フェーヴェル家当主
炎天下の下、アルスは黙々と足を動かしていた。どうしてこんなことをせにゃいかんという不機嫌な視線を隣を同じように肩を落としながら歩く赤毛の少女へと向ける。
しかし、同じような陰鬱な心情でも彼女の場合は少々違った。
貴族であるフェーヴェル家への招待に対して前科があるためのもので、何より貴族としての振る舞いなど礼儀を最低限重んじる母が彼を前にした場合のことを考えてだ。
この不遜な男と母とを合わせることが少女……テスフィアをここまで憂鬱に変えるのだから、行きとは似て非なる翳りが降りている。
だというのに、この炎天下。
疑似的な天候であり、気温もまた調整されたものだ。やはり夏という季節なだけあり、快適というには少しばかり汗をかいてしまう。
誰がこんな温度に調整したのだと、テスフィアは手で陽を遮りながら疑似太陽を睨みつけた。
転移門まで行ってしまえばどうと言う事はないのだが、そこまでの距離がなんと遠いことか――比喩的な意味でだが――、実際は5分と歩かないのだが、そう感じてしまうのも仕方のないことだった。
転移門の設置場所はこれといった決まりはないが、やはり魔法的な意味でも殺風景な場所が良いとされている。それは魔力の残滓など精密な複写を行う為の注意事項のようなものだ。
だから、転移門のそばで魔法をばかすか放つような輩がいた場合、多少の誤差が生じる可能性がある。
そのため、門が無造作にボンと置かれているようなことはなく、その周囲には魔力を遮断するための仕切りが張られているのだ。
ついでに、現在はアルスとテスフィアの両名だけとなっている。さすがにアリスとロキを連れていくには大所帯だろう。何より招待を受けているのがアルスだけということもあってのことだ。
午前中に研究室を出たため、予定では2時間ほどで到着の予定になっている。実際に掛かる時間の内訳としては富裕層に着いてからの移動のほうが圧倒的に時間をくう。
アルスは頭から冷水を被りたい気持ちを抑えて、髪を振った。黒髪のせいか熱がどうにも籠っている気がする。
校内から転移し、中層――市民街――へと到着するとその熱気は倍増するほどだ――比喩的な意味ではなく、実際に人口密度は圧倒的に高い。
魔法でも使ってるのかというほど遠目に映る景色が暑さで歪んで見える。
メインストリートと呼ばれるところまでは距離があるにも関わらず、客引きの喧騒が熱気の正体なのだろう。
アルスとテスフィアの二人は目配せをすることなく、一致した行動は速かった。
こんなところさっさと去ろうというものだ。
止まらない汗というものは鍛えてどうこうなるものでない以上、そこで二人に差はない。無論代謝の差はあるだろうが。
二人が転移門の魔法陣に収まると、暑さの八つ当たりが口に出される。
「さすがにこれで待たされるなら、俺は帰るぞ」
「そっちのほうが余計疲れるんじゃない!?」
「…………」
それもそうだ、熱さにやられたなどと口が裂けても言えない恥ずかしさがあった。
語るに落ちるとはこのことだろう。
しかし、テスフィアですら追撃を加えるほどの体力は残っていない。
♢ ♢ ♢
幸いなのか、富裕層へと着くとどうしたものか立ち尽くす二人。
そこはターミナルのようになっており、魔道車が何台も停車している。
どれも見るからに高価なものであり、一台として同じものがないのだ。地位を主張するように見栄が見え隠れしている。
これも貴族のステータスと言ってしまえば仕方ないのだが、平民が見たら圧巻だろうな、などとアルスは呆けていた。それもまた示威行為の思惑通りなのかもしれない。とは言えシングルの称号を持つ魔法師である彼からしてみればどれも魅力がない鉄屑に見えてしまう。
テスフィアはすぐに車を探す為にキョロキョロと端から端まで視線を彷徨わせるがどうにも台数が多く陰に隠れていたらこちらからでは見つからないだろう。
また、歩くのかとアルスは肩を竦めたが、その必要はなかった。
「お嬢様こちらです」
「……!」
アルスの片手に嵌めてあるような手袋をした老人が手を掲げていた。用途は大きく異なる。老人のはハンドル操作のため、もしくは執事としてのものだろう。
「セルバ、ありがとう」
汗を拭いながら、それでも屈託ない感謝を告げるテスフィア。
それを受けたセルバが当然ですといった具合に慣れた動作で恭しく腰を折った。
その際に老人の眼がテスフィアからその横に立つ少年に向けられる。これはテスフィアに対しての合図だ。
しかし、残念ながら少女はそれに気付かずに笑みを保ったままだった。
アルスは盛大にため息を溢す。
「はじめまして、私はフェーヴェル家で執事をしております、セルバと申します」
主人に恥をかかせないためにセルバは自分から名乗り出た。それでも本来ならば両者を知るテスフィアの役目なのだが。
アルスはその綺麗な動作に見惚れながらも応える。
「はじめまして、クラスメイトのアルスです」
セルバの眉が一瞬だけ寄った。友人ではなくクラスメイトと答えたことに対しての訝しみ。しかし、その一瞬に気付けたものはいない。
それはアルスの言葉の意味を悟ったからだろう。学友でもないのに何故呼ばれたという。
が、その意味を察してもセルバがそれに答える立場ではないため、老人もまた知らぬふりを通す。
「こんなところではなんです。どうぞ中へ」
そういうと流麗な動作でドアを開ける。中から冷気が漏れ出し、真っ先にテスフィアが入って行った。
これが貴族としての教育を受けて来たものなのか、というのがアルスの感想だ。
セルバも苦笑いを浮かべているので今に始まったことでもないようだが。
アルスが執事――セルバ――を見た第一印象は端的に言ってしまえば同種の臭いだ。
それも裏のほうの。
さすがに手を血に染めているまでは言わないまでも、魔物を相手にしてきた者の眼光ではなかった。
もしかすると杞憂かもしれない、どちらかというと執事のほうが板に付いている気がする。
とは言ってもセルバという執事がアルスを見た時の反応から向こうも同じ感想を抱いたはずだ。
セルバがアルスへとドアに手を添えたまま促す。
「アルスさんはお荷物をお持ちでないのですか?」
「ええ、すぐに帰る予定ですので」
と脳内スケジュールを参照すれば後の予定がある以上無駄な時間の浪費はしたくない。
静かにドアが閉められ、滑らかに車が動き出す。そこでバックミラーからセルバのなんとも申し訳なさそうな顔が向けられた。
「アルスさん。大変申し訳ないのですが、すぐにとなりますと難しいかと思います」
「少し話をする程度だと聞き及んでいますが」
「…………」
目を逸らしたテスフィアは我関せずといったふうに身体ごと背を向けていた。
「フローゼ様はその気難しい半面、気分屋なところがございまして、おそらくご迷惑を掛けることになるかと」
「どうにかなりませんかね」
アルスはやはり来るべきではなかったのかもと今更になって後悔の念が湧く。
おい、話が違うぞ、という鋭い視線は隣の少女の後頭部に惜しげもなくぶつけられるのだが。
「わかりました。こちらで頑張ってみます。それでセルバさん、俺が呼ばれた理由を詳しく知りたいのですが」
「すみません。私も存じ上げておりません。さっきも申しました通りフローゼ様は何分興味だけで行動に移されるので真意までは……。お役に立てそうにありません」
「そうですか」
アルスは内心で嘘だなと思う。
まあ、執事として言えないというのも理解できるため追及はしない。どのみちすぐにわかることでもあるのだから。
代わりの話題としてセルバの経歴でも探ってみようかとも思ったが、やはり口には出さなかった。魔物ならまだしもそれ以外の話ともなれば明るいわけがないからだ。
話はこれで終わりとばかりにアルスは窓の方へと顔を向けてため息をつく。
(どうしてこうも厄介事が舞い込んでくる)
などの悪態が言葉にならない空気として冷やされた車内に溶け込むのだった。
もちろんガラスに映る反対側の赤毛の少女に向けられたものであるのは言うまでもない。
アルスは聞き慣れなかったフェーヴェル家という貴族がこれほどのものだと思ったのは敷地に入った時だった。外界で魔物を討伐するだけの日々に明け暮れていたからと言って知りませんというのは世事に疎過ぎると反省する。
遠目に見えるバベルの塔も迫力を備えるほどに荘厳な佇まいをもたらす距離だ。
何より整備された敷地内の庭、正門を潜ってからの距離を考えるだけで相当な広さだとわかる。
だからと言ってアルスに興味があるわけではないが。
そして半ばまで来た辺りで徐々にスピードが落とされ停車する。テスフィアも何故こんな中途半端な所で? という疑問符が浮かぶがどうやらここで間違いないようだ。
「着きました」とセルバがドアを開ける。確かに真正面には巨大な屋敷があるのだが、玄関前まで移動すればいいだけの話をわざわざ手前で止めた理由。
魔道車から出たアルスはなんとなく察したと同時に不快感にも似た感情が押し寄せてくる。
「あんまり暑くないわね」
などと外にでたテスフィアが溢す。
日が傾いたとか気温が下がったというわけではない。寧ろ燦々と頂点に達した疑似太陽は今が最高気温を記録しているはずだ。
では、何故涼しくすら感じるのか。
それは簡単だ。
アルスはセルバを見る。
「あちらの屋敷までどうぞ」
その顔には謝罪の意味が多分に見て取れた。
つまりは行かなきゃならんということだと、アルスは一人で前に進む。
頭の天辺に疑問符を浮かべているテスフィアはセルバに手で制されている状態だ。
後頭部を掻きながら歩く、真正面には噴水がありそこから周り込まないといけない道程。
距離にして30mぐらいだろうか。
すると歩き始めてすぐ、足に何かセンサーのようなものが引っ掛かる違和感を感じた。無論分かっていたことだ。
侵入者用のトラップなのか、はたまたアルスを試す為の罠なのか。
(ご苦労なことだ)
足元に薄水色の魔法陣が二つ浮かび上がる。
「……!!」
この驚きはテスフィアのものだ。招待した客に対してまさかの暴挙。
彼女本人にしてみれば客という認識は薄いが、母が呼んだ以上、アルスがどういう人間であれ攻撃を仕掛ける無礼はあってはならない。
ましてやフローゼは知らないがテスフィアはアルスがシングル魔法師であることを知っているのだから、この光景は冷や汗どころではなかった。
思わず一歩踏み出すテスフィアをセルバは両肩を背後から抑えて制止する。
アルスは何の魔法なのかわからなかったが、関係のないことだと片手を軽く持ち上げ、何かを摘まむように親指と人差し指を上に向け、指を鳴らす要領で擦る。
瞬間、何かが割れるような、ともすれば砕けるような音が響き、魔力の残滓が舞う。
足元に浮かんだ魔法陣の座標を空間ごとずらすという荒技だ。遅延型の魔法トラップであればこそだが。
今のアルスはAWRを持っていない為、特性である無系統か、もしくは手加減のできない魔法の選択肢がある。
後者を使えばこの辺りの庭を無残な惨状に変えてしまうため、必然取られる方法は前者になる。
(これも使いたくないんだけど)
真正面のテラスから窺い見る視線へと悪態を吐きたい気持ちを抑えつつ、そういうわけにもいかないのだろうなとも思う。
回避や叩き落とすなど身体を動かすには今日の気温は最悪だ。
汗をかいた身体で話す? 冗談だろという考えからの行動だ。まあ何をしたかわからないだろうという打算もあるわけで。
ある程度、魔法陣の色から系統の判別は付く。だからこそこの一帯は若干涼しいのである。
とそんなことを考えていると。
「一生徒にここまでするか?」
先に浮かび上がる三重の魔法陣が円環を作る。冷気が迸り、球体のように高速回転する円環が徐々に魔力を漏らして形作っていく。
2mをゆうに超える巨躯をした氷のゴーレムが姿を現した。
《アイス・ゴーレム》召喚魔法でも中位に属する魔法だ。メジャーな魔法だが、魔法師の力量によってその性能や大きさが変わるため、中位の魔法でも幅が広い代物だ。
そして、いかんせん2mをゆうに超えるこのゴーレムは術者の実力が高いことを如実に語っている。
(つまりは値踏みといったところか)
造形に一切の無駄がない。ということは完成された技術であるということ。
明らかにさらに上の召喚魔法を使う事が出来るという意味でもある。
アルスは舌打ちを一つ。
(そっちがその気なら)
ゴーレムが噴水に近寄り、手を突っ込む。水が凍りつき、中から何かを引き抜く。それは三又の槍、氷槍だった。
パキパキと噴水に張った氷を剥がし、己の高さほどもある武器が構えられる。
それも結局は意味のない前置きだ。
アルスは腕を片方ずつ回しながら近づく。さも、準備運動をするかのように。
事実準備運動なのだ。言ってしまえばチンピラが喧嘩前に指をポキポキ鳴らすようなもの。
ゴーレムが走りだし、遅いながらも大きな歩幅で接近する。
しかし、ゴーレムが動けたのはその一歩だけだった。突如、張り詰めた空気を引き裂くかのようにパンッと手が打ち鳴らされる。
アルスは身体の前で合掌するように勢い良く手を合わせた。そしてゴーレムの身体は目にも止まらぬ速さで雄大な身体を圧壊させた。
傍から見れば弾けたように見えただろう。
実際は左右から勢いよく挟んだだけだが、あまりの速さと脆さに姿を消したように見えたほどだ。
それも周囲に舞うキラキラとした氷の破片を見れば軍配がどっちに上がったのかは言うまでもない。
わかっていても、今何が起きたのかを理解できたものはこの場にはいない。それは真正面から見据える女性もそうだろう。
ただその驚愕の程度も、アルスの背後と正面ではやはり違う。
開いた口が塞がらないのが背後ならば、半ば予期してたように頬をピクっと動かしたのは正面。
「勘弁してほしいな、まったく」
肉体的疲労はこの程度では感じないアルスでも精神的――蛇足的――疲労を感じずにはいられない。
内心で会わずに帰るぞなどと、思ってもそれもまた無駄足という蛇足に違いないのだろう。きっと。
これ以上はないのか、テスフィアを制止していたセルバの手が降りたのは丁度ゴーレムが消失したときと同時だった。
だからといって、テスフィアがすぐに動けたかは別の話だ。
アルスは背後を振り返り、これ以上はないだろうなという視線をセルバに送る。一拍置いて目を伏せた執事は赤毛の少女と一緒に近寄ってきた。
セルバの足運びは見事と言うしかない。無駄がないというか、余裕のある達観さがある。無論その隣には比較があるからそう感じるのかもしれないが。
「何をしたのよ」
規格外の攻撃に事象を捉えらなかったテスフィアがタブーを平気で犯す。今となっては詮索し放題な現状だ。だからといってアルスがわざわざ教えてやる必要はない。
「どうやったんだろうな」
「お見事でしたアルスさん」
含みのない賞賛を送るセルバ。
さすがにこれだけならアルスも不快感を抱くが、その前に深々と頭を下げられていた。消沈せざるを得なかったのだ。
「さぁ、フローゼ様がお待ちです」と促すと玄関の両扉がゆっくりと開き、中からメイドだろう格好の女性たちが列を作る。
憤りもどこへやら、すっかりペースにはまっている気しかしないアルスはさらに重たくなった足で向かうのだった。
若干赤毛の少女に背中を押されている気さえする。いや、気のせいではないだろう。
自分で歩いているというよりは歩かされているという格好だ。
完全にテスフィアはアルスを全面に押し出している。さしずめ防壁のつもりだろう。順位1位という最強ではあるが、今は役に立ちそうもない盾がそこにはある。