だと思ったが、さして気にとめていたわけではなかった。

 女東宮に仕えている女房はほかにも大勢いたし、他の同僚の遠縁を頼りにやってきた若い女房に関わる機会もなかったのだ。

 だがたまたま青竹が女東宮へ文の取次をした時。ふとした拍子に青竹の手が女東宮の御手に触れた。


「あっ」


 主人が突然、青竹の手を払い落とし、座していた上半身が崩れ落ちる。


「女東宮様っ。いかがなされました!」


くまのが慌てて助け起こせば、主人の顔は蒼白で、額に汗が噴き出していた。くまのの腕の中で、女東宮の体が震えている。


――何か、視られたのだ。


 宝珠を持つ天人。その中には特異な能力を持って生まれる者がいると言われている。女東宮には、先見の力があるという話だった。

 望む、望まないに関わらず、視てしまう。視るきっかけがあることもあれば、ないこともある。主人はこの能力のことを好んで言わないので、くまのもこれまで深く追及してこなかったけれど。

 

「もしかして何か……」

「くまの」


 主人は首を横に振り、よろよろと体を起こした。

 目を丸くして固まっている青竹を硬い表情で見つめると、どうか、と切り込む。


「わたくしで最後になさい」

「え……?」


 青竹はますます腑に落ちないと言いたげな顔をする。


「あの、私は何か、失礼なことをしましたでしょうか……?」

「覚えておきなさい、青竹」


 女東宮は青竹の疑問には応えなかった。


「わたくしの視る限り、そなたの願いは叶うでしょう。だからこそ……わたくしで最後にするのです。今、この場で約束なさい」

「女東宮様」


 青竹はなおも戸惑った顔をしていたが、主人のいうままに「女東宮で最後にする」と約束した。

 横にいたくまのやほかの女房たちにもわけわからないことであったし、青竹自身もそうであったかもしれない。

 女東宮は青竹に約束させた理由をけして言わなかった。けれど、あまりにも意味深であったからよく覚えている。

 今から思えば。主人は青竹が近い未来に自身を裏切ることを知っていて、ああ約束させたのだろう。


――女東宮で最後にする。


 青竹は、女東宮の讒言の後にも「何か」をするつもりがあったのだ。その「何か」はだれかを陥れるような悪いことだから、女東宮は止めたかったのだ。

 最期、主人はくまのに宮中にいることを望んだのは、言外にくまのへ青竹を見ていてほしいと伝えたかったと考えられないか。

 生きがいだった主人を亡くしてから泣き暮らして、もう生きていけないと何度も思ったのに、結局、現世へつなぎ留めたのは、最愛の主人その人だ。くまのは今も女東宮に生かされている。

 これは弔いだ。女東宮を悼むための女の戦いだ。幸いにもくまのは主人に似て、我慢することだけは得意だから、青竹の壁となって立ちはだかろう。そう思う通りに事は運ばないと教えてやるのだ。


――『夢の浮橋』。


 青竹が囁きかけてきた言葉にはひやっとさせられたが。あれはたとえ青竹が盗ませたとしても、自身が持っていると公には明かせない。元は帝から橘宮へ向けて下賜されたのだから。

その匂いを知る者さえごく少数、まして、青竹が使い方を知ったところで逢いたい者がいなければ、ただの香に過ぎないのだから。

 心配しなくてもいい。己へ何度も言い聞かせたが、不安は消えなかった。


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