救えたのに
「おかしら! どうした!」
男のひとりが駆け寄ってきたのだが、その心配はすぐに過去のものとなった。
頭の男の手がにゅっと伸びて、相手の首をぎゅっと締めた。
ぼきっ、と嫌な音がしたと思えば、男は動かなくなる。頭はそのまま、いつもたやすく身体をぶん投げた。
ばたん、と堂の壁にぶつかった身体はみるみるうちに大きなヤスデへと変じた。死んだので畜生へ返ったのである。
男たちは一瞬、頭の奇行に戸惑ったのだが、すぐにそれどころではなくなった。
彼らは彼らで、急に殺し合いを始めたのである。身体を掴んでは投げ、押し倒しては腕を捻じ曲げ、足を掴んでは引きちぎる。
食い物を乗せた膳や酒が散らかり、千切れた足が当たった首無しの仏像が後ろに倒れた。
そしてついに、ひとりの怪力が投げた身体は堂から突き破り、天井に大きな穴が開いた。穴からは青い月明かりが差し込んできて、変わり果てた群盗たちの姿をあらわにした。
青くつるりとした肌。赤い眼は爛々とし、眦が裂けている。手足は妙に長くなり、身体は一回りも二回りも大きくなっているようだ。
――狂ヒだ。
ぶわっと全身の毛穴が開いた。
見てはいけないと思いつつ、瑠璃は傍らを見ずにはいられなかった。
頭は、いた。瑠璃を見ている。同じく青い肌をし、赤い眼をぎょろつかせながら。ただ、顔にはしっかりと傷跡があり、さきほどまでの面影を残している。
にたり、と狂ヒが笑う。その狂ヒは殺し合う手下へと突進し、殺し合いに加わった。生き残った狂ヒはすでに三体にもなっていた。死んだ狂ヒの真ん中で瑠璃の仲間たちが縛られたまま動けないでいる。
……狂ヒは群れないものだと聞く。理性がないから狂ヒ同士が出会えば殺し合う。互いが互いを獲物として認識するからだ。狂ヒがまっさきに同じ狂ヒを殺そうとするのは何のことはない、ほかの獲物を横取りするかもしれないからだ。
最後の狂ヒが残った時。ようやくその赤い眼は瑠璃たちを見るのだろう。その肉をばりばりと貪るために。同じ狂ヒも殺したあとで食うのだろう。
狂ヒの殺し合いはあっという間に決着がついた。あの頭だった男がひとり生き残ったのである。
大きな傷のある青黒い顔が瑠璃を見つめてにたにた笑う。
瑠璃はこの時に、静かに命を諦めた。
「な、なんだよ! これ!」
だれかの、大声が響いた。破れた戸の隙間から血まみれの堂内に足を踏み入れた人影は背丈が高い。声はたづ彦のものだった。
狂ヒの注意が瑠璃から逸れる。好機だと思った。
「た、たづ彦! そいつだ! そいつがおまえの探していた仇だろっ!」
「は……?」
たづ彦が戸惑った様子を見せる間に、ぴょんと狂ヒが飛んでたづ彦の元へ行った。
瑠璃は狂ヒが離れている間にほかに開いていた隙間から外へ這い出した。大きく息を吸う。
夜風がひゅうと吹いていた。あんなに騒がしかったというのに、外は何事もなかったように静まり返っている。ついさっきまで死ぬか生きるかの瀬戸際に立たされていたのが馬鹿みたいに思えた。
――悪いね、たづ彦たち。ぼくは死にたくないんだ。
逡巡は一瞬だった。足は都に向かって走り出す。
しかし、参道の石段を駆け下りる途中。
どん、と激しく肩がぶつかった。頬を風がかすめた気がしたのに気を取られ、何者かがそこまで来ているのに気づかなかったのだ。
「わあっ!」
薄闇の中でよろけるちいさな影。
知った声のような気もしたが、構っていられない。影を押しのけた瑠璃は先を急いだ。
――瑠璃には見えていなかった。ぶつかった影が己を見下ろして「瑠璃……?」と顔を曇らせたことや瑠璃の頬すれすれで白い蝶が過ぎていったことも。
なんだろう、これ。
わらびは石段を駆け上がりながら、己の鼻を摘まんだ。そうでもしないとひどい匂いに耐えられないのだ。
蝶はわらびからみえるぎりぎりの空中を飛んでいるのだが、もはや案内すら必要じゃなかった。白い蝶は明らかに匂いを発している場所へわらびを連れていこうとしている。
「わあっ」
身体が何かにぶつかった。ちっ、と舌打ちした影がわらびと入れ違いに参道を下りていく。
薄暗闇の中で浮かぶ姿は、艶やかな女の衣をまとい、背中の中ごろまで垂らした髪をくねらせていた。
「瑠璃……?」
口が勝手に呟いていた。姿かたちをはっきり見たわけではないが、そう思ったのだ。
前方にいたはずの蝶がすうっとわらびの脇を通る。早くして、とせっついているようだ。
「わかった」
ふたたび足は石段を上りはじめた。立派な作りの石段の上には、寺の金堂があったが。わらびは一段と濃くなった臭気に吐きそうになる。ぴちゃん、と水音がしたと思って足元を見れば、血だまりが広がっていた。
おぼろげな月だったが、薄雲がきれいに取り払われたのはその時だった。
わらびの目の前には、何体もの狂ヒが肉塊となって落ちていた。強い腐臭と青黒い肌があるからおそらくそうだ。
そして、金堂の正面には中を覗き込むたづ彦がいた。
「たづ彦」
わらびが近寄りながら名を呼ぶが、返事がない。どうしたのだろうと思った時、たづ彦の身体はまるで棒となって後ろへ倒れた。
「たづ彦っ」
のっそりと、一匹の狂ヒが堂内から出て来た。倒れたたづ彦を軽々と払いのけ、今叫んだ声の主――わらびを見つける。ものすごい速度で追いかけてきた。
しかし、わらびは動けなかった。その狂ヒに目を凝らしていた。
その狂ヒには顔に大きな傷があり、ぱっくり開けた口に鋭い牙が何本も見えた。恐ろしげな容貌だ。このまま食われてしまうのかもしれない。ただ――。
――逢いたい人がいる。だれか、忘れてしまったけれど。
今のわらびには名を知るすべもない大事な人。想えば胸がつぶれ、逢えると思えば心が浮き立つ。
『――瀬をはやみ 岩にせかるる滝川の われても末に あはんとぞおもふ
(岩でふたつに別れた川の水もその先でひとつに戻るように、別れたあなたとまた逢えるって信じているんだよ)』
そんな歌が稲妻のように閃いた。――思い出したい。思い出さなきゃ。
どうしてだか、目の前の景色が滲む。両目が熱くて、重くなった睫毛をぱちぱちと動かしているうちに。
「……蝶?」
さっきの白い蝶がわらびと狂ヒの間で舞っていた。狂ヒまでもがぎょろついた目玉でおぼろに光る蝶を追い、わらびへ手を伸ばすのを忘れているのだ。
『我が御息は神の御息。神の御息は我が御息』
心が凪いでいた。また勝手に唇から言葉が溢れ出す。
右掌が熱くて開いてみれば、白く輝く光がある。狂ヒへ見せるように差し出した。狂ヒが両目を覆ってたじろいだ。
『穢れたる者、極楽浄土に至りて、泥中の蓮とならん』
掌の光は、三日月の形をしていた。まだ欠けていて、不完全な形なのだ。
しかし、それが目の前の哀れな狂ヒを救わない理由にはならない。
――顔に大きな傷跡のある狂ヒ。
近くでたづ彦が腰を抜かしながらわらびを見ている。そのたづ彦の顔と、化人の面影が残る狂ヒの顔と。――似ていると思うのは気のせいではあるまい。
幸いにもこの狂ヒは完全に『狂ヒ』になりきれていない。ごくたまに化人としての輝きが目に宿っているのだ。
――化人を狂ヒにしたモノを引きはがせられるなら。
『穢れとは、五悪。不殺生、不偸盗、不邪淫、不妄語、不飲酒。過ぎれば毒、身を滅ぼす悪なり』
掌から放たれた光が花びらのように散り、狂ヒの頭に、鼻に、肩に、足へと触れる。触れたところから、黒い湯気のようなものが立ち昇る。
『しからば、抱えたる罪をば、落とせ、落とせ、落とせ』
狂ヒは苦しみに身をくねらせた。おおぅ、おおぅ、と呻き声が響き渡る。
『落とせ、落とせ、落とせ……』
器用な身のこなしで暴れる狂ヒを避けながら、つかず離れずの距離で何度も『落とせ』と唱えた。
初めは激しかった黒い湯気が、徐々に減っていく。
――もう少し、あと少し。
『我らは極楽へ至る者なり。世尊大君は極楽往生を約定せり』
狂ヒの抵抗が止む。手足の力を失い、うなだれた。
わらびは欠けた玉を手に持ち、一歩一歩進む。
『久世にいまひとたび、無量無辺の光を乞いたまう。祓えたまえ、清めたまえ。かしこみもうす、かしこみもうす』
狂ヒの青黒い肌がわずかに色味を変えていき、ぎょろついた目玉の赤みも白く。長い手足も縮まって。――あとは、この玉に触れさせさえすれば清められる。
その時に。
「よけろ。さもなければ殺す!」
男の大音声が響いたと思うや。ひゅん、と風を切る音がした。
「あ……」
火矢が狂ヒの肩に刺さった。怒りをたたえた目玉がぎろりと動く。化人に変わりかけた姿が、一瞬、狂ヒのものへ戻った。
「いたっ」
腕に狂ヒの爪がかかった。鋭い痛みが走り、わらびは反射的に後ろに下がった。
ひゅんひゅんひゅん、と次々と火矢が狂ヒに打ち込まれる。
火は狂ヒの肌を伝い、燃えだした。火だるまになる。
「ぎゃあああああああああっ」
――あと、ほんの紙一重だった。救えたのに。
狂ヒが哀しげに啼いた。炎が黒く染まった。料紙が燃え尽きるよりも早く、わらびの目の前で狂ヒが炭になる。
一体だれが、と頭を巡らせると、境内の暗がりでひとりの男が構えていた弓を下ろしたところだった。背後にいる他の者に指示を飛ばしている。親玉に違いない。
わらびは、どしどしと足音荒く、男の眼前に立ちはだかった。
「……どうして!」
「どうして、とは、不思議なことを聞くものだ」
男が酷薄な目を細める。己が理だとばかりに朗々と声を張る。
「よかったではないか、火で燃え尽きたのであれば、あれはまだ人であったということ。化人ならば、人の手で退治ることができよう」
「救えたのに!」
わらびは狂ヒを化人に戻そうとした。だがそれは救うためであって、火だるまにして殺させるためではなかった。――決して!
「おまえが? どうやってやろうというのだ。穢れを祓う宝珠を持つのは天人のみ。おまえのような子どもにはどだいできぬこと。我が兄と同じ愚か者でなければとてもできまい」
「ひとでなし!」
わらび、と後ろから羽交い絞めにされた。
「やめろ、わらび! 逆らうな! 相手はあの三郎君なのだぞ!」
焦りの帯びたひき丸の声が、わらびを平常心へ引き戻す。
「……三郎君って、だれ」
「知らないのか! 検非違使の中で一番偉い御方、検非違使別当でいらっしゃる上に、玄家の三兄弟のおひとりで、都きっての御曹司なのだぞ!」
「知らない」
「わらび! 睨むな、暴れるな、泣くな!」
「泣いてない!」
「ほら、行くぞ!」
ひき丸は男にぺこぺこ頭を下げながらわらびの身体を引きずっていった。
わらびはその際も男を思い切り睨んでやったのだが、男はさして気にしたふうもなく、涼しげな視線を寄こすのみである。
ひき丸は男から少し離れた道端でわらびを解放した。己の手についた血を見て、驚いた顔になる。
「……怪我をしたのか」
「うん」
ひき丸が黙って跪き、わらびの腕の傷を布で縛った。
その間にばたばたと武装した男たちが急ぎ足で横切っていく。検非違使だよ、とひき丸がぶっきらぼうに説明した。彼らは彼らで諸々の後始末があるのだろう。




