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宣戦布告

 それから五日ほど経った夜更けのことである。

 寝ていたわらびは突如、叩き起こされた。


「ごめんなさい、ちょっと起きてもらえるかしら」

「ん……? あれ、くまのだ」


 どこかから漏れた月の光が差し込む薄闇に、少しくたびれた女の顔が浮かぶ。

 足元で、ぐえ、と呻き声がした。


「……早くどいてあげなさいな」

「そうだね」


 苦しむふつの腹から起き上がるわらび。なぜくまのが下級女官のへやに現れたのかわからないまま、美々しい装束姿の後ろをひょこひょこついていく。


「なにかあったの」

「あなたを呼べという者がいるのですよ」


 楽しくなさそうな声音だ。


「ふうん。だれ」

「寝ているあなたを叩き起こして意地悪するのを好む者ですよ。名は口にしたくありません」


 濡れ縁に出て、殿舎同士を繋ぐ渡廊を歩く。佐保宮の主殿までやってきたのだが、火の灯された釣灯篭つりどうろうの下から人の声がした。数人の男女の声だ。

 濡れ縁から少し入ったひさしに座った男たちは、わらびたちの気配に気づくや、手招きするような仕草を見せた。くまのはさっと扇を顔にかざして、ふう、とため息をついた。後方のわらびをふと振り向いて、「ろくなことではありませんから、今のうちに覚悟しておくことですよ」と忠告する。

 女房のくまのは近くの御簾をくぐった。わらびは男たちから少し離れたところに座ることにした。


「おや、くまの殿。ようやっとお戻りでいらっしゃったか」


 男の一人が声をかける。

 男たちは皆、黒の直衣姿である。しかるべき身分の男たちなのだろう。

 桜の上は帝の元へ参上しているので、その帰りを待つ者たちで夜語りでもしていたのだろう。

 男たちの正面には御簾がかけてあって、奥に女房が何人か座っている。男たちと会話していた女はふふふ、と笑う。


「皆さま、くまのをお待ちしていたようですわ。羨ましい」

「すねないでくださいよ、青竹殿。我々を虜にしているのはあなたです」

「方々の花から甘い蜜を集めていらっしゃると、甘い言葉もお得意なのでしょう?」

「蝶や蜂も、留まる花は選んでいますよ」


 宮中女房と殿上人は迂遠なやりとりをしながら微笑み合う。

 たいがいこういう光景は佐保宮でよく見かけるもので、時に興味本位でわらびを見たがった貴族たちがわらびの前で繰り広げている。

 わらびにはまねのできない芸当だし、楽しそうだとも思えない。


「ところで、今は宮中の怖い話をしていたのですよ」


 青竹が柔らかい声音で近くに腰を下ろしたくまのへ説明する。


「夏の夜には身を涼しくするような話を聞きたくなるものですから。皆さま、とても興味深い話をお持ちだったので、つい聞き入っていたのですよ。くまのも何かお話を持っていませんか」

「いえ、私には何も……」


 くまのは消え入りそうな声で呟く。


「女房仕えが長くていらっしゃったし、『あの方』の近くにいたならひとつやふたつ、あるのでは?」

「そんな……。すぐには出てきませんよ」


 青竹が催促するが、くまのは気乗りしない様子である。


「まあまあ。だれしもがあなたのように喜々として怖い話を聞きたがる女人ではありませんよ」


 一人の男がとりなすように割り込む。そうですわね、と青竹は納得した素振りを見せる。


「では、近ごろの物騒さは青竹殿には願ってもないことやもしれませんなあ」


 男たちは互いに顔を見合わせて話し出す。


「都では疫病が流行り始めておるようですし、近郊では狂ヒが出たという報告を何度も受けておりますな。稲作の育ちもあまりよくないとか。今年は飢饉となるやも」

「佐保宮は今や飛ぶ鳥を落とす勢いでいらっしゃるので、不吉なこととは無縁でしょうな。だからこそ花に誘われる蝶となってこちらに伺わせていただいているのですが」

「あら、私は人の不幸を見て楽しむような鬼ではございませんわ。皆さま、ひどい言いようではありませんか」


 男たちが口々に言えば、青竹は心外な、と言いたげな茶目っ気のある声を出した。

 男女の輪の中で、器用に喜怒哀楽を出し入れして話の中心に居座るのは青竹だった。佐保宮で大勢の女房を取り仕切っているだけのことはある。男たちは隣のくまののことなど気づいていないように、夢中で青竹と語らっている。

 きれいな面の皮だなあ、と思いつつ、わらびがくわっとあくびをすると。


「ふふ。大人の話に退屈してしまったのですね」


 途端に、御簾越しにいるはずの青竹の声が飛ぶ。暗がりに控えていたわらびに何対もの目が向いた。

 青竹の声はあくまでおだやかであるけれども、心中は違うだろう。ふつがいたなら「あれはきっと嫌味だわ」と後で囁きかけてきそうだ。


「呼んでおきながら、つい待たせてしまいましたね。……皆さま、こちらがお待ちかねの童女です。失せ物探しをしておりますのよ」


 ほう、これが、などと、男たちは珍奇なものを眺めるかのごとく、わらびを見ている。さきほどから控えていたのに、わざとらしい。


「なかなか見目もよろしいですな。ここまで清らかでかわいらしい童女は都中探してもおりますまい。桜の上も鼻が高いでしょうな」

「ええ。主も気に入っているようですわね。外に出たがるものですから、猫のように自由にさせておりますの」

「桜の上も度量の大きな方でいらっしゃるから、そうするのが適当だと思われたのでしょうなあ」

「……どうでしょう。桜の上のお考えはすべて見通せるわけではありませんわ」


 青竹は小首を傾げた。


「ただ、私は桜の上をお慕い申し上げておりますから、あの方の望み通りにして差し上げたいだけですのよ」

「主思いですなあ。すなわち、我々のような男どもなど眼中にないということか」

「そうは言っておりませんわ」

「だがあなたはいろいろな殿方を袖にしていらっしゃるから。おちおちと恋文を出すのも憚られますよ」

蛍中将ほたるのちゅうじょうさまはまず、みみず字をどうにかなさらないと、お返事ができませんわ」


 これは手厳しい、と男のひとりが肩を竦めれば、ほかの男たちが笑う。

 わらびは思う。もう用がないなら帰って寝ていいかな。


「そうです、怖い話と言いましたら」


 唐突に青竹が口火を切った。


「少し古い話だと都へ攻め入らんとして死んだ雷公らいこうのことなどが思い出されますが、最近は佐保宮の北を居所とされていた方のことがありますわね」

「佐保宮の北と言いますと……いや、青竹殿がその話をされますか」


 男たちがくまのをちらっと見て居心地悪そうに身じろぎなどするが、青竹は落ち着いたものである。


「少しぐらい懐かしむことがあってもよいではありませんか。わたくしにもゆかりのあった方です。宮中で禁句のようになっていてはあの方がかわいそう」

「……たしかに、青竹殿も少しの間、女東宮さまの元へ出仕されていたのでしたな。我々が思い至らなかったようです」

「いいえ。……いいえ。あの方が恨みを呑んで亡くなられて。今も霊となって居所きょしょを彷徨っていると噂されているのは知っています。とても、気の毒な方でした」


 青竹は目元を拭う仕草を見せる。男たちもそれに感じ入ったようにしんみりとした雰囲気になっている。

 だが突然、黙っていたくまのはすくっと立った。


「くまの、どうしたのですか」

「聞いていられないので、下がらせていただこうと思って」

「どうしてでしょう? せっかくあなたがいるのに」

「なんですって!」


 気の弱そうなくまのからは信じられないほどの大音声が佐保宮に響き渡る。ほかで話をしていた者たちが驚いて口をつぐんだため、庭の虫の音がいやに大きく聞こえた。

 御簾向こうでは、くまのが青竹を上から睨みつけている。


「青竹。おまえは相変わらず、憎らしいほどに変わらないのね」

「何をおっしゃっているのか、わかりませんわ。ほかの方もいらっしゃるのに……」


 青竹が消え入りそうな声になる。男たちは大声を出したくまのにたまげて腰を抜かしつつも、非難の目を向けていた。


「おまえが、女東宮さまを語るのは許さない」


 くまのはきっぱりと言う。


「わたしは、だれのせいで女東宮さまが貶められたのかを知っている」


 青竹を見下ろしたくまのは告げる。


「これ以上、あの方をあなどるようであればわたしは何を引き換えにしたとしても、おまえを止めましょう」

「そんな……。くまの、誤解ですよ」


 そう言いながら青竹はくまのへにじり寄り、耳元で何かを囁きかけていたようだった。

 途端、くまのはその場でよろめいた。その背中を青竹が支えた。


「大丈夫ですか。感情が高ぶっていたから、眩暈が起きてしまったのではありませんか。もう今日は休まれたらいかがです?」


 くまのは何も答えないまま、よろよろと御簾の外に出て、己の局へ続く渡廊わたろうへ行く。その際、わらびともすれ違うのだが、明らかに顔色が悪かった。


「先ほど何をおっしゃったのですか」


 去っていくくまのを目で追った男のひとりが青竹に聞けば、佐保宮の筆頭女房は少し笑う。


「たいしたことでは。ただ、『夢の浮橋』と申し上げただけです。くまのは、女東宮さまに一番近い先輩女房でいらっしゃったから。かの名香『夢の浮橋』がもしも私の手元にあったなら、差し上げたのに――そう思って」


 そして男たちには「もうそろそろあの子を寝かせてあげませんと」と、わらびを指しながら告げる。

 わらびはようやく許されて、その場を立ち去ることができた。

 ――『夢の浮橋』。

 まさか橘宮から依頼された香の名が出てくるとは意外だったが、囁かれたくまのがよろめくほど血の気を失ったのは、どういうわけだろう。

 ただ、あれを言った青竹の真意は――悪意に満ちている。

 青竹は明朗快活で聡明な女房として振る舞っているが、裏の顔があるのだ。裏では、わらびのことが気に入らず、事あるごとに意地悪をする機会を伺っている。

 くまのと青竹は対立しているらしく、くまのとわらびは嫌われ者同士らしいのだ。くまのはわらびにとって少し気になる女房になった。

 ところが、まもなく佐保宮でちょっとした騒動が持ち上がったのである。

 昼下がりのことだった。あまり来ない佐保宮の主殿に現れたくまのは、焦りを隠せない様子で笑いさざめく女房たちをぐるりと見渡し、青竹、と低く呼ぶ。


「なんですか、くまの。今は桜の上は主上おかみに呼ばれているので不在ですが」


 対する青竹は軽く応じるのだが、くまのの顔は堅く強張っていた。


「……だれか、わたしの局に入ったのを見ませんでしたか」

「だれも見るはずがないでしょう。くまのの局は離れておりますもの。あら、どうしてそのような顔をされるのですか? 鬼か狂ヒかを御覧になったかのようではありませんか」

「大事にしていた文がなくなっておりました。昨夜まではあったはずなのです。少し局を離れたら、文箱からなくなっていました。何か知っていますか」

「知りませんよ」


 青竹は笑んだ目元で断ずると、ねえ、ふつ、とくまのの背後にいたふつに同意を求める。

 その日、一番くまのの局の近くにいたふつは、ついさきほどもくまのへ「存じ上げません」と答え、今は青竹の無言の圧力に圧倒されたのだった。


「は、はい……」

「ほらね」


 青竹はにこりとし、くまのなどいなかったかのごとく、ほかの女房と話し始めた。腹の虫がおさまらないのがくまのの方だ。

 この佐保宮で、青竹ほどくまのをよく思っていない者はいない。むしろ、ほかの女房たちは青竹を憚って何もできないというのに。

 くまのは大きく息をついた。激情をやり過ごすにはそうするしかなかった。


「おまえはやはり、他者を傷つけ、貶めずにはいられないのですね。女東宮様との『約束』さえ忘れて……」

「まさか、忘れることなどありません。女東宮様はわたくしに女房としての心得を教えてくださいました。きちんと胸に刻んでおりますわ」

「心得? 心得と言いましたか。あなたほど不誠実な者はいないでしょうに。本当に胸に刻んでいるのなら、あなたはここにはいられないはず」


 くまのは青竹の周りに集ったひとびとの面を見ながら、


「短い間ですが、佐保宮を観察していてわかりました。あなたが仕切る佐保宮は表面が華やかでも息苦しい。いつまでも人を『支配』するという心づもりではだれもあなたを慕いはしないでしょう」

「言いがかりですよ、くまの」


 あくまで穏やかに返した青竹だが、ふと声を落として、


「……いいかげんにしなければ、いくらあなたでも見過ごせませんよ。わたくしの敵に回るおつもりですか?」


 にわかに場の緊張が高まった。だれもが口を噤み、佐保宮の筆頭女房と、かつて女東宮のもっとも近くにいた女房のやりとりに聞き耳を立てる。そうしなければ、己の身の振り方にも関わってくるからだ。


「敵もなにも……とうの昔からあなたの方はそう思っていたでしょうに」


 くまのは絞り出すように言った。

 これが、わらびがふつから聞いた一部始終である。

 この日以降、青竹とくまのの対決は表面化した。佐保宮では青竹を中心に万事が回っていたのだが、青竹派とくまの派のどちらかにつかなければならなくなり、女房たちはみな、新参のくまのより筆頭女房の青竹を選んだ。くまのはひとり孤立し、今まで以上に局に引きこもった。

 この争いを聞いた桜の上がふたりをとりなし、くまのにはほとぼりが冷めるまで宮中から退出するように勧めたというが、くまのは首を縦に振らず、宮中から出ていくこともなかった。

 その後、わらびは桜の上の御前から退出するくまのを見かけたのだが、くまのはもう泣いていなかった。何かを決意した強い瞳をしていた。




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