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削り氷

新規挿入章「夢の浮橋編」

 素敵な殿方に見染められ、子を産み育てることが幸せなのだ。

 くまのの母はことあるごとに言っていた。


『おまえも天人の血を引く者。とるにたらない者を寄り付かせるものではありません。おまえが立派な殿方と縁づくことこそ母の夢。それがおまえの幸せなのよ』


 幼いころはおのずと受け入れていた「幸せ」が軋んで砕けたのはいつだろう。すでに母の生前から兆しは見えていた気はする。

 仲良しの子の身分が低いからと引き離された時にはすでに違和感はあったのだ。


『ああいう下々の者どもと関われるものではないと、言ったではありませんか!』


 母の目が釣り上がり、苛立っていた。

 いい子なのよ、友達なの、と母に反発したら、派手に頬をぶたれ、口汚く罵られた。母は邸の女主人だ、逆らう者はいなかった。


『おまえにはこの母のように失敗してはならぬのです! 必ずや、公卿や大臣のお家の御曹司と縁を結び、優秀な子を生みなさい! 低い身分の男など害虫と同じ。わずかな隙も見せてはなりません!』


 母が口すっぱく言うのは、自身が『失敗』してしまったから。初めての恋にのぼせ、くまのという子を生んだからだ。

 くまのは父と会ったことがなかった。それなりの身分はあったようだが、父は母を早々に捨てたらしい。

 くまのは母よりも父に似ているらしく、母はくまのに希望を託す一方で、憎悪もぶつけることがあった。

 幸いにも母は早くにこの世を去った。親戚を後見人に立てることとなったくまのは、周囲の勧める夫と結婚したのだが。

 十五の年で得た一人目の夫は浮気性で誠がなく、相手を責めて喧嘩別れ。十七でできた二人目の夫は自己中心的な性格で、何かの拍子で投げたすずりが妻の額に当たって流血した途端に来なくなり。十九で通わせた三人目の夫は姑の反対にあったとかで縁が切れた。

 三人の夫をことごとく失えば、さすがに幼い日に抱いた思い込みから目が醒める。

 母の望んだ幸福は世間でもほんの一握りの特別な女人しか得られないもので、くまのはその特別にはなれなかったのだ。

 素敵な殿方に見染められることなく、子を産み育てることもなく、三人の夫とうまくいかず。きっと元からそんな人生を送ることになっていたのだ。

 夢破れた今、母もなく、父もおらず、母の残した財産がわずかに少し。

 くまのはやりたいこともなく、ただ息をするために生きていた。

 ――ある姫君と出会うまでは。


からの心を満たすには、だれかと心通わせることが肝要なのです。幸せとは婚姻という形ではなく、相手とどれだけ絆を紡ぐことができたのかということ。形が先にあるものではないのです。――くまのの幸せは、これからだって掴めるはずですよ』


 そうおっしゃってくださったのが、女東宮。女東宮とは、女人の東宮のこと。すなわち将来は帝位につかれる方だ。くまのの遠縁にも当たる。人に勧められて仕え始めた方だが、この年下の姫君は万事が大人びていた。物言いも、考え方も。物静かで、何かを諦めているような表情を浮かべる少女だった。

 そうなるのも無理はない。天人の姫は滅多に降嫁しない上、女東宮という地位はそれだけで生涯を籠の鳥として過ごすには十分すぎるぐらいに重かった。くまのよりもよほど息苦しいはずだ。

 形でなく、心を。「形」を望めない姫君は心を求めていた。

 ――この寂しげな姫君は心を繋げられるだれかを欲しているのだ。その「だれか」にくまのはなろうと思った。誠心誠意、お仕えし

 よう。くまのの幸せは、孤独な女東宮を支えることにある。

 ただ、主人は時折、くまのを心配する素振りを見せた。とても曖昧な言い方でくまのに忠告めいた言葉を口にするのだ。

 あの時もそうだった。女東宮が命を落とす直前に――。


『夢と幸せ。このふたつはどちらもとても魅力的ですが……どうか囚われすぎないで』


 女東宮の透き通るような眼差しがくまのに向く。言葉に懇願と祈りの色が混じり、表情には深い憂慮が見えた。


『とくに夢。あれは時に……まやかしを見せるものですから』


 女東宮は異能で先の未来を視ることがあったが、自身の未来は視られなかったのだろうか。


 ――くまのが支えるべき薄幸の姫はいなくなってしまった。本来なら一緒に逝ってしまうべきだったのに。女東宮はひとりきりで雨の川に身を沈めてしまった。それとともに、くまのはまた幸せを失った。

 今も、夢うつつをさまよいながら生きている。




 ◇

 後宮の佐保宮さほのみや。春には桜が多く咲き乱れることで知られる宮だ。夏を迎えた今では青葉が生い茂り、日に当たってつやつやと輝く緑の風景が堪能できる。

 庭の木陰の下、宮中に張り巡らされた御溝水みかわみずが細く流れるところで、わらびはじゃぶじゃぶと手を水に浸しながら御樋箱を洗っていた。

 御樋箱とは漆塗りの便器である。樋洗童ひすましわらわであるわらびの仕事は佐保宮に住む人々からこの御樋箱を回収し、中身を捨てて、洗い清めることだ。他人の排泄物に触れるため、同僚のふつのように悪臭に顔を顰めながらやる者もいるが、わらびはたいして気にすることもなく役目を果たしていた。生きているなら、出るものだってあるだろうというのが本人の弁である。


「ふう。暑いわね……」


 隣に同僚の童女、ふつが腰を下ろした。水で己の手を冷やしながらやはり別の御樋箱をざぶざぶ洗う。額に浮かぶ汗を拭い、わらびをちらっと見るや、「涼しそうな顔をしちゃって」と恨めしそうに言う。


「今日は《失せ物探し》に出かけないのね」

「うん」

「あなた、ずっと出かけっぱなしだったから変な感じね。そのうち、桜の上に顔を忘れられてしまうわよ」


 佐保宮の主、桜の上は、帝の寵愛がもっとも深い妃である。当年、十八。たっぷりとした黒髪と白皙の美貌が世に知られる。桜の化身のような美しい姫だ。

 建前上はわらびの主ということにはなるが……。

 ややあって、ふつはちらりと同僚を見る。


「あなたは気にしないでしょうね」

「うん」

「今、桜の上に気に入られたい者など山ほどいるというのにね。あなたが桜の上のお気に入りだというのがもったいないわ」


 はあ、とふつが肩を落とした。洗い終わった御樋箱の水気を切り、綺麗な白布で拭いている。すぐに御樋箱を倉に仕舞いに行くのかと思いきや、珍しくぐずぐずとその場に留まっていた。


「……まだやるの、わらび」

「うん」


 わらびはなおも御樋箱を洗っていた。傍らにはまだまだ洗う前の御樋箱がこんもりと積みあがっている。ふつはますます渋い顔になる。


「わかっているの、わらび」

「うん? うん。でも気にしないよ」


 ここへ来るまでに次から次へと声をかけられ、御樋箱の山ができただけである。彼女たちにどんな意図があろうと知ったことじゃない。


「明らかにひとりへ頼む数じゃないでしょ。……しかたないわね。洗うだけなら手伝ってあげる」


 ふつは御樋箱の山からひとつ出し、流水で洗い始める。


「ありがとう」

「いいわよ、これぐらい。……理不尽はきらいなの」


 木陰の下、箱を洗う水音が響く。

 ふと思い出したものがあって、わらびはたもとを探った。


「これあげる」


 ふつは己の両掌に置かれたものを見下ろし、黙り込んでしまった。


「……なに、これ」


 眉根をきゅっと寄せた少女が、片手でおそるおそる「それ」をつまみあげ、確認するように聞いてくる。


「人形だよ。作ってみたの」

「人の形をしてないけど?」

「そんなことないよ、手足がちゃんとついてるでしょ」

「頭は!? 目と鼻と口が胴体に描かれているの!?」

「ちょっとかわいさを足してみたよ」

「かわいさ!?」


 ふつがすっとんきょうな声を出す。


まじないの道具かと思ったわよ! 驚かせないで!」

「災いよけの人形だよ。布を詰めて作ってみた」


 えへん、と胸を張るわらび。

 都の童が似たような人形で遊んでいるのを見かけ、なんとなしに自分で作り始めたのだが、よい出来なんじゃないかと思っている。ひき丸に見せたこともあったのだが、無言で眺めた後に返してきた。


「災いも避けて通るだろ、ってひき丸が言っていたから、たぶん効き目あるよ!」

「おどろおどろしい出来だものね……」


 何やら迷った様子を見せたふつだが、「受け取っておくわ」と己のたもとに仕舞いこむ。


「そうだ、あとで女房方の方へ顔を出しておきなさいよ。もしかしたらをいただけるかもしれないわよ」

?」

「帝が山の氷室ひむろを開けられたのですって。そこで桜の上に下賜されたみたい。大きな塊らしいから、わたしたちも食べられるかもしれないわ」


 皇室では山に氷室をつくっている。冬の間に氷を蓄え、夏になると宮中へ運び、涼をとるために食することがたびたび行われるのだ。


「削り甘葛あまづらを煮詰めた汁をかけると、甘くておいしいんですって。女房方がお話ししているのを聞いたわ」

「ふうん」

「何よ、うれしくないの? いくら食わず嫌いでももったいないわよ」


 ふつは、わらびが単に食わず嫌いな性質たちだと思っていた。実際は歩くうちに見つける水晶しか食べられない摩訶不思議な体質なのだが、詳しい事情を話せば気味悪がられるため基本的に伏せているのだ。


「わらびはいいよ。わらびの分があったらふつが食べて」

「あら、そう」


 肩透かしな表情を浮かべたふつは残った御樋箱の山を半分片付けてから宮へ戻っていった。

 わらびはすべての御樋箱を洗い終えると、抱えるだけ抱えて、立ち上がった。


「よいしょっ、と」


 重ねた御樋箱で前が見えない。足元に注意しながらそろそろと進む。

 ――削り甘葛あまづらの汁をかけたもの。

 ふつがあんなにはしゃいでいたぐらいだ、とてもすばらしいものなのだろう。しかし、わらびにはその味がわからないのだ。

 皆が皆、美味しい、美味しいと喜ぶ輪に加われないのは少しだけ寂しい。

 むん、とした暑気の最中、倉に辿り着き、御樋箱を厨子ずしに仕舞う。

 己の額に片手を当てた。額はひんやりと冷たく、汗のひとつも浮かんでいなかった。



削り氷…かき氷

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