失せ物探し
その日は少し春めいた日差しが降り注いでいた。
主人に頼まれ、若菜摘みへ行く最中だった。笹の葉の上に、きらりと光るものを見つけた。遠目には朝露に見えたのに、乗っていたのは小さな石の欠片だった。二本の指で摘まんで朝日に透かす。水精《水晶》だった。
珍しいなと思った。
水精はわらびの《失せ物》。他のものならともかく、水精だけは己で見つけられた試しがない。
まぁ、そういうものじゃないか。隣に立った少年が肩を竦めた。
「どんなに優秀で賢明な官人でも、世俗との関わりを絶った仙人でも、己を見失う時があるものさ」
「……失くしたものが、大事すぎるから見えなくなることもあるのかな」
「どういうことだ?」
少し考え込んだ少女は手のひらの欠片を見つめた。
「本当は大切にしていたんだよ。だからこそわからなくなって――忘れちゃったのかな」
ほろ苦くて、少しさみしい気持ちになる。
そう、気持ちだけ憶えている。
逢いたい人が、いたはずだ。だれか忘れてしまったけれど、忘れてしまったことは忘れられない。
「食っていくうちに思い出せるだろ。……探すのは俺も手伝うし」
少年は他に欠片がないか笹の繁みを枝でつつきだした。
少女は腹が空いたので、おもむろに口に含んだ。その水精の味は八功徳水のごとく、甘く瑞々しかった。これほど奇麗で美味なものはほかにない。
少年が枝で笹を揺らすたび、霜解けの葉が小さな星屑のように光っていた。
◇
――失せ物あらば、佐保宮の童女に尋ねよ。
巷でそんな噂が飛び交うようになった。
童女の名はわらび。幼さの抜けない童女であるが、《失せ物探し》となるや、噂に違わぬ的中ぶり。諦めていた失せ物が次々と見つかるのだ。
このわらび、依頼を受けて都を歩けば、不思議と失せ物へ行き会ってしまうのだという。依頼人へ渡せば、たいそうな喜びようで褒美の品が積みあがるが。肝心の本人は、物に頓着しなかった。
どんなに高価で貴重な品物でも見向きもしない。ある公卿が豪華な膳を用意させても手を付けなかったという。わらびがぽつりと漏らすには、食べられないから、と。
佐保宮には奇妙な童女がいるものだと評判になったのだった。
◇
わらびは、ふわあ、とのびやかなあくびをした。肩の辺りで切りそろえた黒髪が、紅の衵の上の白い汗衫へうちかかった。顔の造作が恐ろしいほど整っているが、所作や声に素朴さがにじみ出ている童女だ。
寝ぼけ眼をこすっていると、おい、と呆れたようなかすれ声が右隣から。
「宮様の御前だ。しゃきっとしろ」
室の中央にある灯台の火が闇の中でゆらゆら揺れていた。灯火が少年の面をうすらぼんやり照らし出す。
馬の尻尾のように髪をくくった、浅葱色の水干を着た少年が、板敷の上に尻をつけて胡坐を掻いている。
この少年の名はひき丸と言った。しゃきっとしろと言うわりに、己こそがしゃきっとしない細目が特徴である。
「しゃきっと。……しゃきっと?」
わらびはふらふらと左右へ動く頭を両手で押さえた。だが、目蓋はだんだんと重くなる。
時刻は鶏鳴の頃より前。もののけの類はいざ知らず、大概の者はまだ眠りの中だろう。
寝床を求めて稲穂のように垂れる頭に、その場にいたもうひとりの人物の、涼やかで少し低い声が響く。
「せっかくの美人が台無しではないかね、わらび」
「宮様。わらびは己に疎いのです。見てください、この何も考えていなさそうな阿呆な面を」
わらびを「美人」と評した人物へひき丸が口を挟むが。
「花開く前の蕾のようにかわいらしいではないか。いじわるなことを言っていると、離れていってしまうかもしれないよ?」
「あんまり無防備なものですから、俺ぐらいは言ってやらないといけないんです」
大真面目な少年に、男はからかうように言った。
「そなたも面倒見がよいね。河原院で拾った子に、ここまで心砕く者はそういないだろう」
そう言われ、ひき丸はうっすら頬を赤くなったようだった。拾ったんで、と口ごもらせながら言っている。
「さあ、わらび。隣ばかり見てないで、この橘宮の方を見てごらん」
落ち着いた男の声が、わらびの耳にまっすぐ届いた。ふと目が醒めて、正面へ視線を上げる。
灯火に照らされた美貌の男が座している。烏帽子をかぶり、耳元のおくれ髪がたいそうなまめかしく、つやつやとした光沢のある臙脂の衣がよく似合っていた。
名を橘宮。皇族のひとりで、正真正銘、やんごとなき身分の御方なのである。ひき丸の主人でもあり、わらびが佐保宮に仕えられるよう取り計らった人物でもあった。
「起きたかね?」
ゆったりとした所作で持たれた脇息から居住まいを正した男に、わらびはもう一度、目元を擦り、「起きた」と素朴な声で答えた。
「それで、何の話だったっけ」
「わらびっ」
右隣の少年が慌てるが、男はさして気にした風でもなく、「桃の枝の話をしていたのだよ」と告げた。
「ある女に届けてほしいのだ。近く、都を出るというものだから。ただ、探すのは少し手間だから、そなたたちに頼みたい」
「失せ物は桃の枝なの?」
そうとも、と橘宮はしっとりとした微笑みを湛えて頷いた。
「桃の花が満開に咲いた枝だ」
「そんなのないよ」
今は梅の花さえ待ち遠しい寒さなのだ。桃の花が咲くにはもっと時期を待たなければならない。
だが橘宮は「ある」と断言した。
「桃の花が咲くのは、《おぼろの桃園》。あの桃園の花は常に今を盛りに咲き誇る。生涯に一度しか入ることを許されぬ幻の桃園だ」
わしはその一度をもう使い切った、と男は眦をやわらげた。
「かの桃園は入る者を選ぶとも聞くが、そなたたちなら入れるかもしれぬ。引き受けてくれるかね」
「はっ、喜んでお引き受けいたしますっ」
間髪入れず、右隣の少年が勢いよく頭を下げる。わらびの意向などまるで無視である。
橘宮はわらびへ「どうする」と言いたげな顔をした。わらびはごく簡潔に「わかった」と返して、立ち上がる。
橘宮は笑みを深くし、こう告げた。
「さあ、そなたたち――『失せ物探し』をしておくれ」
橘宮の言葉に背中を押されるように、少年少女は夜明け前の京へ飛び出した。
――そうだ。もしも、首尾よく桃の花をかの女へ渡せたならば、言付けしておくれ。
『あかざりし桃の花』、と。そう、それだけ伝えておいで。
八功徳水…極楽浄土にある八つの功徳を湛えた水のこと。




