冷たい掌
土煙の裏で光る二つの赤い球体。
それは一目で“影”の目だとわかった。
ゆらり、影が揺れる。
「ーっげろ…っ」
震える口から絞り出すように落とされた呟き。
だが弱々しく溢れたそれに深聡の身体を鼓舞する力が宿る事はなく、膝の笑い声にかき消された。
動け、動けよっ!!
こんな化け物。普通じゃないっ!
逃げなきゃ殺される!死ぬ!!
死にたくないだろ!?俺っっ!!!?
影は震えながら硬直している深聡を見、ゆっくりと土煙からその体躯を現した。
それは黒く、陽の沈みきったこの空気に溶けるようにありながらも、確かな『存在』としての圧力を持っていた。
歩み寄るそれを前にしても、動かない全身。
ただ立ち尽くすことしか知らない両脚。
限界まで見開かれた瞳。
加速を繰り返していた呼吸は力尽きたようきその足音を詰まらせていた。
目の前で停止する影。
輪郭はハッキリと捉えられながらも、肉付きは黒い靄がかかったように、また、周囲を吸い込むやうな常闇が広がっていた。
深聡は赤い視線に釣られるように己のそれを上げていく。
双方のそれらが再び交じり合おうとしたその時、深聡は影の頭の横に現れた巨大な塊を捉えた。
「!」
その黒い塊に、本能はこれまでとは比べ物にならない程の音量と音高を持って掻き鳴らされる。
その音は四肢の麻痺を取り払い、深聡は弾かれたように横に身体を投げ打った。
「ゲハっ!」
コンクリートで固められた地面に強か打ち付け、漏れる苦痛の声。
己の支配下に戻った四肢とは裏腹に、掻き乱されたままの頭を引きずりながら上体を起き上がらせる。
1つ高くなった視界が自身の足元に注意を向けた時、深聡は瞠目した。
大きく、凹んだ地面。
コンクリートで固められた歩道が巨大な拳に呆気なく粉砕され、1部だった欠片を辺りに撒き散らしていた。
ジワリと氷を血管に突きつけられる感触を振り払うように、深聡は校門の外へと駆け出した。
「くそっ!何だよあれ!何だよあれっ!!」
後ろを振り向く余裕もなく、深聡は必死の形相で駆ける。
固い地面は冷えた感触を足裏に跳ね返し、同じ温度の音を響かせた。
残響を曳く誰もいない歩道。温もりのない空気。
不自然なその雰囲気に疑念を抱きつつも、深聡の脚は止まる事はなく、僅かな街灯の元を駆け抜けた。
「泉さん…っ!?…置いてかれた…っ!」
そりゃそうだ
1日2日の関係などあんな化け物を前にしたら赤の他人と同じだ。
真に1人である事を受け止め焦りに顔を歪める。
その時、背後で轟音。
その衝撃に地面は欠片と煙を上げながら揺れ、深聡の脚を止めた。
弾かれたように振り返ると、『あの』影がこちらを見下ろしていた。
「ああ…もう…クソ…」
自分を射抜く眼光を前に、深聡はジリジリと後退する。
だがその空いた少しの距離を影は1歩で容易く踏み潰し、迫る。
徐々に埋まりつつある二者の空間に、深聡の恐怖と焦りは絶頂を迎えた。
「ううっ!」
背後を振り返り、再び走り出す。
だが数歩進んだところで深聡の身体は何かに跳ね返され、乱暴に地面に抱きとめられる。
「な…ん!!??」
強打した鼻を押さえながら深聡は慌てて立ち上がり、前方に腕を伸ばす。
何もないはずのそこ。
しかし、深聡の指先は確か、何かに触れた。
固い感触。前方に伸びる一本道を塞ぐように立ちはだかるそれは、まるで壁のようなーー。
ドン。
深聡の背後から、強大な質量を持った何かが地面に落ちる音がした。
パラパラと小石のようなものが跳ねる音。
その中で、響く、低音。
地を揺らしながらゆっくり、ゆっくりと深聡の方へと近付いてくるそれ。
深聡は壁に手を添えながら、後ろから迫る圧力に、ジットリと汗を頬に流した。
隙間のない壁。命を刈り取ろうとする影。
逃げ場など、与えられていない。
「こんな…訳わかんねぇやつに…!!」
困惑を混じらせた鼻声を落としながら、深聡は振り返り、背中を壁に付け少しでも距離を取ろうとする。
だがそれは叶うはずもなく、影の掌は深聡の体を掴み、持ち上げる。
「カハッ…」
恐ろしいほど冷たい掌と、締め上げるその力に深聡は苦痛と共に息を吐き出す。
段々と鼓舞しが握られていく中で、深聡は妙な感触を抱いていた。
体内に、何かが流れ込んでいる感触。
見れば、体に触れている部分がジワリと液体状になっていた。
それは制服を突き抜け、血液と混ざるように身体の内側に侵入しているようだった。
掌と同様に、冷気を放っていてもおかしくない程の温度は深聡の僅かに残された体力と気力を躊躇なく削り取り、同時に四肢の感覚を失わせた。
糸が切れたように、項垂れる。
冷たい水中に落とされたかのように、目の前が暗くなっていく。
やがて、深聡の瞼がもう意識を手放そうとしたその時、何かが、深聡の目の前を裂いた。
直後、肩に乗しかける重力。
深聡の身体は地面に落とされた。
消えかけている意識を持ち上げ、霞む視界が捉えたのは、冷たい空気に閃く、銀の輝きだった。