弦の一声
その枯れ木のように痩せ細った男は、人々が〈最果ての国〉と呼ぶ異境の地からやってきた。
〈最果ての国〉からの旅人といえば、交易商人か異教の伝道者と相場が決まっている。そうでなければ、逃亡犯だ。しかし、枯れ木のような男はそれらのどれでもなかった。
彼は高名な魔弓師のところに行くと、自分の名を告げ、片言の言葉で頼んだのである。
私を弟子にしてくれ、と……。
◆
身体を反らし、前脚で激しく宙を掻きながら、二頭の馬が嘶いた。
どちらの馬にも、騎上鎗を構えた騎士が乗っている。馬と同様、その騎士たちの鼻息も荒い。
馬と自分を落ち着かせながら、二人の騎士は移動した。一人は闘技場の北端へ。もう一人は南端へ。
闘技場で音を立てているのは、この二人と二頭だけであった。観客席には何千人もの人間がいるが、誰も声を出さない。皆、固唾を飲んで見守っているから……というわけではない。しらけているのだ。〈ヴォルタの疾風〉と名付けられたこの馬上試合を真剣に観戦しているのは出場者の身内だけだった。
「始め!」
審判が旗を振り下ろした。
騎士を乗せた二頭の馬が走り出した。土煙を上げ、相手に突進していく――最初の数メートルに限って見れば、それは凄まじい勢いだった。しかし、相手が近付くと、まるで申し合わせたかのように両者は馬のスピードを少しばかり落とした。恐怖にかられたわけではなく、鎗の狙いを外さないためなのだが、観客にとっては同じことだ。
主人の行動に不満を抱きながらも、二頭の馬は己の勢いを殺し、実戦的とは言えない速度ですれ違った。
四つの音が続けざまに闘技場に響いた。北側から進んできた騎士の鎗が相手の甲冑に命中した音。その鎗が折れた音。鎗を喰らった騎士が地面に落ちた音。そして、彼の口から飛び出した情けない悲鳴。
馬上に残っているほうの騎士は馬の速度を上げると、観客席の枠に沿って闘技場の中を回り始めた。
折れた鎗を誇らしげに掲げ、観客席に向かって勝利の雄叫びを上げる。
何人かの観客が欠伸で答えてくれた。
王都の闘技場で戦う剣闘士たちにとって、カッシーニの剣祭は休息の日である。この日ばかりは観客の無慈悲な罵声を浴びずに済むし、試合中の事故で(あるいは事故に見せかけた攻撃で)重傷を負うこともない。
彼らに代わって、騎士たちが闘技場に立つからだ。
カッシーニの剣祭。救国の英雄の名を冠したこの祭典で、若き騎士たちは己の腕を皆に示す。ただし、「皆に示す」ために使う武器は、刃を潰した剣や先端を丸めた槍である。本物の武器を用いることもあるが、その標的となるのは、誰も着ていない甲冑や等身大の人形だ。
命懸けでないという点ではカッシーニの剣祭も剣闘士の戦いも同じだが、後者のほうが娯楽として洗練されている。それを見慣れている観客たちが剣祭を退屈なものだと見做すのは当然と言えよう。
それでも、若き騎士たちは闘技場で奮闘する。見世物にすらならないことに興じる自分の姿が滑稽だと知りつつ、剣祭に力を注ぐ。
注がざるをえないのだ。自分が武人であることを証明できる機会は他に無いのだから。
剣祭で〈ヴォルタの疾風〉の次に行なわれるのは〈ルドヴィコの雷撃〉である。馬上から魔弓で標的を射るという単純な競技だ。しかし、単純ではあるが故に観客の受けは悪くなかった。他の競技のように八百長じみたところがないし、バランスを崩して落馬した騎士の醜態を見て大笑いするという意地悪な楽しみもある。
それに加えて、今年の〈ルドヴィコの雷撃〉には皆に期待を抱かせる大きな要因があった。だからこそ、例年になく多数の観客が集まったのだ。
〈ヴォルタの疾風〉の後片付けが終わると、場内に散らばった五人の進行役が〈ルドヴィコの雷撃〉の開始を告げた。
そして、最初の出場者の名が叫ばれた。
「リッカルド・ウーゴ・ランバルディ子爵!」
初めて観客席がざわめいた。皆はこれを待っていたのだ。
三十八年前の戦争(今のところ、もっとも新しい戦争だ)で勇名を轟かせた英雄ランバルディ。剣祭の名の由来となっている剣聖エウジェニオ・カッシーニも、魔弓術においてはランバルディの敵ではなかったという。
「ランバルディなんざ、過去の遺物さ。もう六十を過ぎてんだ。弓を射るどころか、馬に乗ることもできやしねえよ」
観客の中には、そんなことを口にする者もいた。
それに同意する者も少なくなかった。
ゲートの奥からランバルディが現れるまでは。
漆黒の甲冑に身を包み、青毛の馬にまたがったランバルディの姿には一毫の隙も無かった。甲冑の中にあるのは老いさらばえた身体なのかもしれないが、若い騎士たちが持っていない殺気のようなものが全身から立ち昇っている。
ランバルディの雄姿に呑まれ、観客席は再び沈黙に包まれた。いや、雄姿だけではない。彼が携えている魔弓も観客たちを圧倒した。
それは頭の大きいB字型の魔弓であった。B字型になっているのは弓束が弦に向かって深く窪んでいるからであり、頭が大きいのはその弓束が低い位置にあるからだ。しかも、奇妙な形をしているだけでなく、普通の魔弓よりも大きかった。弦を外して反りを伸ばせば、長さは2メートルを超えるだろう。
弓が大きければ、その表面に多くの呪印を刻むことができる。呪印の数が多ければ、その魔弓の性能は高くなる。魔弓の性能が高ければ、その使い手には相当な技量が要求される。大型の魔弓を携えることによって、ランバルディは自分の腕前が尋常なものではないことを示しているのだ。
「……アレッシオだ」
観客の一人、初老の男が呟いた。
「間違いない、あれはアレッシオの魔弓だぜ」
またもや、ざわめきが小波となって観客席を走った。
英雄ランバルディを知らぬ者がいないように、魔弓師アレッシオを知らぬ者もいない。
ランバルディの武勇伝にはアレッシオの名が必ず出てくる。ランバルディがコーダルンゴ橋で蛮族の進攻を防いだ時、彼の手に握られていたのはアレッシオの魔弓だった。コルヴォ傭兵団の団長と決闘した際もアレッシオの魔弓を使った。アンテンナ城の反逆者ニコーラの首を射抜いた矢もアレッシオの魔弓から放たれた。
ランバルディは、観客たちに誇示するようにアレッシオの魔弓を掲げた。
彼を乗せた馬が闘技場をゆっくりと一周する。〈ヴォルタの疾風〉の最終試合の勝者が同じことをしていたが、それを見守る観客たちの心情や反応は同じではない。
馬が元の位置に戻ると、ランバルディは兜の面頬を上げ、それが落ちないように指先で押さえながら、深々と頭を下げた。頭を下げた先には貴賓席があり、そこには王弟のレオーネ卿が座っていたが、彼に対して頭を下げたわけではない。
観客たちの中に埋没している小太りの貧相な老人――魔弓師アレッシオ・パリアンテに向かって、往年の勇者は一礼したのである。
◆
王都の郊外に建てられた庵に魔弓師アレッシオは暮らしていた。
そこにランバルディ子爵が訪れたのは、カッシーニの剣祭が開催される半年前のことである。
「なぜ、こんなに狭くて汚い場所で暮らすのだ?」
作業用の机の上に腰を下ろし、粗末な椅子に足をかけて揺らしながら、ランバルディは庵の中を見回した。
それにつられて、アレッシオも室内を見回した。
「ふむ。狭いのは認めます。しかし、汚くはないでしょう。一週間ほど前にジネヴラがやってきて、勝手に掃除をしていきましたからな」
「たった一週間でこの有様か……」
ランバルディは苦笑した。
「また、昔のように俺の館で暮らすつもりはないか? 貴様が眼の届くところにいれば、ジネヴラも余計な苦労をしなくて済む。いや、むしろ苦労が増えるか?」
「増えるでしょうな。なんにせよ、儂はここを離れるつもりはありません。一人のほうが落ち着きます」
「しかし、今も一人暮らしというわけではないだろう。あの青瓢箪もいるではないか。今日は見かけないが……」
「リャオのことですか? 彼奴はサバティーニの町に行っております。しばらくは帰ってきません」
四年前、異国の青年がアレッシオの前に現われ、片言の言葉で頼んだ。私を弟子にしてくれ、と。
その青年がリャオである。アレッシオは彼の願いを聞き入れ、魔弓に関する知識や技術を惜しみなく伝授した。リャオの中に眠っている魔弓師としての優れた資質を見抜いたからだ。
最近、自分の孫娘とリャオが恋仲であることをアレッシオは知ったが、二人の関係に口を挟んだりはしなかった。リャオの才能を認めているので、孫娘との交際も黙認しているのだろう――と、周囲の人々は解釈している。しかし、リャオに才能が無かったとしても、アレッシオは何も言わなかっただろう。彼は孫娘の人生や弟子の私生活にさして関心を抱いていない。もちろん、二人を愛していないわけではなかったが。
「なぜ、青瓢箪をサバティーニなんぞに行かせた?」
「まあ、修行の一環といったところでして……」
アレッシオが言葉を濁すと、ランバルディもそれ以上の追及はしなかった。もとより、異国生まれの弟子などに興味は無い。
ランバルディは机から降り、本題を切り出した。
「なあ、アレッシオ。ひさしぶりに魔弓を呪製してくれぬか」
「魔弓を?」
アレッシオは眉をひそめた。
「何のために?」
「実はカッシーニの剣祭に出場することにした。ほら、ルドヴィコの何とかと言う大仰な名前の競技があるだろう。それに参加するので、魔弓が必要なのだ」
「笑えない冗談ですな」
「笑えんだろうな。私は本気だ」
「……」
アレッシオは押し黙り、ランバルディの眼を見据えた。
ランバルディも無言でアレッシオの眼を直視する。
相手の言葉が冗談や嘘でないということを悟ると、アレッシオは小さく嘆息した。
「子爵はカッシーニの剣祭のことを嫌っているとばかり思っておりましたが……」
「嫌ってはいない。ガキのお遊びなんぞ、嫌う価値も無かろう」
「なぜ、嫌う価値も無いものに参加されるのですか?」
「戦争ごっこに興じるガキどもに〝本物〟の凄さを見せつけてやるためだ」
「大人気ないですな」
「ああ、大人気ないとも。ガキに混じって遊ぶからには、こちらもガキにならなくてはいかん」
ランバルディはニヤリと笑ってみせた。
しかし、アレッシオは笑みを返さず、厳しい眼でランバルディを見据えた。
先程と違い、ランバルディは老人の眼を真正面から受け止めることができなかった。きまり悪げに頭をかきながら、顔を伏せる。厳格かつ寡黙な父を前にした放蕩息子の体だが、実際、二人の関係は親子に近いものがあった。特にランバルディが若い頃はそうだった。アレッシオの亡き妻がランバルディの乳母を務めていたことも影響しているのかもしれない。
血の繋がらぬ〝伜〟に向かって、アレッシオは再び問いかけた。
「なぜ、剣祭に参加されるのですか? 本当の理由をお聞かせください」
「私が化石でないことを証明するためだ」
と、顔を伏せたまま、ランバルディは答えた。
「子爵が化石ですと? 誰がそのようなことを?」
「誰も言ってない。少なくとも、口に出してはいない。しかし、私を見る眼がそう語っているのだ。いや、正確に言うと、誰も私を見てはいないのだ。皆が見ているのは、私の過去だ。今を生きている私の姿を道標にして、三十余年前の私の勇姿に想いを馳せている。獣の化石を見て、それが血肉を供えていた頃を想像するかのようにな!」
ランバルディは椅子を蹴り飛ばし、顔を上げた。
「戦を知らぬ若い連中は私のことを伝説の英雄と見做している。私だけではない。剣聖エウジェニオ・カッシーニ、神業のジュスト、巨人テオドーロ・バダラメンティ、熱き腕の小カッシーニ、剣の姉妹と謳われたイポリタとイレーネ、ガルデーニア砦の三神将……皆、今では伝説と化した。アレッシオ、貴様もだ」
「けっこうですな」
「けっこうなものかよ。カッシーニ卿やジュストはいいだろう。既に死んでいるのだからな。しかし、私たちはまだ生きているのだぞ。生きたままの状態で、伝説という名の棺に納められてしまったのだ」
「……」
「私はその棺の中で死を待つつもりはないぞ。人生を終えたわけでもないのに、過去形で語られたくはない。だから、再び戦場に立ち、皆に教えてやる。このリッカルド・ウーゴ・ランバルディが化石ではないということをな! と、言いたいところだが――」
ランバルディは言葉を切り、肩をすくめた。
「――幸か不幸か、戦が起きる気配は微塵も無い。この国はあまりにも平和だ」
「それは間違いなく『幸』です」
「そういうことにしておこう。まあ、とにかく、戦が起きないのであれば、戦場以外の舞台で私の力を見せるしかあるまい」
「その舞台というのがカッシーニの剣祭ですか?」
「そうだ。あの剣祭はつまらぬ茶番劇だが……いや、茶番劇だからこそ、本物の戦士である私の姿が際立つはずだ。他の出場者は皆、私の引き立て役となるだろう」
「ふふ……」
アレッシオは初めて笑った。
「やはり、大人気ないとしか思えませんなぁ」
「魔弓を呪製してくれなければ、私はもっと大人気ない真似をするかもしれんぞ」
ランバルディはそう言った。冗談めかした語調に反して、表情は真剣だった。
「わざわざ新しい魔弓を呪製するまでもないでしょう。子爵は儂の魔弓を何十張も持っておられるはずです」
「過去の貴様が呪製した魔弓などいらぬ。魔弓を必要としているのは過去の私ではなく、現在の私なのだからな。貴様も化石でないことを証明してみせろ」
「証明のしようがありません。実際、儂は化石なのですから」
「では、化石だということを証明するがいい。魔弓を呪製することによってな。できあがった魔弓が益体もない代物ならば、今後は貴様を化石として扱ってやるから、ありがたく思え」
「そんな挑発に乗るほど、私は単純ではありませんぞ」
そう言いながらも、アレッシオは魔弓呪製の緻密な計画表を頭の中で書き始めていた。子爵の心情に共感したからではない。悪友のつまらない道楽に惰性で付き合うような心持ちに近い。
脈があることを悟ると、ランバルディは何も言わずに相手の言葉を待った。
しかし、老人の口から出てきたのは、ランバルディが期待していた言葉ではなく、今までの話題とは何の関係もなさそうな質問だった。
「ところで、サバティーニ伯爵のことは知っておられますか?」
「……ああ、知ってる」
訝しげな顔をしながらも、ランバルディは頷いた。
「いけすかない若造だ。先代に似ず、礼儀というものを知らん。噂によると、奴も今年の剣祭に出場するらしいな」
「その噂は本当です。五日ほど前、ここにサバティーニ伯が来られましてな。子爵と同じことを言われたのです。魔弓を呪製しろ、と……」
「ほほう。貴様に眼を付けるということは、魔弓の腕にかなり自信があるということだな。あるいは、ただの過信かもしれんが。なんにせよ、断ったのだろう?」
「もちろんです」
「で、それがどうしたというのだ?」
「サバティーニ伯の依頼を断っておきながら、子爵のために弓を作ると、いろいろと波風が立ちませんかな。サバティーニ伯は気性の激しい方のようですし……」
「大丈夫だ。爵位は奴のほうが上だが、俺のやることに口を出すことはできんよ。なにせ、戦時の私の活躍があったからこそ、奴の親父はサバティーニの領主となることができたのだからな」
「そうですか」
アレッシオは眉間に皺を寄せ、天井を見上げた。実のところ、彼はサバティーニ伯爵の怒りを買うことなど恐れてはいなかった。逡巡の原因は他にあるのだ。
ランバルディが訊いた。
「それ以外にも何か問題があるのか?」
「問題というわけではありませんが、実はリャオが……」
「青瓢箪がどうした?」
アレッシオは子爵の問いに答えようとしたが――
「いえ、なんでもありません」
――寸前で思いとどまり、かぶりを振った。
そして、気合いを入れるかのように自分の両頬を平手で叩いた。
「判りました。新しい魔弓を呪製してみましょう。しかし、期待はしないでください。先程も言いましたが、私は既に化石になっておりますからな」
◆
審判が、旗を持った手を空に差し出した。
ランバルディ子爵は兜の面頬を下げ、正面を見据えた。
王国の旗が掲げられたポールに向かって、太い白線が引かれている。白線の左右には杭が十二本ずつ立てられていた。杭の長さは揃っておらず、白線からの距離も一定ではなく、杭と杭の間隔も不規則である。右側の十二本の杭の上には菱形の薄い板が乗せられており、左側の十二本には磨き上げられた小さな木球が乗せられていた。それらが魔弓の標的だ。
競技者は白線に沿って馬を走らせ、右側の十二個の標的を射る。そして、ポールの位置で反転し、左側(競技者から見れば右側だが)の標的を射抜きながら、最初の地点に戻る。途中で馬を止めることは許されないし、白線から大きく逸れることも許されない。
ランバルディは左右に眼を向け、杭の位置を確認した。最も遠い位置にある杭でも白線から五十メートルほどしか離れていないので、魔弓の矢を命中させることは難しくない。ただし、それは馬を駆っていない状態でなければの話だ。
観客たちは固唾を呑んで、ランバルディを見守っていた。
彼らは大きな期待を抱くと同時に、一抹の不安を感じていた。もしかしたら、老雄ランバルディはしくじってしまうかもしれない。まともに馬を走らせることもできず、まともに魔弓を射ることもできないかもしれない。そんな無様な姿は見たくない。英雄は英雄のままでいてくれ。伝説を汚さないでくれ。
そのような身勝手な不安をランバルディは鋭敏に感じ取っていた。
(いっそのこと、わざと失敗してやろうか? 燦然と輝く過去の栄光を自分の手で打ち砕くというのも悪くない)
兜の中の顔が自嘲気味の微笑に崩れたが、それはすぐに渋面に変わった。
(だが、そんなことをしても、誰も私の真意には気付かないだろうな。『さすがのランバルディ卿も老いには勝てなかった』などという結論を出すだけだ)
ランバルディは舌打ちした。心の奥底から怒りがこみあげてくる。その怒りは観客たちだけでなく、他の出場者――戦を知らない若い騎士たちにも向けられた。
(私たちの世代が血を流したから、この王国は平和な時代を迎え、貴様たちは血を流さずに生きていける。そう、貴様たちは戦うことを誰にも強制されないのだ。それなのに、なぜ、剣祭なんぞに夢中になる? なぜ、武人であろうとする? これは私たちの世代のものだ! 貴様らなんぞが手を触れていいものではない!)
正当な怒りではない。お気に入りの玩具を取られた子供のような心境だ。ランバルディはそれを自覚していたが、先程と違い、自嘲する余裕は無かった。
怒りは徐々に狂気を帯びてきた。杭の上の標的ではなく、ゲートの奥で待機している出場者たちに向かって、魔弓を射掛けるべきなのかもしれない――そんな考えが頭を過ぎった。憧れの実戦を経験することができるのだから、若き騎士たちはさぞかし喜ぶことだろう。ただし、その代償は高くつく。彼らにとっても、ランバルディにとっても。
「始め!」
審判の叫びによって、狂気の妄想は断ち切られた。
ランバルディの頭の中は一瞬にして白一色に塗り潰され、迷いや気概や憤りが消えた。
伝説の英雄は馬を走らせた。腰に差した矢筒から第一の矢を抜き、弓に番える。口から呪音を発すると、魔弓に巻かれた樺の皮の隙間から光が漏れ出た。呪印が発動したのだ。
矢が放たれた。魔弓から付与された呪力が働き、ありえざる速度で風を切りながら、標的に向かっていく。
その矢が菱形の板を打ち割る前に第二の矢は放たれていた。間髪をいれずに第三の矢が飛び、第四の矢が飛び、第五の矢が飛んでいく。ランバルディは一瞬も手を休めなかった。機械仕掛けの人形さながらに同じ動作を繰り返した。しかも、素早く、正確に。
矢が板に命中する度に観客はどよめき、歓声をあげ、足を踏み鳴らし、拳を振り上げた。
十枚目の板が割られると、観客たちの反応は更に激しいものになった。
その板を割ったのは、九本目の矢だったのだ。
ランバルディは射線上に二枚の板が重なる瞬間を狙い、一本の矢で二枚の板を射抜いたのである。
続いて放たれた第十の矢も二枚の板を割ったが、ランバルディはそれを見届けもせず、馬を反転させた。
前述したように、後半の十二個の標的は木球である。板よりも小さいだけでなく、矢が刺さりにくい。にもかかわらず、ランバルディは前半と同じような調子で魔弓を連射した。さすがに一本の矢で複数の標的を射ることはなかったが、すべての矢が木球の中心部に命中した。
あまりにもあっけなかったが、拍子抜けする暇は観客たちには与えられなかった。
ランバルディは最初の位置に戻っても馬を止めず、速度も落とさず、闘技場を周回した。残った矢のうちの一本を魔弓に番え、頭上に向かって放つ。それから一拍の間を置いて最後の矢を放つと、それは前を行く矢の矢筈に命中した。前方の矢は尾部から二つに裂け、勢いを失った最後の矢と共に舞い落ちた。
観客たちの歓声は絶叫と化した。王弟のレオーネ卿までもが席から立ち上がり、手首が折れんばかりの勢いで拍手をしている。
場内を五周ほど回ると、ランバルディはようやく馬を止め、兜を取って一礼した。もちろん、頭を下げた相手はアレッシオだ。
しかし、老魔弓師はランバルディの勇姿を見てはいなかった。他の観客たちはすべて立ち上がっているが、彼だけは腰を下ろし、顔を伏せていた。片手を上げて耳に添えていなければ、眠っているように見えたかもしれない。
仮にアレッシオが顔を上げていたとしても、その眼がランバルディの姿を映すことはなかっただろう。
競技が始まった瞬間から、彼は眼を閉じていたのだから。
◆
アレッシオがランバルディ子爵の依頼を引き受けてから半月ほどが過ぎた頃、子爵の邸宅に勤めている女中のジネヴラが庵を訪れた。
アレッシオは頭の固い昔気質の職人ではないので、よほどの事がないかぎり、作業場に女が足を踏み入れることを拒んだりはしない。その女が自分の孫娘なら尚更だ。
「子爵からの差し入れよ」
ジネヴラはワインの壜を作業用の机に置いた。
机の上には、魔弓を作るための道具や材料が並べられている。鑿や錐や鑢、漆の入った小さな壺、切り揃えられた櫟の枝、樺の皮、動物の腱、麻縄――それらをいじりながら、ジネヴラは祖父に尋ねた。
「どう? はかどってる?」
「それなりにな。子爵のほうは?」
「すごく調子がいいみたい。おじいちゃんの作った古い魔弓を持ち出して、毎日のように練習されてるわ。でも、奥様たちは出場に反対してるの。『もう若くないのですから、バカな真似はおやめになってください』なんてことを子爵に何度も仰ってるんだけど――」
「――子爵は聞く耳を持つまい」
「そういうこと。さ、て、と……」
何かを探すかのようにジネヴラは視線を巡らせた。
「あたし、今日はあまり長居できないのよね。外に馬車を待たせてるし……」
「うむ。私用でないことは、その服を見れば判る。儂のことなど気にせず、さっさと帰れ。掃除はまた今度でいい」
「……」
「どうした?」
「いや、『どうした』じゃなくてさー」
机の上に乗っていた物をジネブラは無造作に隅に寄せ、空いた場所に腰を降ろして胡座をかいた。清楚な印象を与える容貌と女中服にそぐわない格好だが、本人は気にしていないようだ。
「帰らんのか?」
「帰る。帰るよ。帰るけどね」
ジネヴラはモブキャップを頭から剥ぎ取り、大袈裟に溜息をついた。
「長居できない可哀想な孫娘のため、恋人との短いながらも素敵な逢瀬をセッティングしようとか思わないかなー」
「意味が判らん」
「ストレートに言うと、『リャオに会わせてちょーだい』ってことよ! ホント、気が利かないんだから」
「無理を言うな。彼奴がサバティーニの町にいることはおまえもよく知っているだろう」
「え!? そんなこと、知らないよ! どういうことなの?」
「聞いてなかったのか。おまえに知らせるように言い含めておいたのだが……そんな余裕は無いのかもしれんな。おそらく、魔弓の呪製に没頭しておるのだろう。彼奴は真面目だからな」
「もしもぉ~し」
アレッシオの顔の前でジネヴラのモブキャップが振られた。
「一人で納得してないで、事情を説明してよ。どうして、リャオがサバティーニなんぞにいるわけ?」
「サバティーニの伯爵のことは知っているか?」
「子爵からちょこっと聞いたわ。おじいちゃんに魔弓の呪製を依頼したんですってね。けど、おじいちゃんは断ったんでしょ?」
「断った。その代わり、リャオを紹介した」
「ウソ!?」
ジネヴラは思わずモブキャップを落としたが、それは床に落ちることなく、手の中に戻った。胡座に組んでいた足を素早く解き、蹴り上げたのである。
さすがにアレッシオは顔をしかめて、
「おまえ、子爵のお屋敷でもそんな伝法な真似をしているんじゃなかろうな?」
「だいじょーぶ。死んだ母さんから、猫の被り方だけはしっかり教わったからね」
「あいつは猫被りの天才だったからな。おまえの父親はうまく騙されたよ。儂も婆さんに騙された。で、今は哀れなリャオが騙されてるわけだな」
「そのリャオよ」と、ジネヴラは話題を元に戻した。「サバティーニ伯爵に紹介したってことは……伯爵はリャオの魔弓を持って剣祭に参加するってことよね?」
「おそらく、そうなるだろう。リャオ以上の魔弓師がそう簡単に見つかるとは思えんからな」
「じゃあ、今度の剣祭はリャオとおじいちゃんとの師弟対決の場になるわけだ」
「そういうことになるかな」
アレッシオは何十人もの弟子を育ててきたが、その中から師を超える魔弓師は一人も現れなかった。アレッシオが出藍を恐れて教育に手を抜いたわけではない。本人の自覚していない天才特有の勘が弟子たちに伝わらなかったのだ。
しかし、晩年に得た異国の弟子――リャオだけは例外だった。師が自覚していない呪製の勘所を彼は見出し、自分の物にした。まだ師を超えたわけではないが、今までの弟子の中では最も優秀だ。だからこそ、アレッシオはサバティーニ伯爵にリャオを推挙したのである。
「やっぱり、『この師弟対決に勝たねば、孫娘はやらん!』ってなことをリャオに言ったりした?」
「言うわけなかろう。だいたい、そんなことを言っても無駄だろうが。おまえは儂の意見なんぞ無視して、リャオと強引に添い遂げるに決まってる」
「そりゃそーね。だははははは!」
ジネヴラは笑った。外見に似合わぬ豪快な笑い方だが、不思議と違和感は無い。
気が済むまで笑い終えると、ジネヴラは机から落ちない程度に身を乗り出して、アレッシオに尋ねた。
「で、師弟対決はどっちが勝ちそう?」
「判らん」
「実際のところ、リャオの才能はどんなものなの? おじいちゃんを越えてる?」
「越えてはいないが、息が首筋にかかるほど間近に迫っている。少しでも気を抜けば、儂が彼奴の背中を見ることになるだろう。なにせ、彼奴は儂の知らぬ技法を知っておるからな」
「へぇー。天才魔弓師アレッシオの知らない技法なんてものが、この世にあるの」
「あるとも。この国ではなく、リャオの生国の魔弓の技術だ。儂はそれをまったく知らぬわけではないが、リャオのように熟知しているわけではない」
「リャオの国の魔弓のほうがこの国の魔弓よりも強いってこと?」
「そんなことはない。しかし、二種の技法を知っていれば、両方の長所を同時に活かすことができるかもしれぬし、場合によっては、一方の短所をもう一方の長所で打ち消すこともできるかもしれぬ。更にうまく工夫すれば……」
眼の前にいるのが魔弓にさして関心を持っていない孫娘であることも忘れて、アレッシオは講義を始めた。
そんな祖父を冷やかな眼で見つめながら、ジネヴラは溜息まじりに呟いた。
「なんか楽しそうねー」
「楽しそう? 儂がか?」
「他に誰がいるっていうのよ。この前までは片足を棺桶に突っ込んでるような有様だったけど、今はとても生き生きしてるわ。眼が輝いてる。たぶん、リャオもそうなんでしょうね。あたしのことなんか忘れて、サバティーニ伯爵のお城で楽しそうに魔弓をシコシコと作ってんだわ。ったく、男っていうのはどうして……」
愚痴に変わり始めたジネヴラの長広舌を聞き流しながら、アレッシオは独白した。
「楽しんでいるだと?」
机の端に寄せられた道具の中から、研ぎ澄まされたナイフを手に取り、その刃に両目を映す。ジネヴラの言う通り、瞳は輝きを帯びているように見えた。最近、これと同じような眼を見た。
そう、ランバルディの眼だ。
「儂も化石ではなかったか……」
◆
ランバルディ子爵が退場すると、観客席を支配していた熱狂の空気も消えた。総立ち(アレッシオだけは座っていたが)になっていた観客は腰をおろし、冷め切った眼で競技の続きを観戦した。まだ興奮している者もいたが、彼らは場内には眼を向けず、ランバルディの見せた神業について隣の者と語り合っていた。剣祭が終わったわけでもないのに、帰ってしまう者もいた。
そんな観客たちの態度に屈することなく、若き騎士たちは本人が驚くほどの激しい雄叫びを上げ、〈ルドヴィコの雷撃〉に挑んだ。彼らもランバルディの実力を目の当たりにして興奮していたのだ。
しかしながら、その興奮を成果に繋げられる者は少なかった。騎士の大半は全ての標的を射抜くことができず、全ての標的を射抜いた少数の者にしても、馬のスピードは並足よりも少し速い程度だった。
騎士が無様な結果を出すにつれて、観客席の温度は下がっていく。それが絶対零度に達しかけた頃、十三番目の騎士――最後の出場者の名が呼ばれた。
「ジェレミア・ジョット・ディ・サバティーニ伯爵!」
一瞬にして、観客席に熱気が戻った。
その原因は、白銀の甲冑を身に付けたサバティーニ伯爵の雄々しい姿ではなく、彼が携えている歪なB字型の魔弓だった。
「アレッシオだ! アレッシオの魔弓だ!」
「伯爵もアレッシオの弓で挑戦されるおつもりなのか?」
「無理だ! あんな青二才にアレッシオの魔弓が扱えるわけがねえ!」
観客たちが次々と声を上げる。彼らは知らなかった。サバティーニの持っている弓を作ったのはアレッシオではなく、その無名の弟子であることを。
「始め!」
審判が叫ぶと、サバティーニは馬を走らせた。
「うおおおおおぉぉぉーっ!!」
雄叫びに呪音が混じり、魔弓の呪印が光を放つ。
サバティーニは矢筒から第一の矢を抜き、魔弓に番え、最初の標的めがけて放った。その動作はランバルディほど洗練されていなかったが、スピードの点では劣っていなかった。
続けざまに矢が飛び、板が割れていく。
観客席に完全に火がついた。ランバルディの時と同様、矢が標的に命中する度に歓声が上がる。
その歓声に応えるかのように、サバティーニもランバルディの競技を再現してみせた。九本目の矢で二つの的を射抜き、十本目の矢でまた同じことをしたのである。
とはいえ、それはあくまでも「再現」に過ぎなかった。ランバルディの競技を見て、矢を射るべきポイントを盗んだのだ。サバティーニの出番がランバルディの前であったなら、同じことはできなかっただろう。
何人かの観客はそれに気付いたが、サバティーニのことを卑怯だと罵ったりはしなかった。矢を射るべきポイントを知ったからといって、誰にでも同じ真似ができるわけではないのだから。
馬が土煙を上げて反転し、競技は後半戦に移った。
観客を盛り上げるため、サバティーニは叫び始めた。
「一つ! 二つ! 三つ!」
叫びが発せられると同時に矢は弓から離れ、次の叫びが発せられると同時に木球に突き刺さっていく。
「四つ! 五つ! 六つ!」
観客たちもサバティーニと一緒に叫び始めていた。
「七つ! 八つ! 九つ!」
皆の脳裏からランバルディが消えた。
「十! 十一! 十二! ……」
『十二』の次に来るのは、万雷の拍手と歓声のはずだった。だが、観客たちの口から漏れ出たのは、悲鳴じみた嘆きの声や失意の溜息だった。十二本目の矢は最後の木球の中心を射抜かず、その横を擦めるだけにとどまったのである。
サバティーニは悪態をつきながら、余っていた矢を瞬時に放った。今度は見事に命中したが、それに対する観客たちの歓声はあまり大きいものではなかった。
馬が元の位置に戻ると、サバティーニはリャオの魔弓を力まかせにへし折った。
観客席から罵声が飛んだ。矢を外したことではなく、魔弓を折ったことに対する罵声だ。
折れた魔弓を投げ捨て、サバティーニは怒声を発した。観客に訴えかけるように。
「最後の的を外してしまったのは、俺のせいではない! 魔弓のせいだ! この魔弓は俺の腕に応えるほどの力を持っていなかった!」
もちろん、観客たちはサバティーニの言葉を信じなかった。皆、あれがアレッシオの魔弓だと思い込んでいるのだ。伝説の魔弓師アレッシオによって呪製された逸品が、青二才の「腕に応えるほどの力を持っていなかった」わけがない――そう信じているのだ。
二つに折れた魔弓を残してサバティーニが退場すると、審判が大声を張り上げた。
「〈ルドヴィコの雷撃〉の優勝者はリッカルド・ウーゴ・ランバルディ子爵!」
観客たちは伝説の英雄に拍手を送った。もう、サバティーニのことなど忘れていた。自分たちがランバルディのことを忘れていたことも都合良く忘れていた。
ただ一人、アレッシオだけは拍手をしていなかった。ランバルディの時と同じように、眼を閉じて、耳に手を添えている。その手は微かに震えていた。
「リャオよ……」
そこにはいない弟子に向かって、呻くような調子でアレッシオは呼びかけた。
「……おまえの勝ちだ」
◆
十日後、ランバルディ子爵の邸宅の門前に幽鬼のような影が現れた。
アレッシオである。
わずか十日のあいだに彼の姿は変わり果てていた。太り気味だった身体からは肉が削ぎ落とされ、しなびた皮と貧弱な骨だけが残されていた。顔は蝋の色になり、頬はこけて、眼窩は落ち窪んでいる。その眼窩の底にある眼は不気味な光を湛えていたが、それはジネヴラが「眼が輝いている」と評した時の光ではなかった。
アレッシオはまずジネヴラに何事かを告げ、それから子爵への面会を申し出た。子爵と二人だけで大事な話がしたいのだ、と。
数分後、館の一角にある書斎に驚愕の声が響き渡った。
「貴様、正気か!?」
それはアレッシオの「大事な話」を聞いたランバルディの第一声だった。
「はい」
アレッシオは重々しく頷くと、再度、自分の決意を口にした。
「リャオの国に渡り、魔弓師として一から出直す所存です」
「笑えん冗談だな」
「笑えないでしょうな。儂は本気ですから」
「……」
ランバルディはアレッシオをまじまじと見つめた。眼の前にいる老人が冗談を言うような者ではないことはよく知っているが、彼の言葉を素直に信じることはできなかった。
いや、信じたくなかった。
信じることが恐ろしかった。
アレッシオの声音は穏やかだったが、背筋を凍らせるような響きを確かに含んでいたのだ。
「子爵には言いませんでしたが、あの剣祭でサバティーニ伯が使用した魔弓は――」
「――リャオが呪製したものなのだろう。それはジネヴラから聞いた」
「そうでしたか。ならば、儂の言うことも判っていただけるでしょう。儂は……リャオに敗れたのです」
「何を言う。サバティーニは最後の的を外したではないか」
「それはサバティーニ伯が子爵に敗れたというだけのこと。射手の勝負と魔弓師の勝負は別です。子爵はサバティーニ伯に勝たれましたが、儂はリャオに敗れたのです」
「貴様の呪製した魔弓がリャオの魔弓よりも劣っていたというのか? 確かにリャオの魔弓は見事な出来栄えだったが、貴様の魔弓に勝っているとは思えなかったぞ」
「それは子爵がリャオの魔弓を手に取っていないからです」
「貴様も手に取ったわけではあるまい?」
「はい。しかし、この耳で聞きました」
「何を?」
「弦の音です」
「……埒もない」
ランバルディは鼻で笑った。
「弓弦の音が観客席まで届くものかよ。まして、あの時は皆が大声で叫んでいたのだぞ。聞こえるわけがないだろう」
「儂には聞こえたのです」と、アレッシオは断言した。「二つの魔弓は形こそ似ておりましたが、弦の音はまったく違ったのです。儂の魔弓は籠の中で餌をねだる鳥の囀り。リャオの魔弓のそれは血に飢えた獣の咆哮でした」
「詩的だな。貴様らしくもない。もう少し理に適った説明を期待していたのだが」
そのランバルディの皮肉が聞こえなかったような顔をして、アレッシオは語り続けた。
「本来、魔弓というものは戦場で人の命を奪うものです。闘技場で動かぬ的を射るものではありません。リャオは魔弓の本分を忘れず、人の命を奪う兇器を作り上げました。一方、儂は己の技と経験に溺れ、杭の上の板や木球を射るためのつまらぬ道具を作ってしまったのです」
「どうにも信じられんな。あの青瓢箪が『兇器』を作れるとは……」
「儂も信じられませんでした。儂や子爵と違い、彼奴は戦を知りませんからなぁ」
アレッシオの眼が閉じられる。ほんの一瞬、息子を誇る老父のような優しげな表情になった。だが、その一瞬が過ぎ去ると、再起を誓う老魔弓師の顔に戻っていた。
「戦場に立ったことがないにもかかわらず、戦場で通用する武器を……いや、戦場でしか意味を成さぬ武器をリャオは呪製したのです。誓って言いますが、彼奴は血を求めるような狂人ではありません。虫も殺せぬ気弱な男です。そんな男が心に戦場を描き、そこに身を置き、血を吐くような思いをして、魔弓を呪製したのです。儂のほうはといえば、いつのまにか魔弓作りを楽しんでいました。剣祭のことを子供の遊びとバカにしつつ、自分もその遊びに夢中になっていたのです。これで勝てる道理が無い」
「私は勝ったぞ。貴様と同様、『遊びに夢中になっていた』にもかかわらずな」
「それは勝負の相手であるサバティーニ伯も遊びの気分が抜けていなかったからでしょう。しかし、これだけは言っておきます。もし、勝負の場が剣祭ではなかったら、お二人が戦場で相対していたら、互いに命を奪うことを念頭に置いていたら――」
アレッシオは眼を開いた。
「――子爵はサバティーニ伯に敗れていたかもしれませんぞ。リャオの魔弓には、お二人の技量の差を埋めるだけの力があったのですからな」
老魔弓師の双眸には狂気の光が宿っている。
その光を見て、ランバルディは戦慄した。同時に、魅せられた。競技が始まる直前に湧き上がった狂気が思い出される。あの時の自分も今のアレッシオと同じような眼をしていたのかもしれない。
「判った。よく判った」
自分の中で狂気が再び頭をもたげることを強く意識しながら、ランバルディは何度も頷いてみせた。
「しかしなぁ、私が言えた義理ではないが、少しばかり大人気ないのではないか。弟子を負かすために修行の旅に出るというのは……」
「リャオはもう弟子ではありません。むしろ、儂が彼奴に弟子入りしたいぐらいですが、さすがそれはできませんからな。彼奴の生国に渡り、異境の魔弓術を習得することにしたのです。つきましては、子爵にお願いがあります」
「言ってみろ。私にできることなら、何でもやってやろう」
「何年先になるか判りませぬが、儂が修行を終えて戻ってきたら、また剣祭に出場していただきたいのです。儂の新たな魔弓を手にして、その猛々しい弦の音を皆に聞かせてやってください。その魔弓は純粋な兇器として呪製された物になるでしょうから、剣祭で本領を発揮することはできないかもしれませんが……なにとぞ、お願いします」
「今度は貴様が私を引っ張り出すのか」
ランバルディの口許が歪んだ。微笑したのだ。
だが、その歪みを微笑と認めることができるのは本人とアレッシオだけだろう。
それほどまでに凄惨な顔付きだった。
「よかろう。貴様の新たな魔弓を使って、また闘技場を沸かせてやる。仮に剣祭で本領が発揮できなかったとしたら、その魔弓に相応しい舞台を共に作ろうではないか」
「相応しい舞台とは?」
「戦場のことだ。本物の戦士たちが、本物の剣を交え、本物の血を流す、本物の戦場だ」
「そんなものはどこにもありませんぞ」
「だから、作るのだ。この国の平和は私たちが築いたものなのだから、壊す権利も私たちにある。そう思わんか?」
笑えない冗談ですな――と、アレッシオはたしなめたりしなかった。それどころか、彼も口許を歪めて笑ってみせた。
もちろん、二人とも本気で平和を乱そうと思っているわけではない。しかし、自分たちの唯一の技能を生かす機会が運悪く(あるいは運良く)訪れることを心のどこかで渇望していた。戦争ごっこに夢中になる子供たちのように。年に一度の剣祭を待ちわびる若き騎士たちのように。
「ところで……」
ランバルディは真顔に戻り、アレッシオに尋ねた。
「旅に出ることはジネヴラにちゃんと伝えのか?」
「はい。先程、伝えておきました」
「あいつは何と言っていた? 心配していたのではないか?」
「いえ、腹を抱えて笑っておりましたよ」
そう言うと、アレッシオ自身も高らかに笑った。
◆
その枯れ木のように痩せ細った男は、人々が〈最果ての国〉と呼ぶ異境の地からやってきた。
〈最果ての国〉からの旅人といえば、交易商人か異教の伝道者と相場が決まっている。そうでなければ、逃亡犯だ。しかし、枯れ木のような男はそれらのどれでもなかった。
彼は高名な魔弓師のところに行くと、自分の名を告げ、片言の言葉で頼んだのである。
私を弟子にしてくれ、と……。
自分より二十年は長く生きているであろう老人から頭を下げられたことに面食らいながらも、魔弓師は男を弟子にした。男の熱意に気圧されたのだ。
その男の名はアレッシオ・パリアンテ。〈最果ての国〉では知らぬ者のない伝説の魔弓師。
今、彼は新たな伝説を築こうとしている。
擾乱の日を夢見ながら。