むぎなわ、まがり 上
少し涼しくなった夕刻。佐保宮にひき丸がやってきた。何やらきれいな布に包まれた荷物を抱えている。
「宮様に届け物を頼まれたんだ。くまの、という名の女房に渡してほしいってさ。つい最近、佐保宮に出仕し始めたんだと。知ってるか?」
「ううん。知らない。佐保宮にも女房がいっぱい出入りしているもの」
なにせ主人が帝に寵愛されているため、先々のことを考えて取り入ろうとする者が多い。だれがどういう名前か、今まで気にしていなかった。せいぜいが、「あの小柄で化粧がけばい人」や「例の小言と悪口を方々に広め回っている人」といった覚え方なのである。いや、わらびもひとりだけいやがおうでも覚えた女房はいるけれど、あれこそ例外なのだ。
「ふつに聞けばわかるかな。ふつに聞こう」
「おい」
ひき丸がじとっとした眼になり、「まさか後宮にいながら女房方の名前と顔が全然わかっていないということはないよな?」と尋ねてくる。正解だ。こくりと頷くと、ひき丸は天を仰いだ。
わらびも真似して空を見る。茜色めいた空には龍の鱗のような雲がびっしりと浮かんでいた。今の季節は日が長く、夜は短いのだ。
「ひき丸、空きれいだね」
「ちがう。俺は呆れて何も言えなかったんだよ」
ひき丸がため息をつき、佐保宮の建物へ足を向ける。わらびがあまりにも役立たずだから己で届けようということだろう。わらびもたまたま手が空いていたのでついていくことにした。
「俺は心配だ。ここでちゃんとうまくやっているのか? 失せ物探しのたびに留守がちにしてるだろ。おまえはただでさえ目立ちやすいんだから、振る舞い方には気をつけろよ」
「うん」
ひき丸がふと立ち止まって、わらびをまじまじと眺める。片手が伸びたと思ったら、わらびの髪をぐしゃぐしゃに乱した。
「……元気だせよ。しょげた顔をしているぞ」
ぽつんと言われた。わらびが落ち込んでいたのがわかるみたいだ。
わらびを見つめるひき丸の眼はいつだって優しい。
「あのね、佐保宮で氷が配られるんだってふつが言ってた。甘葛をかけると甘くておいしいんだって」
「へえ。食べてみたかったのか」
「ううん。そうじゃなくて。わらびにはわからないことだから」
「ふむ。俺が思うに、おまえが食うものの方がよっぽど上等だと思うんだがなぁ」
「なんで?」
「あの水晶はこの世でおまえしか味わえない代物だ。それだけで贅沢だし、貴重だと思わないか?」
「そんなこと考えてもなかった」
ひき丸に言われるとたしかにそうかもしれないと思えてくる。ひき丸が唇の端を上げて軽く笑う。
「そりゃ、幸せそうに食う顔を見たら考えるさ。そんなに旨いのかってさ。……おい、腕を掴むな、例えの話だぞ。だれも横取りしないさ」
わらびはさっと腕を引っ込めた。
「そうだなぁ。おまえが皆と同じように食べてみたいと思うなら叶えてやりたいと俺は思うよ。そうしたら、同じものを食べて旨い旨いと言い合えるじゃないか」
たとえば童たちが夏の暑さを凌ぎながら木陰で食う瓜。わらびもひき丸と並んでかぶりつくのは、悪くない考えだと思った。
「だが今はさ、互いに思ううまいものをそれぞれ並んで食ったっていいと思うぞ。おまえにとってまずいものを俺に合わせて食おうとしてほしくないし、人にむりやり強いられるのは……違うだろ」
「そうだね」
わらびの口の中に、じんわりと苦い味が広がる。佐保宮に来てまもなく、失せ物探しのわらびの名をまだだれも知らなかったころ。ひどいことがあったのを思い出したのだ。
――嘘をつくのはよくありませんよ。宮で用意した食事が摂れないなどと言って、桜の上を煩わせて。ほら、たんと白飯を食わせなさい。
食事を摂らないのを不気味がられ、人気のない一室に連れ込まれた。何人かの女房がわらびの身体を拘束し、その口いっぱいに食い物を詰め込まれた。
あの時、無理矢理口に入れられた味は忘れられない。
まずかった。苦かった、辛かった。痛かった。
飲み込むのを体が拒絶し、息も忘れた。
女房たちを指図した女は、苦しむわらびを見て楽しんでいた。目元が笑っていたから。
――げほっ。むだだよ、青竹。「食べない」のでなくて、「食べられない」んだよ。どうして放っておいてくれないの。
やっとのことで食い物を吐き出したわらびを見下ろし、彼女は笑みを含んだ声で低く囁いた。
――おまえが嫌がる顔を見るためですよ。桜の上に気に入られているからと言って、わたくしに逆らえるとは思わないことですよ。おまえのような幼い「化け物」を飼い慣らすなど容易なこと。
己の匙加減ひとつでどうとでもなるという自信。青竹はそれを振りかざしてわらびを脅したのだ。
――化け物は早めにしつけしておかないとね。
化け物、と言われることなんて平気だ。わらびに心無い言葉を投げつける輩は今までもいた。「失せ物探し」のためにあちこちへ顔を出すからおのずと耳にする。
しかし、実際に行動に起こされることはそうなかった。明確な悪意をぶつけられ、尊厳を踏みにじられる。佐保宮は恐いところだ。
昼間にふつが期待していた氷にしても、元からわらびの分は用意されていないはずだ。青竹という女房は小さな「意地悪」も欠かさない。
青竹は、佐保宮の筆頭女房である。言わば、桜の上の懐刀だ。それだけに普段の振る舞いはそつがなく、機転のきく聡明な女房のように見えがちだ。佐保宮では、帝の桜の上への寵愛は、青竹の功績もあるのだろうと言われている。はじめは何の後ろ盾もなかった桜の上のため、高い教養を持つ女房を方々で集め、佐保宮を訪れる殿方を当意即妙な返しで魅了し、佐保宮の評判を上げた。その甲斐もあって、帝は桜の上を訪れるようになったのだと。
ひき丸は青竹との不仲を知っているので心配そうにしている。
「わらび。佐保宮にお仕えできるように取り計らったのは宮様だが、辛いようなら俺から言ってもいいんだぞ。おまえの能力は宮様も買っていらっしゃる。悪いようにはしないはずだ」
「そうだね。でもだいじょうぶだよ」
「全然納得していないじゃないか。おまえも頑固なやつだなぁ」
横目でわらびを一瞥したひき丸が肩をすくめる。
「そうかなぁ。……ん。いい匂いがする」
ふと鼻を優しくくすぐるものに気付く。最近嗅いだ中で一番よい香りだ。どこからだろう。嗅ぎ憶えがありそうな……。
『《黄熟香》を盗んだ犯人がたづ彦じゃないかと疑ったんだ』
稲妻のようにひらめく。橘宮が帝から譲り受け、今は行方不明になっている名香。わらびも残り香を嗅ぎ、探してほしいと頼まれたものの、何の手がかりもなかったあの。
「夢の浮橋だ」
「は? え、おい、どこに行くんだ!」
後ろからひき丸の声が聞こえてきたけれど。わらびの目と鼻は、匂いの漂うところを探し出そうとしていた。たったった、と駆け足になる。
そこは佐保宮の殿舎から離れのように突き出した小さな対屋だ。濡れ縁があり、半蔀も上げてある。草鞋を脱いで、階を上がる。すると、あれ、と辺りを見回した。
わらびを誘っていた香の匂いが消えていた。その代わり、別の香りが夏風に混じってふわふわと漂ってきた。
軽くてすっきりとしながらも品を失わない香だ。草木の青さもどことなく感じる。橘宮のような風流人が好みそうだ。
妻戸がわずかに開いていたため、そっと中を覗いてみる。開け放たれた半蔀から夕暮れの光が差し込んでいるが、そろそろ薄暗くなってきた室内には、御簾や几帳、屏風などが並んでいる。
佐保宮の一部ではあるけれど、主人のいる殿舎とは別になるため、昼間は特に人気がない建物である。だが。
「う……」
しん、と静まり返った中に、しくしくと女の泣き声がした。わらびの足はそこへ向かう。匂いもだんだん濃くなっていくが、不思議とくどさを失わなかった。
「おい、戻ってこい! 勝手に入ったら怒られるぞっ!」
そうだけど、気になるんだもの。
建物の外で入るに入れないひき丸は置いておくことにして、わらびはぱらりと何枚目かの几帳の帷子をめくると。
いた。几帳に隠れるようにして、畳の上に突っ伏して泣いている女が。濃い紫と鼠色の衣を纏っている。佐保宮の女房たちが主人にならってみな華やかで明るい色を好むのと比べると、とても地味な装いをしていた。
女の傍には錫で作った香炉が置かれていた。薫物をしていたらしい。
女はわらびの気配に気づいて、ふと顔を上げる。年寄りとは言えないが、若いとも言い切れない年頃の女だ。遠慮深そうな目が涙にぬれて光っていた。彼女は癖っ毛の髪が頬にべったりと張り付いているのをはがしながら、少女の視線から逃れるように下を向いた。
なんといえばいいのかわからないので、とりあえず「だれ」とだけ聞いた。下級女官である樋洗童が利く口ではないのだが、わらびはだいたいこんな感じなのである。
「わからないの、泣いているの」
女はくぐもった声で答えた。
「なぜ泣いているの」
「……哀しいことがあったら、泣いてしまうものでしょう」
「どうして哀しいの」
すると女は眼前の少女を少し睨み、「あなたは何も知らないのね」と冷たい言い方をした。
「……知らないよ。わらびは、何も知らない」
突き放されて寂しい気持ちになった。そのとおり、わらびは何も知らない。過去も、逢いたい人さえも覚えていない。
「昔、わらびにも哀しいことがあったかもしれない。でも、あったことさえ忘れてしまったよ」
「……幸運なことではないかしら。覚えているにもあまりにも辛いことだって世の中にはあるものだから」
「ううん。忘れてしまうのは哀しいこと。だって、思い出のない心は空っぽなんだもの。忘れられた方だって、哀しいよ。覚えている方がずっといいとわらびは思う」
わたしだって、本当は覚えていたいわ、と女は震える声で言う。
「でもそれは苦しいこと。つらすぎて、耐えられないから、忘れたいのよ」
「つらいと思えるぐらい大事だったんだね。……わらびにはそれがうらやましいんだよ」
女房の正面に腰を下ろし、わらびは言う。その目はからりと乾いていた。
目の前の女は今もまだぽろりぽろりと涙の粒を落としている。
わらびはそれがとても奇麗で尊いもののように思えた。
「噂通りに変わっているわね、おまえ」
女の嗚咽はだんだんと先細りになり、止んだ。幾分か冷静さを思い出した声音で女は告げた。
「《失せ物探し》のわらび。おまえのことね」
「うん、そう」
「桜の上からうかがっているわ。失せ物を探し出せなかったことがないそうね」
だったら、と女の唇からこぼれ出たものは。
「かつて失ったわたしの主も、取り戻せたらいいのにね――」
祈りのような、懇願のような。それでいて、どこかで諦めの滲んだ言葉だった。
わらびは尋ねた。
「ねえ、だれ?」
わらびは目の前にいる女房がだれかを知りたかったのだが。言葉足らずの問いは別の答えを導いた。
「……女東宮さま。わたしの主」
眼前の童女がきょとんとしているのを勘違いした女房は、いくぶんかほっとした様子を見せて、こう呟いた。
「あら。ほんとうにおまえは何も知らないのね……」




