思い出したのは
たづ彦は山際の木の下にいた。松明を持たされたまま所在なさげにた佇んでいる。たづ彦はわらびよりも先に検非違使に見つかって保護されたらしい。
「あの狂ヒは……死んだのか」
「死んだよ」
わらびが答えると、たづ彦はそうか、と短く呟いた。夜空を見上げるさまがまるで泣いているのをこらえているように見えた。
たづ彦は意を決したようにわらびを見た。
「なあ、あの狂ヒは俺に似ていたと思わねえか?」
答えを待たずに、たづ彦は続けた。
「俺はもらわれっ子だったんだが、本当の父親なんてろくなものじゃねえと思ってた。案の定、そうだった。あいつ、ふらっと村にやってきて俺を捨てた挙句、もう一度来たと思ったら鵜を盗んで食った上に親爺を殺したんだぜ? ――俺には人殺しの血が流れているんだよ。親爺を殺した男の血がさ」
知りたくなかったぜ、とたづ彦はぼやいた。だが、口調ばかりは軽くても、顔の暗さは松明の火でも誤魔化せなかった。
「あの狂ヒと真正面から見たとき、時が止まったみたいだった。あっちもびっくりしたみたいで、お互いに固まってさ。どうしようもなく似ていたんだよ。――俺が狂ヒになったとしたら、ああいう顔になるんだろうなってさ」
「おまえは化人だろ」
ひき丸はたづ彦の前で両腕を組んだ。
「道を踏み間違えたのは別のやつだ。おまえはたづ彦なんだぞ。その狂ヒとはまったくの別人だ」
「たづ彦は漁師だもの。それでいいんだよ」
たづ彦はわらびとひき丸の面を交互に見てから、顔を伏せた。そうだな、とくぐもった声で言う。
「……悪かったな。勝手に飛び出して。俺はいっつも気づくのが遅くてさ。本当の仲間はすぐに近くにいたっていうのにな」
「そうだぞ、たづ彦。気づけ」
ひき丸がぼそぼそ言いながら頬をかく。
わらびは、はい、と手を挙げた。
「わらびも仲間? 仲間だよね!」
「……お、おうよ」
たづ彦がドン引きしつつも頷いたので、わらびはにっこりした。ひき丸は呆れ顔である。
「もうじき宮様もここに来る。それから宮様が宝珠を顕現され、狂ヒを清めることになっている。俺たちがやれることはもうなさそうだ。少し休んだら、帰ろうぜ」
わかった、と頷いたわらびだが、ふと気になることを思い出した。
「ねえ、ひき丸。瑠璃は見なかった? ここに来るときにすれ違った気がするんだけど」
「三郎君が見つけられたよ」
ひき丸が引っかかる言い方をする。首をかしげたのだが、理由はすぐにわかった。
検非違使に追い立てられた瑠璃が目の前を通り過ぎたのだ。
しかし、その姿は悲惨なものだった。傷だらけの足に、ぼろぼろの衣、振り乱した髪。体を丸めて、まるで老女のようにとぼとぼと歩いていた。
「瑠璃」
わらびが名を呼べば、瑠璃が立ち止まって視線を向けた。
ぞっとした。精気を根本から吸い取られたような空っぽの顔。そこには一切の希望も夢もなく、外の皮一枚だけでどうにか化人の形を保っているかのような。
「なんだい。……君たちもぼくをばかにしにきたの」
喉を傷めたのか、ガラガラ声で瑠璃は言う。
「ううん。無事でよかったよ」
「いや? 無事であるように見えるの?」
乾いた笑いを漏らす。それは川原で見た自信満々の顔とは違い、卑屈さに満ちていた。
「みんなみんないなくなったよ。ぼくが必死で集めた仲間は、三郎が引き取るんだってさ。検非違使別当に仕えられるんだ、みんなよろこんでいたよ。弟は昔から出来がよかったからね、ああいう篭絡はおとくいなのさ」
あーあ、と瑠璃は心底つまらなさそうに言う。
「橘宮もぼくにとっては鬼門だね。あいつがいたからぼくの乳母子は遠くに追いやられたし、家人に仕返しをさせたら、家人を通じてまた仕返しだ。いつもとりすました顔をして、むかっ腹が立つ」
「瑠璃!」
たづ彦は毅然と立ち上がった。
「俺は! 瑠璃に初めて話しかけられた時は嬉しかったんだっ。俺はひとりじゃないんだって思えた! 信用していたんだ! 瑠璃はどうだったんだよ。俺を仲間として心から認めていたのかよ!」
たづ彦が泣いて迫るが、瑠璃は目を伏せたまま答えず、またよろよろと歩き出す。小さな背中が一度だけ振り向いたけれど、それだけだった。
ひき丸が慰めるようにたづ彦の肩を叩いた。わらびも真似をしてたづ彦の肩を叩こうとしたが、背丈の具合もあって、腕のあたりをぽんぽんと叩く。
「瑠璃……二郎君は弟の三郎君に勝ちたかったのさ。だが実際には弟に助けられ、今後はひどい噂に苛まれることだろう。三郎君が二郎君を見つけたところに俺も居合わせたが、およそ兄弟の会話ではなかったよ。三郎君は心底、兄を軽蔑しているのさ。二郎君はそれが我慢ならなかったのだろうなあ」
「れっきとした兄弟なのに?」
わらびがひき丸に尋ねた。
「兄弟だからこそということもあるさ。同じ血が通っていても憎しみ合うこともあれば、まったくの他人同士でも一緒にいるうちに親のように慕うこともある。ままならぬものさ」
気づけばほのかに辺りが明るくなっていた。夜明けが近い。
そのわずかな寸暇を惜しむように三人は空を眺め、ともに日の出を迎えたのだった。
――鬼がいた。こっそりと化人たちに紛れ、穢れを溜め込むように耳元で囁いた。
畜生の肉はおいしゅうございますよ……。
鬼のいうことにいともたやすく騙された男たちは身の内にどんどんと穢れを入れて、悪事も山ほど働いた。そのうちに、風貌が変わっていく。化人から狂ヒに近く。
死霊や怨霊の成れの果てが狂ヒだとしたら、化人から狂ヒになったものは《化人狂ヒ》とでも言えばいいのか。
ともかく、化人が狂ヒになることは証明された。さて、次は、と鬼は考え――口の端に笑みを刻んだのだった。
廃寺の一件から数日後。
検非違使の取り調べもすっかり終えて、わらびは佐保宮に帰ってきた。
これでもわらびは樋洗童という役職をいただいているのだ。滅多に帰ってこないが、一応そうなのだ。
佐保宮は今上帝の寵愛を受ける妃の御座所として使われており、常に人が大勢いる。だからわらびのひとりやふたりいないところで支障がないとは思うのだが。
「あ、わらび! またさぼったわね!」
顔を出すやいなや、同僚の童女、ふつがせかせかと寄ってきた。ふつはふっくらした頬が印象的な童女ではあるが、なんといっても真面目である。わらびと顔を合わせるたびにぐちぐちと「仕事しなさい」と言ってくる。
ただこの時は少し風向きが違った。
「今は大変なのよ! 桜の上が懐妊されたのを知らないの! もう宮中では大騒ぎなんだから!」
「桜の上が? へえ」
桜の上こそが佐保宮の主人であり、わらびたちが仕えている当人なのだが。
ふつはわかりやすい不満顔を作ってみせた。
「なによ、そのうっすい反応。まさかもう知ってたとか? でもまだ今朝のことよ?」
「ううん、知らなかった」
ものすごくめでたいことなのに、とふつはぶちぶち言う。
「じゃあ、これは驚くでしょ」
次の話題を用意したふつが興奮ぎみに語ったのは。
「玄家の二郎君……今朝になって突然、山のお寺で剃髪されたんですって」
あんなに美しい方だったのに世を捨ててしまうだなんて――。
ふつの声が遠くに聞こえた。ただ、次にわらびの耳に飛び込んできた声はこういうものだった。
「前、こちらへいらっしゃったわよね。女房方とお話しされていらして。もちろんわたしたちのような者にお声はかからないけれど、遠くで眺めたじゃない?」
「ん――?」
同僚のうしろを歩きながらふと思い出した。遠目に女房と談笑する柔和な笑みを浮かべた公達を見たことがある。
ただふつとは違って、続きがある。
たまたま近くを横切ろうとしたわらびに「きみ」と声をかけるだけかけて、じろじろとわらびの顔を見てきたのだ。
《失せ物探しのわらび》の顔を面白がって見に来た男のひとりだと思い、さして気に留めていなかったことがふいに蘇った。
あの人こそ、失せ物がない満ち足りた人だっただろうに。心の底の嫉妬心を飼いならし、粛々と己の道を歩んでいればよかったのだ。
瑠璃はだれも信用していなかった。己のことさえも。もしかしたら己を一番嫌っていたのはあの人自身ではないか。
伝える機会はないけれど、そう思った。
たづ彦は近いうち、故郷に戻るという。父の跡を継ぎ、漁師になるのだそうだ。都を出立する際には盛大に見送りたい。回り道をしたけれど、たづ彦の『失せ物』は見つかった。――見失っていた己の道をふたたび見出した。
たづ彦が失せ物を求めて都に来たように、瑠璃も失せ物を見つけるために旅立ったのだろうか。
――人の世から遁れたなら、見えるものも違ってくるのかもしれない。
嫉妬や執着、憤怒もすべて手放せたなら。瑠璃が心の底で求めていた《失せ物》が手に入ったと言えるのではないかと思った。
わらびはこっそりと首に下げた袋から水晶を取り出して口に放り込み、舌で味わう甘さにうっとりとする。……元気が出て来た。
空は快晴、雲ひとつなく。穏やかな日差しに目を細めたのだった。
2021.7.25改稿分。
以降につきましては話の都合上、現在の3章の前に新しい章を挿入し、話を繋げる予定です。
(内容としては前の2章の一部を再構成する形になると思います)
現在の3章以降を読みますと、話の飛ぶ箇所が出てくると思いますのでご注意ください。




