幻の川
たづ彦たちはわらびを連れていつもの山荘に戻った。
山荘というのは、瑠璃の持ち物である。すぐ近くには馬場もある。人気のない山林は彼らにとって絶好の訓練場だった。
瑠璃は山荘に着くと、たづ彦に塗籠にわらびを入れるように言い、自らは馬の世話をしに行った。
「じゃ、そこに入れ」
「わかった」
小さな体躯がとことこと暗い塗籠へ入る。
塗籠は妻戸以外の四面を土壁に覆われている。瑠璃はわらびを逃すつもりはないらしい。
わらびは従順だった。力で抵抗しようとしても無駄だと悟りきっているようにも見える。
暗がりからたづ彦を見上げる目は、変に光っているように思えて不気味だった。
たづ彦自身はとんと興味がなかったが、わらびという少女には不思議な力があると聞いていた。瑠璃もその力に目を付け、見かけた途端、連れ帰ると決めたのだろう。
「……ねぇ、たづ彦」
「なんだよ」
我知らず、生唾を呑みこんだ。別に睨まれているわけでもない。相手が非力なのは間違いないのに。
「ひき丸が探してるよ。宮様も心配してる。更級第のお邸に帰ろう」
「俺はもう帰らねえよ。……帰れねえよ」
わらびの目がぱちり、とゆっくりと瞬く。
「俺は瑠璃たちと一緒にいるのがいい。こんな俺でも受け入れてくれる」
「でも、ここにはたづ彦の失せ物はないんだよ」
「失せ物? 俺にはねえよ、そんなもの。頼んでもないのに失せ物探しをするつもりかよ」
ぱちり、ぱちり。
刹那、黒い眼が煌めいたように見えた。
「川……? 舟に、黒い鳥と……黄金の、鮎……?」
途端、ざっと血の気が引いた。――黄金の、鮎。不吉のしるしだ……。
「おまえっ! なんだ! 何を知ってる! 俺の、何を!」
「んっ! んんんっ!」
「見るな、見るな、見るな!」
「……た、たづ、たづ彦。いたい。いたいよ……?」
気づけば、少女が真っ赤な顔をして、手足をばたつかせていた。
たづ彦が小柄な身体を土壁に押し付け、ほとんど首を締めあげるようにしていたのだ。
「あっ……」
慌てて手を離す。足元でこほこほと咳き込む少女に、茫然とする。
まただ。またやってしまった。どうして俺はいつもこうなのだ。頭に血が上ると我を忘れて……。
「わ、わるい」
居たたまれず、塗籠の妻戸をぴしゃっと閉めた。内から出られぬよう、錠をおろしておく。
本来ならば、妻戸の外で見張るべきだっただろうが、どうしてもできなかった。
「瑠璃に頼んで、ほかのやつに見張り役を代わってもらうか……」
瑠璃がいるだろう馬場に足を向けることにした。
瑠璃の頼みを断らなければもっと丁重に扱われていただろうに。ふと憐憫に似た感情を覚えたたづ彦だが、迷いを振り切るように山荘を出た。
「うん。わかった、いいよ。雪虫が代わりに行かせよう」
馬場にいた瑠璃はあっけなくそう言って、別の者を山荘に向かわせたが。怒った様子で戻ってきた。
「たづ彦! おまえ、ちゃんと妻戸は閉じたか! 錠も下ろしたのか!」
「ちゃんとやったぞ」
「できてないぞ! 逃げた! あの童女は逃げたぞ!」
瑠璃が眉間に皺を寄せた。篝火に照らされてもなお、苛立ちを隠せないように見えた。
「たづ彦。きみかな?」
逃がしたのかと言われて、懸命に首を振る。
「ち、ちがう! 俺はちゃんとやった! ちゃんとやったぞ!」
「……そう?」
穏やかな口調がそら恐ろしかった。瑠璃に追い出されたら。本当に、もう居場所がなくなってしまう……。
「まあ、いいか。みんなで探そうか。行こう?」
瑠璃の指示を受けた少年たちがふたたび馬に乗る。
訓練を受けた彼らは夜であっても身軽に動けた。乗り手が松明を持ち、数頭の馬が山林を駆ける。
そのうちの一頭、仲間たちからの冷たい視線を受けたたづ彦は焦りを覚えた。
――俺が。俺が、一番に見つけなければ。
時は少し遡る。塗籠に閉じ込められたわらびは、物がない中央の辺りで膝を抱えて丸くなった。たづ彦の足音が遠ざかるのを耳にしながら、目を瞑る。
外に出られないなら仕方ない。寝よう。そんな心持ちだった。
――けれど、すぐに。ほとほと、と外から戸を叩く音がした。
「たづ彦?」
何か用があってたづ彦が戻ってきたのかと思ったが、返事はない。だが気配は妻戸の外に留まっている。身体を起こして、戸を凝視する。
「たづ彦、じゃないんだね。――だれ」
なおも応えはない。
ガシャン。ふいに外で大きな物音がした。塗籠の中に新鮮な風が入ってくる。そろそろと前に出たわらびは、妻戸が開いていることに気付いた。
閂代わりの木の棒が妻戸から出たところに落ちている。
一体、だれがやったのだろう。
不思議に思いながらも、わらびはさっさと山荘を出ることにした。このまま閉じ込められるのは勘弁だ。
――だいじょうぶ。わらびだって、ひとりで帰れるもの。
ひとりで出歩くのをひき丸はいつも心配する。わらびひとりでは難しいんだから、俺もついてくんだ、と言うのだ。
でもわらびだって時間はかかろうが、ちゃんと目的地に着いているのだ。ひき丸が言うような方向音痴とは違うと思う。
更級第まで辿り着いた時に出会う、ひき丸の驚き顔を想像し、わらびはにんまりした。
「よし、行こう」
はりきった少女は何の迷いもなく山林を突き進む。獣道さえない夜の山を――都とは逆方向の、さらに南へ。
木々の間を歩くうち、少女の耳は水音を捉えた。
さらさら、ちゃぽちゃぽ。
なんとなくその音に惹かれて近寄ると、視界が開けた。ぼんやりとした月が照らしたのは、川原だ。しかも、ごろごろとした岩が転がり、川の中からも岩場が突き出している。
川上から赤い火がゆったりと下りてくる。舟だ。舳先から篝火を吊るしている。舟の上にはふたつの人影がある。
片方が黒い鳥を引き上げて魚を吐かせ、もう片方が舟を操っていた。ふたりで何か話しているようだが、岸にいるわらびには聞こえない。
けれど、篝火に赤々と照らされた舟の操り手の顔はわかっていた。さっきも少しだけ視たのだ。――黄金の鮎を獲る、二人組。たづ彦の過去。
「たづ彦っ!」
わらびは幻に呼びかけた。幻だから二人が反応するわけもなく。たづ彦と初老の男は川を下っていく。
『親爺ィ。いい夜だなぁ』
最後に風に乗ってそんな声だけ聞こえた。
追いかけなくちゃ。わらびは思う。
たづ彦の失せ物は、その先にあるはずだ。本当は取り戻したいと心の底では思っている――。
「わらびっ!」
自分じゃない声がして、わらびははっと我に返る。
空はほんのり白みはじめていた。目の前の川にはごつごつとした岩などひとつもなく、広くて穏やかな川の流れが見えている。
腰のあたりまで冷たい。わらびの半身は川に浸かっていた。もう少し行けば足元を取られ、流されていただろう。
じゃばじゃば、と背後から両脇を抱えられ、わらびは川から出た。
「ばかっ! 肝が冷えたぞ! 俺を殺す気か!」
「ひき丸……」
開口一番に怒り出した顔を見て、ほっとした。幻じゃない、本物のひき丸である。
「すごいね。なんでここがわかったの?」
「そりゃ、必死に探していたからだよ! 宮様にもお願いして、人も出してもらった。群盗のねぐらの在処は人の噂話を聞きまくって、方向だけは当たりをつけたんだ。俺はわらびじゃないんだから、探すのはめちゃくちゃ大変なんだ!」
ひとしきりまくしたてたひき丸は肩で息をしている。わらびが攫われたと思い、懸命に動いていたのだ。
「よしよし」
「……なんだよ」
頑張ったひき丸の頭を撫でれば、本人はむすっとした顔になる。ついで、ため息。
「あーあ、疲れた」
「そうだね」
「見つからないうちにさっさと帰ろう」
水を吸って重くなった衣をひとまずその場で絞る。ぽつぽつとこれまでの経緯を語ると、ひき丸は険しい顔をした。
「それはよくないぞ。あいつらのいう鬼が、今、都で恐れられている連中だとしたらかなりまずい」
「どういうこと」
川沿いを歩きながらひき丸は都で聞いてきた噂を話してくれた。わらびの行方を追おうと話を聞くうち、自然と入ってきたという。
「相手は化人をわんさか殺し、金品を奪う連中だ。あんな寄せ集めとは違う、本物の群盗だ。場数が違いすぎる。いまだに検非違使に捕まらないのも、よほどの手練れが揃っているんだろ。返り討ちに遭うのは目に見えてる」
それに、とひき丸は声を潜めた。
「もっとよくない噂もあった。――あいつらは、化人を食うらしい。文字通りの意味で」
想像したのか、ぶるりと身体を震わせるひき丸。
――馬のいななきが聞こえたのは、その時だ。
朝日を背にわらびたちへ馬を駆る人影。ひき丸がわらびを己の背後に押しやり、たづ彦、と低い声で呼ぶ。
馬上のたづ彦はすぐ近くまで来たが、馬から下りないままわらびたちを見下ろした。
「……ひき丸もいたのかよ。ちっ、めんどくせぇ」
「あいにくだったな。失せ物探しは諦めろ。わらびを物騒なものに巻き込むな。探すなら自分たちでやれと大将には伝えろ」
「おまえこそ諦めろ。こいつは瑠璃がご所望なんだ。用事さえ済んだらすぐに解放してやるさ。置いていけ」
「たづ彦。おまえ、心の底から落ちぶれたようだな。宮様のご厚意も踏みにじる真似をするな。……道を踏み外すなよ」
わらびには、ひき丸が真摯に訴えているように聞こえるのに。当のたづ彦は鼻で笑う。
「なんとでも言え。俺はそもそも家人なんぞ向いていないんだよ。ちまちまと庭の草木を整えるのは、俺の仕事じゃねえ。もっと大きなことができるんだって瑠璃が教えてくれたんだ」
「それが鬼退治? ばかげているぞ。おまえたちの探す鬼たちの噂は俺も聞いたが、あれはおまえたちのお遊びで太刀打ちできるものじゃない。検非違使でさえ手を焼く連中が、おまえたちの手に負えるかよ」
「いいや。できる。瑠璃が教えてくれたから」
「ではその瑠璃が大馬鹿者だということさ。部下に無謀な死地へ行かせるのは無能な大将がやることだ」
「なに!?」
たづ彦がひき丸へ手を伸ばした。ひき丸はぱしりとその手を叩き落としながら、大柄な身体に飛び掛かる。体勢を崩したたづ彦は馬上から落ちて砂利の上を転がった。
起き上がろうとするたづ彦。今にもひき丸に襲い掛かりそうだったから、わらびはたづ彦の腕を掴んだ。




