むぎなわ、まがり 下
わらびは妻戸をくぐって濡れ縁に出た。階の下でうろうろしていたひき丸とぱっちり目が合う。
ひき丸はいくぶんか険のある目つきでわらびを見た。
「わらび、俺が言いたいこと、わかるか?」
「……ごめんね?」
なんとなく言わなくちゃいけない気がしたのだが、ひき丸ははあ、と大きなため息をつき、がしがしと頭の後ろを掻いた。
「思いついたらすぐ突っ込む癖はやめとけよ。……で、何があった」
「知らない女房がいたよ。泣いていたよ。大事な人を亡くしたみたい」
「そうか」
ひき丸の眼の奥が沈んだように見えた。だがそれは一瞬のことで、なら間違いなさそうだな、と一人合点したように呟く。ひき丸はわらびを手招きすると、抱えていた包みをわらびに持たせた。
「やっぱり俺が持っていくのは気が重い。悪いが頼めるか」
「ん? でも、これって」
「その女房、大事な人を亡くしたんだろ。尋ねてみろ、こう答えるはずだ。……先の女東宮さま、とな」
――女東宮。
その女房もそう言っていた。
東宮とは、次の帝となる天人を指す。女東宮というのは、女人の春宮のことだ。
「うん、言っていたよ」
「間違いなさそうだな。この佐保宮の女房たちは明るく華やかな方が多いんだ。その中でひとり離れて泣いている女房がいるなら、きっとその方がくまのさまだろうさ」
「あの人がくまのさま?」
「ああ」
――だったら、なぜくまのの近くから《夢の浮橋》の匂いがしたのだろう。
「何か気になることがあるのか」
「うん。ちょっと」
わらびが話すと、ひき丸が難しい顔になる。「そうか」とやけに重い返事をした。
「わらびはくまのさまを見て、どう思った」
「泣いているから、どうしようって思った」
けれど、たくさん泣けるだけ羨ましかった。泣けるだけの思い出をその女房は持っている。
「きっとたまたま今日泣いていたわけではないんだろうな。ずっと、思い出すたびに泣いているのさ。桜の上に乞われて宮中に来てもそうそう気持ちは切り替わらないだろうしな」
ひき丸の視線がわらびの腕の中へ動く。
「その荷物も、宮様がくまのさまを心配して持っていかせることにしたのだろうさ。昔馴染みで気にかけていらっしゃるようだったし、近況を知りたいところなんだろ」
「そうなんだ」
「……わらびも少しだけ気に留めてやってくれないか」
思いがけないことを言われ、目が瞬く。
「わらびが?」
「宮様の憂いを払うためだ」
例の宮様至上主義である。
「……いいけど」
「おい、どうして拗ねた顔になるんだよ」
あ、わかった、ご褒美がほしいのか、と言われ。
ひき丸は胸に下がった巾着から例の水晶の欠片を取り出した。つまんでもぐもぐっと食べたわらび。
『ご褒美』に免じて、もやもやっとした気持ちは忘れておくことにした。
荷物を持って戻ってきたわらびに、女房は不審そうな目つきをした。もう泣いていないが、目ははれぼったく、真っ赤になっていた。
そのくまのの目の前に布に包まれたものを置く。
「さっき、預かった。宮様から」
「宮様? ……橘宮様のことかしら」
女房はそろそろとほどいた布からあらわれた漆塗りの平べったい箱を見る。箱の上にはきっちり折り畳まれた立て文がある。
「やっぱり橘宮のお手蹟ね」
女房は丁寧に文を開く。その表情からはどんな感情か窺い知れない。
「じゃあ、わらびはこれで」
「待ちなさい」
もう用はないだろうからと立ち上がろうとしたところ、女房はそれを止めた。一旦、文を膝の上に置くと、
「せっかくだから少し持っていきなさい」
平べったい箱の蓋を開けた。
思わず中を覗き込むわらび。中には、油で揚げたような茶色い塊がいくつか。どうやら食い物のようだ。
「こちらが、むぎなわ。これは、まがり」
縄で編んだ形をしたものがむぎなわ。八の字だったり、あぐらをかいた足の形、渦巻型をしたものがまがりだという。
説明するくまのの目は少しだけ嬉しそうだった。
「宮様のお邸で作られる菓子が昔から大好きなの。すごく硬くて歯が折れそうという方をいるけれど、歯ごたえがあっていいの。だから大好き。わたしには多いから持っていきなさい」
「でもわらびは……」
くまのはわらびが普通の食い物を口にできることを知らないのだ。悪意がないのはわかるけれど、躊躇ってしまう。
「意外と遠慮がちなのね。ほら、ほかの女童は昼間、氷をいただいていたでしょう。その場に、おまえの顔はなかったから。……もしかして、ひとりぼっちなのではなくて?」
「ううん。わらびはひとりじゃないよ。だからいいの。だいじょうぶ」
「子どもが遠慮するんじゃありませんよ。これは運び賃です。構わせてちょうだいな」
くまのは衿元から畳紙を取り出すや、むぎなわとまがりを二つ、三つ乗せると、わらびの手に押し付けた。もはや断れる雰囲気ではない。
「そうそう、宮様へお礼を申し上げないとね。文を書くまで少し待っていて」
文机を手元に引き寄せ、紙の上で軽く筆を走らせるくまの。灯火に照らされた姿に濃い影が落ちていく。
「宮様は最近、恋しい方を邸に迎えられたと聞きました。どんな方か知っていますか」
わらびは五井の姫君を思い出しながら答えた。
「いい人だよ。宮様も幸せそうにしてる」
「そうなの。…….よかったわ。あの方もようやく立ち直れたということかしらね」
くまのはほのかに笑みを浮かべた。皮肉などではなく、心がほぐれたような笑みだ。
てっきり、くまのは橘宮の元恋人かと思っていたが、どうにもそういう仲ではないらしい。
「宮様が?」
「そうですよ。以前、大恋愛をなさっていてね、一時は駆け落ちめいたこともされたのよ。それでもうまくいかなかったものだから、ずっと引きずっていらっしゃったの」
「五井の姫君のこと?」
わらびがぴんと来て言えば、くまのは驚いた顔になる。
「知っていたのですか」
「今、宮様のところにいるもの」
「宮様のところに? あの方は近ごろ儚くなられたと耳にしていたのですが……」
「ううん、元気だよ」
ますます訝しげな眼差しを向けるくまの。文を綴る筆はとうに止まっていた。
「なにか事情がありそうですね」
やがて大きく息を吐きながらそう言った。
「何にしろめでたいことです。詳しい事情はそのうち伺えるでしょう。……お祝いの品を考えなくてはね」
ふいにくまのは物思いにふけるような様子を見せて黙り込む。わらびは局の隅でちょこんと正座して待っていたが、結局、「もう出ていきなさい」と言われた。
「文が書きあがりそうにないのですよ。後日持たせますから今日は終わりですよ」
「わかった」
立ち上がって、局を後にしようとしたわらび。
「お待ちなさい」
「うん」
「ほら。忘れ物ですよ」
こっそり置いていこうとしたお菓子をまたもや突き出される。わらびは渋々受け取った。
「嫌そうな顔をしないものですよ。仮にも宮仕えする身でしょう」
くまのは諭すように言う。
「良い菓子なのですよ。どこぞにあげてしまって恩でも売っておきなさい。本当に、わたしには食べきれない量ですからね。……それなのに、もうおまえのほかにあげる相手が思いつかないものですから」
表情に悲しみの色が混じる。あとほんの少しだけ心をつついてしまえば、泣き崩れてしまいそうだ。
「わかった。もらう」
佐保宮には大勢の人が出入りする。その隅でひっそりと泣く女房くまのは、わらびの心に不思議な漣を立てたのだった。
予期せぬ菓子をもらったわらび。自身では食べられないので、どこへやろうかと考えた末、ふつに渡すことにした。ひき丸にも渡そうとしたのだが断られてしまったのだ。
「俺はいいぞ。もう宮様から少しいただいているからな。それよりも、あの同僚にあげたらどうだ。わらびのせいでいつも余計な気苦労をさせられているだろうからなぁ」
「わらびのせいで? そんなことはないよ」
「もちろん、当の『原因』は無自覚だろうさ」
ひき丸が意地悪な言い方をした。
「ははっ。むくれるなよ。わらびの話を聞く限り、よくしてくれているんだろ。お礼代わりに渡したらどうだ」
「……そうだね。そうする」
ひき丸が手をひらひら振って帰っていった。畳紙に包んだ菓子を慎重に持って帰る。
「妙な歩き方をしていると思ったら」
ふつが、菓子を落とさぬようそろそろ歩くわらびを見咎めるやそう言った。
「あげる」
「なあに。最近、私に物をあげるのが流行っているの?」
そう言いつつもふつがわらびの差し出す小さな包みを広げる。あら、と喜色満面になる。
「菓子じゃないの。もらっていいの?」
「うん」
「ふふっ。ちょうどお腹が空いていたところなの。気が利くじゃない」
いそいそと口に含むふつだが。
「かっっったっっっ!」
すぐに悲鳴を上げた。
「石食べているみたいじゃないの! え、どうしてまがりがこんなに硬くなるわけ⁉︎ ……ん、あ。柔らかくなってきた。味はいけるわね……うん」
結果、微妙な顔をしたふつがもぐもぐと菓子を食う。ふとわらびと目が合えばついと下を向く。
「あんまりじろじろ見ないでちょうだい」
「ん。わかった」
食べる姿を見られたくないらしいので、わらびは礼儀正しく視線を逸らした。
「ところでどこからもらってきたのよ」
「くまのだよ」
「あの方から? 何がどうなってそうなったのかわからないけれど、やっぱり貴女って不思議ねぇ」
こんな話をするうちに夜は更けていったのだった。




