厭わしき
様? と疑問を浮かべるアリスだが、もう一人のテスフィアは少々違った反応を見せていた。憧憬の眼差しに泡を食ったような表情となんともちぐはぐである。
アリスもこのホテルには選手以外にお偉いさんが泊っていると資料に記載してあることを知っていた。ただ基本的に顔を合わせる機会は無いだろうと周囲の友人の話を聞いていた為に予想だにしていなかったのだ。
失礼があってはいけない。咄嗟の判断にロキに紹介の仲介を頼む。
まず初めに自分から自己紹介するべきだろうと口を開きかけた時、テスフィアが動き出した。
「レティ様、彼女たちは……」
「初めましてクルトゥンカ様、私はテスフィア・フェーヴェルと申します」
「知ってるっすよ。フローゼさんの娘さんっすね」
感極まった顔でテスフィアはぶんぶんと縦に頭を振った。
それにアリスも続く。
「アリス・ティレイクです」
「二人ともよろしくっす。うちはレティ・クルトゥンカ。レティって気軽に呼んでくれていいっすよ」
「いえ、そこまで分を弁えないわけにはいきません」
テスフィアの貴族然とした姿にアリスは感嘆の目を向けた――タオルは興奮のあまり落としており、裸体なのだが。
「裸の付き合いっすから、気にしなくてもいいんっすけど」
適度に引き締まった身体にアリスはどこかの貴族のような印象を受けた。魔法師であれば少なからず身体には傷が残りそうなものである。現に外界に出ていないアリスの身体にも日頃の訓練によって痣のようなものがあった。治りかけではあるが未熟さを曝け出している気分になるのだ。
それはテスフィアにも言えた、唯一驚かされたのはロキだ。透き通るような白桃を思わせる肌は古い傷痕が所々にある。
どれほど過酷な世界で生きて来たのか想像に難くはない。服の上からではわからないのが幸いだろう。以前にも一緒に入浴したことはあったがその時は湯気のせいかそれほど目立つものはなかったはずだ。
しかし、ここに来てそれは甘い考えだと認めざるを得ない。そんなはずはありえなかったのだから。外界での任務がどれほど過酷か、年間の死傷者数だけでも想像に難くなかった。並々ならぬ生き様が深くロキの肩から背中に掛けて走っているのが治っているにも関わらず痛々しい。
テスフィアも瞠目したがそれについては一切触れない。
そんなロキがアリスに相槌するように近寄る。
「レティ様はアルファのシングル魔法師です」
「――――!」
そんな予感はしていたが予想以上の大物にアリスはわなわなと固まるしかできなかった。アルスを見ているせいで忘れていたがシングル魔法師の偉大さは市井にも知れ渡っているほどだ。
ただシングル魔法師の素性までは基本的に秘匿されているため、表舞台に顔を出すことはアルファでは珍しくアリスが知らなくても不思議ではなかった。とはいっても魔法師を志す者にとってはそれぐらいは把握しておく必要もあるのだろう。
レティが大々的に表舞台に出てくることがないとはいっても、それは民衆に対してであるのだから。
そういう意味ではルサールカのジャンは国内外問わず有名人だし、アルスとて名前だけなら軍内部では知っている者は少なくないだろう。秘匿と言っても規制を敷いているわけではないのだ。軍内部から漏れ出る可能性はある。では、何故アルファでは基本的に喧伝しないかというとアルスという人物を探らせないためである。
ただ、普通名前ぐらいは知っているものなのだが。
「二人の試合は見ていたっすよ。結構やるっすね」
「「あ、ありがとうございます」」
声を上げるが、ここは屋外であるため、テスフィアが身を震わせた。
「そんなところに立ってないで入るっすよ。風邪でも引いたら私のせいになるっすからね」
では、失礼します。と若干ぎこちなく足を浸からせる。
「――! うわっ! 気持ち悪」とすぐに足を引っ込めたテスフィア。
ロキもアリスも多少顔を顰めながらだが、湯に浸かる。
不思議な湯であり、見た目とは逆にピリピリとした感触だ。指圧とは違い肌の表面を跳ねるような違和感があり、どちらかという痛気持ちいいのかもしれないが、好んで入りたいほどではなかった。
「これが結構利くんすよぉ~。イベリスも中々やるっすね」
「レティ様はいつまでおられるのですか?」
ロキの質問は不穏に聞こえるがシングルともなれば任務と忙しい身だ。これが休暇という線が濃厚なため、いつまでも居られるとは限らない。
「一応大会が終わるまでは居るっすよ。警護も兼ねてるっすからね」
「……そうでしたか」
ロキは誰の? とは訊かずとも顔合わせの時にお歴々を見ている。
シセルニア・イル・アールゼイトを拝謁した際はロキにして息を呑むほどの絶対美があった。あの方を見ればどんな女性も畏縮してしまう。そんな吸い込まれそう漆黒の常闇を思わせる姿だ。だと言うのに悪意ある漆黒ではなく包み込むような光を内包した艶やかな黒。
それがアルスとは違うところなのだろう。彼女は最上級の柄、どんな切れ味の刃でも身に付けることができるだろう。ロキにはそれがどういうことなのか薄々気づいていた。最上級の柄が彼女ならば最上級の刃が誰なのか……。
沈痛な面持ちを転換するべく湯を顔に掛けた。
ピリピリとした反発は皮膚の薄い顔には少々痛いが、今はそれぐらいで丁度良かった。
(それにしても……)
益体も無いことだとは分かっているが、ロキは湯船の中を見渡す。
一番端からロキ、レティ、少しだけ距離が開き、テスフィアとアリスという順で半円を囲むように浸かっている。そう浸かっているのだ……そして浮いているのだ。
順にペタン、ボン、ペタン、ボンだろうか。残念ながら判定基準は言葉通り取りつく島があるかなので、二人目はある意味で同朋だ。あれを認めたら非常に居づらくなってしまう。
そんなロキの視線を隣のレティが気付かないはずがなかった。
「もしかしてアルくんも来てるっすか?」
「はい、一緒に入りましたから、露天には来てないと……いました」
ロキは条件反射のように探知魔法を発動させて確認する。
「それは覗きにならないんすか?」
「えっ!」湯に顔の半分まで沈めたロキは目を伏せて毅然とレティを見返す。
「知覚しているだけなので……ダメですか?」
「いいと思うっすよ。リンネさんなんて本当に覗き放題っすからね。弱点もあるっすが」
「ぐへへ」と親父臭い笑みを浮かべて反対側に向かって届くように声を放る。
「アルくんいるっすか」
「…………」
「天の邪鬼っすね」
ぼそりと呟き、勢い良く立ち上る。そのまま男湯との仕切りに向かって歩き出した。ギョッとした3人の視線を涼しい顔で受け流しながら。
タオルを肩にかけ威風堂々とした後ろ姿だ。まぁ、羞恥が希薄ということでもあるのだが。
「アルくんは好きなタイプってあるっすか?」
「唐突だな」
声からも動揺しているのが目に見えてわかる。そんな姿を想像するだけで可笑しくもあるのだが。しかし、レティ以外で口を開く者はいなかった。変な空気が――静寂とも耳をそばだてるともとれるような――漂い始める。
「前にもそんなことを訊かれたことがあったな」
ほお~とレティは唸ってみせた。
背後の女性陣は何かを呑み込むような似つかわしくない音がたてる。好意を抜きにしてもシングル魔法師が求める女性像というのは参考になると言った具合だろうか。確証はないが。
「使える女なら誰でもいい」
「なんすかそれ、愛がないっすねぇ」
「ないのかもな」
自嘲気味の声にレティは呆れたように顔を左右に振る。
彼女には言葉の意味を正しく受け取ることができていた。いや、外界で長いこと任務に就いていれば行き着く答えだ。だからロキも少なからず「やっぱり」という苦笑を浮かべる。テスフィアとアリスのように単純な了見ではない。
使えるということをロキは「死なない」と捉える。それがイコール強さなのかはわからないが。
少なくともコンプレックスが関係しているとは思えない。肩の荷が降りたような気さえする。
安堵の息を吐き、そのまま湯に深く浸かる。そして、なんだか癖になりそうだった。
「相変わらずっすね。うちは使えるんすよぉ」
その言葉に驚いて落ち着いてきた平常心がまた再燃する。思わずお湯を呑んでしまった。
冗談めかした口調でも破壊力は抜群だ。
苦笑すら浮かべられなくなったテスフィアとアリスも回答を待った。ただ芝居じみたように中空へと視線を彷徨わせている不自然さはある。
シングルのナンバーを冠する魔法師を使えないなど言えるはずがないのだから。
「…………」
「ちょっと、聞いてるっすか? うちはフリーなんすけ、どっ」
僅かに足がたわみ、軽快に仕切りまで跳躍して腕を組むようにレティはしがみ付く。分厚い仕切りの上部に胸を歪め、男湯側の様子を窺った。
「「――――!!」」
「――! レティ様」
「ありゃ、逃げられたっすね」
男湯を覗き込んだレティは誰もいないと見て、振り返りちぇっと指を弾く。
「レティ様、さすがに覗きで捕まったら洒落になりません」
本当に捕まるとは思っていないがテスフィアの指摘は納得のいく正当なものだ。
「それもそうっすね」
などと子供っぽい笑みを向けてくるが、ロキは誰もいないと知っていたのではないかと思う。彼女ならば造作もないだろうし。ただどこまでが冗談なのかの判断が付かなかった。
「それにしても欲がないっすね。わからなくもないっすが」
「それってどういう……」
アリスが単純に他意のない疑問と一緒にレティが湯船に戻るのを視線で追う。
「いずれわかることっすが、自分で考えることをお勧めするっすよ」
チラリとロキに同意を求めるようなレティの視線が向いたが、それは回答を求めたわけではないようだ。
ロキは感謝の念を込めて軽く目を伏せる。おそらくは自分のために訊いてくれたのではと思ったからなのだが、素直に感謝を告げるには内心の天候は目まぐるしく変化し続けていた。
できればこれ以上の心労は勘弁していただきたい。そんな思いが通じたのか。
「そう言えば、レティ様が学生の時はどうだったんですか?」
「どうと言うのは優勝っすか?」
反問に対して首肯が返ってくる。
レティはどうだったっけ? と思い出しながら口を開いた。
「確か、3年間で一度だけっすね。今にして思えばジャンがいなければ」
「ジャン様ですか?」
咄嗟に今日あったシングル魔法師の名前を告げたロキは、二人とも近い歳だなと姿を脳内で見比べる。
詳細に思い出してきたのだろう。一瞬素に戻った後、レティがため息を吐き背を壁に預けた。
「あの当時、あいつだけは別格だったっすね」
現シングルが別格と言わしめるジャンという男ならテスフィアもアリスも知っていた。それだけの有名人である。ルサールカ所属の第3位魔法師。シングル魔法師の中で最もメディアなどの露出が多い人物だ。任務での功績も大々的に喧伝している。
「でも、3年生の時に一度だけ勝ったっすよ。それが優勝した年っすね」
ブイサインを作り、誇らしげな顔をしていた。
「あまり自慢出来た話じゃないっすけどね、戦闘センスは完敗。唯一ジャンに勝っている能力を徹底的に鍛えたっすね~。もちろん秘密っすよ」
そこまで詮索すれば不敬だろう。温厚なレティだから良いようなものだが、それ以上踏み込める気にはなれない。
まず前提からしてシングルと裸の付き合いというのは有り得ない話だ。偶然の鉢合わせだったとしてもロキがいなければ土下座して退散する事態なのだ。それも結局はアルスのおかげという一言に尽きる。
「だから戦闘は別物っす。時の運とまでは言わないっすけど、格上だろうと戦い方で戦況は変わるっすからね」
だから頑張れ、と三人は受け取る。
ロキからしてみれば言わずもがな、今大会はアルスが優勝を目指すならば敗北はありえない。しかし、外界でもないので何をしてもという一線は引かれるのだが。
「まあ、ルサールカにさえ負けなければいいっすけどね」と私情が多分に込められた補足が加わった。今の話を聞いていればただの怨恨だ。
「でもジャン様も大会を見に来てますよ」
ロキの善意は余計な一言のような空気へと変える。ピリピリとした感覚は湯のせいではないだろう。
「奴がここにいるっすか、会わないならそれに越したことは無いっすけど、万が一顔を出しに来たら雪辱を果たす機会っすね」
不敵な笑みもまた本気なのか冗談なのか判断がつかない。この場にいる者は冗談だと言い聞かせるしかなかった。犬猿の仲ということだけはわかるため、遭遇しないことを願うのだった。
「いつまで入ってるんだ」
そう愚痴りながら、AWRを取り扱う店でアルスは物色していた。しかし、それも僅か5分程度のことで正直もう飽きてしまったのだ。あまり参考にならないというのが本音である。
魔法式を弄ってはいるがアルファの職人には劣る。寧ろ指導したいほどで、なんでこういった式に行き着いたのか疑問ですらあった。
だから時間が余ってしょうがないのだ、先に帰ろうかと思った直後、暖簾をくぐる女性の和気藹々とした談笑が聞こえてくる。人の気も知らないでとなじりたい気持ちが湧き上がるが、それも先頭の人物によって押し黙るしかない。
「遅くなったっすね」
「長すぎる!」
「それよりも、アルくん……子供じゃないんっすから」
先頭にいたレティが子供を窘める母のような呆れ顔を向ける。
見ればアルスの髪は濡れそぼっており、服の襟を濡らしているほどだった。
これは単にアルスがガサツなだけであり、軍とは関係がないと弁明しておく。
「自然に乾くだろ、というかお前ら人を待たせて髪を乾かしていたのか」
「女性として当然っすよ! それも込みで入浴っすからね」
反論できない。
女が長湯というのは知っていたが――経験からだが――、その当り前をアルスは理解できないし否定もできない。だから諸々の鬱憤を呑み込む。
喉の辺りでつっかえながら、そういうものとしてメモしておくのだった。そんなメモを漂白するようにアルスの視界を白く軟かなタオルが覆った。微かにシャンプーのような柔らかい匂いが香り立つ。
肌に触れる感触からタオルが濡れていることもわった。
「おい! 使ったタオルで拭くな」
「気にしないっすよ。それよりこんなに濡れてたら自然乾燥なんて時間かかるっすよ!」
ガシッと鷲掴みされ、その隙にワサワサと髪が揺れ、細められた眼をチラチラと行き来していた。
ロキはその役目を物欲しそうに眺め、テスフィアとアリスは顔を赤らめる。自分で使ったタオルを使って拭くという行為に羞恥した結果だ。
「そのままだと床に滴って迷惑っす」と言われアルスは早々に諦める。寧ろ無駄に圧迫してくる指先の力強さにため息を溢しながら降参した。
拭き終わると乱れに乱れまくった髪を丁寧にロキが持ってきた櫛で解かし始める。乾いたわけではないが水分はある程度拭き取られたようだ。
「お前がいるなら何故貸し切りにしない」
「わかってないっすね。お風呂はみんなで入るからいいんすよ」
これも趣がわからないアルスではやはり理解できなかった。何がいいんだと訊き返すのは野暮だろうかなどと考えてしまうのだから何もかもがダメだ。
「アルス様、終わりました」とロキの満足そうな表情を受け、釈然としないながらお礼を述べる。
「本当に身の周りは全然っすね。アルくんは」
いくつも思い当たるのだから厄介な話題だ。
テスフィアとアリスも初めてアルスの研究室へ行ったときの雑多さを思い出し、頷く。
「やっぱり世話を焼いてくれる女性が欲しいっすよねぇ」
「その辺は――」
「私の仕事のうちです」
ロキがアルスの言を遮り、譲れないと主張する。
レティは驚いた後、微笑を湛える。パートナーとしては範囲外。
レティのパートナーでさえ、任務以外ではあまり顔を合わせない。仲が良い悪いではなくそれが普通なのだ。彼女の場合は隊を預かる身なのでパートナーというよりも専属探知魔法師として隊に組み込まれている面が強い。
したり顔でほくそ笑むと。
「なるほど、ちゃっかりしてるっすね」
「…………」
「まぁ、身の周りは最悪メイドとか雇ってもいいしな。そうなると学院の研究室は使えなくなるか」
「それだったらアルくん、前の叙勲式の時、素直に貴族位を貰っておけばよかったっすよ」
「ないな。俺には向かないし、退役の話も一蹴されただろうからな」
苦笑いで応えたレティだが、貴族というのが国に繋がれる意味を持つのは彼女も知っているため、これ以上は余計なお世話だ。貴族とはいっても、元々は名残が未だに残っているだけでアルスに限って貴族位を授けるというのはつまりそういうことなのだ。
傀儡になるような玉ではないが、そうさせない柵を植え付けるのが爵位でもある。
一行は先頭にアルスとレティを、後ろをロキとテスフィアとアリスが緊張から黙って続いた。話を割り込ませる不躾なことができようはずもない。後ろを歩くテスフィアなんかは自然と引き寄せられるレティの手入れの行き届いた長く綺麗な髪が揺れるのを眺めるだけだった。
幸いロビーに生徒たちの姿はない。レティを見つければわらわらと集まってくるだろう。
普通に階段から上がる選手たちとは違いレティは1階から直通の裏口に回った。金属板による上昇下降するエレベーターのようなものだ。常駐型魔力発生装置によりコストはほぼゼロに等しい。
レティはいくつも並ぶその一つに乗り、一つしかないボタンを押すと、透明の壁が締まる。
これは無用に立ち入る者がいないように専用の浮動機と呼ばれるものだ。
見送る。と言い出したのはテスフィアとアリスだ。
手を振るレティに綺麗なお辞儀で応えた二人。
アルスはこの二人に限らずともそうするだろうと幻視する。軍内部での彼女の人気は位階を笠に着ない人柄の良さだ。誰でもというわけではないが、基本的にそういう性格なのだ。
アルスは軽く手を上げる。
(どうせ、また会うんだしな)