帰省~フェーヴェル家Ⅲ~
テスフィアが勢いよく出て行った部屋でフローゼはその背中を冷ややかに見据えていた。
開けっ放しのドアを閉めたのは紅茶を持ったセルバだった。
「フローゼ様、お話になったのですね」
「えぇ、あそこまでとは思わなかったけど」
「それもそうでしょう」
手慣れた手つきでカップに紅茶を注ぎ、フローゼの前に静かに置く。
「でも、こればかりはしょうがないことよ」
貴族として家名を守るためには早婚して早く子供を授からねばならない。よほどの才ある者でも期を逸してしまえば貴族間で弾きものの憂き目にあう。
結婚しないということは家名を捨てることと同義なのだ。
それだけはフローゼでもすることが出来なかった。だから、せめてと娘のことを考えて最良の相手を選んだのだ。
この時点で、フローゼとテスフィアの最良がまさに反比例した結果を生んでいる。
「幼きフローゼ様を見ているようでした」
「どういう意味かしら?」
「少し可哀想になりまして」
「随分丸くなったものね」
セルバはふふっと笑みを浮かべただけで聞き流した。
「あの子のためにかなり妥協したのだけど」
「それがいけないのでしょうね」
セルバは散らかった婚約候補の資料を拾い上げる。この齟齬と言ってよいのかわかりかねる行き違いにセルバだけが気付いていた。
貴族として結婚はある意味で業と言ってよい。当主であるフローゼがそれなりの優良物件を選ぶのは仕方のないことだ。
しかし、フローゼはこれを母が子に対する優しさだと思っている。
テスフィアにとってそれが一番だと。
セルバだけが気付いてもそれを口にすることはできない。執事として関与してはいけない一線であるのは明白。
ふう~とため息を吐きながら、資料を机の上に積み重ねた。
そんな老人の憂慮など露ほども察しないフローゼは頭を振る――――いや、察しないのではなく、フローゼの中では決定事項なのだろう。
「あまり時間はないわ。急を迫るようで悪いけど、あの子には滞在中に決めてもらわないと」
「左様ですか」
セルバは異を唱えない……でも、せめてと。
「フローゼ様、お話になるのでしたらお嬢様がもう少し落ち着いてからにしたほうが良いかと思います」
「……そうね。整理する時間は必要だものね」
フローゼは婚約者候補の資料をチラリと視界の端で見ると頬杖をついて、目を伏せる。
貴族として生まれ育った彼女にとっての最良とは将来安定した順位を持ち、フェーヴェルの名を維持することだ。
♢ ♢ ♢
揺れる視界を拭う。
それでも溢れ出る悲嘆の粒。
テスフィアは速足で自室へと逃げ込んだ。それこそ脇目も振らずに。
勢いよく閉めた扉はドンと軋む音を響かせ、閑散とした部屋にやるせなさを満たす。
一目散にベッドに突っ伏したテスフィアの思考は狂った時計のように同じ円を巡った。
(結婚はわかっていたこと……)
なのに見捨てられたような苦しさが胸を締め付ける。
魔法師として立派な順位を示す。それを目標にしていたテスフィアは婚約、結婚をすることでその道が半ば閉ざされたように感じたのだ。
母が自分を魔法師としての才能を見限ったと思わせる現実。
婚約なんてしたくない、というのがテスフィアの結論だ。その代わりに魔法師になって成果を出す。
それを叶わなくさせる道を提示させられたのだ。それも強制力を持った母から。
ベッドに突っ伏しても勝手に考え出す頭は、悪い方へと……最悪の結論をいくつも導く。何十分もそうしていると諦めなければならないの? と自問自答が始まり、バッと顔を上げて左右に頭を振る。
「ダメ、ダメ、絶対にそれだけはしたくない」
テスフィアは眠気すら吹き飛ばした衝撃的な話を聞いた今、考えないようにするために訓練をすることにした。腫れた目で、震えそうな唇をきつく引き結びながら。
今は無心になりたいと、身体がバッグの中からはみ出した棒を引き抜く。
刀を構えるように両手でしっかりと握り、目を閉じ、呼吸を整える。吐き出す息は掠れて喉を震わせた。
魔力を実感し始め、指示を出す。
芯を押し付けるように全体へと這わせるのだ。
ゆっくりと緩慢にテスフィアの手から魔力が流れ出し、薄気味悪い濃いグリーンの棒を覆っていく。
額に汗が浮かび、そのまま維持する。
今は完全に魔力のことに意識を集中させていた。しかし、無意識にかなり強引に無理やり……力任せになってしまっている。
だから、扉を叩くノック音すら……扉の向こうで声がしたとしてもテスフィアの耳に届くことはない。
のちにテスフィアはアルスの助言で、魔力付与に集中し過ぎて、注意力が散漫になるなという言葉の重要性を噛み締めることになるのだった。
「フィア、入るわよ」
ガチャッという音すらテスフィアの耳に届くことはなかった。
「――――!!」
目の前で訓練に勤しむ娘を見て、呆れた顔のフローゼはすぐに目を細める。
それはテスフィアの手に握られている見慣れない棒のせい。
しばらくフローゼは黙って見守った。
目を瞑ったままのテスフィアが母に気付いたのは、集中力が途切れて魔力が飛散した時だった。
背後からの視線に訝しみ、振り返ると。
「お母様! いつから……」
額に張り付いた前髪をそのままに目を剥いたテスフィアが荒い呼吸の間に驚愕の声を漏らす。
「3分ほど前からかしら」
顎に指を付けてわざとらしく考える。「そんなことより」とフローゼの口が孤を描いた。
「フィア、それは?」
興味深そうに一点を指差す。
「――――!」
咄嗟に背に隠すが、すでに時遅い。
優麗に近づくフローゼはテスフィアの前まで近づくと、手の平を拡げる。
見せて、はたまた、渡しなさい、と言外に告げている。
拒めるはずもなく、テスフィアは諦めを行動で示す。母の手の中に訓練棒を納めた。
「お母様、これは……その」
そんな娘の声を意に介さないフローゼは、隅々までじっくり視線を這わせる。そして、魔力を通し、うずうずしたように微笑を浮かべた。
「フィア、これは誰からいただいたの? それとも借りたのかしら? 魔物の外殻でできているわね。相当……いえ、お金で手に入るような代物ではないわね」
テスフィアはずいっと近寄った母の妖艶な笑みから視線を外すことができない。たぶん……いや、絶対だと断言できた。
嘘を言っても母は軍のコネを総動員して突き止めるつもりだと。
そもそもテスフィア程度の嘘を見破れないフローゼではない。
「それは、頂き物で……」
「誰から?」
「同じクラスメイト……」
「お名前は?」
「ア、ア……アルス」
「フィア!?」
真紅の瞳がテスフィアを射抜き、先を急かす。
「アルス・レーギンです!!」
(……どこかで……聞いたことがあるような……)
一瞬フローゼが考えたことといえば、まず、男であること、そして聞き覚えのないレーギン。つまりは貴族ではないということだった。貴族だったとしても下位貴族、フローゼの耳にも入らないような貴族とも言えない家名。
やはり、婚約に関することだった。とは言え、フローゼの興味はそんじょそこらの貴族なんかよりもアルスという生徒へ向いていた。
「彼の成績は学年で何番目なのかしら」
これは問いというよりフローゼの独り言のようなもの。
しかし――。
「アルは中間より少し下ぐらいだと思います」
と、テスフィアは母の興味が削げるチャンスとばかりに情報を提供してしまう。そして略称で呼んでいた。
しまったと気付いたときには母の顔は含んだような笑みに変わっていた。
「あら、フィアは彼と仲がいいのね。どういう関係なのかしら」
とまた、例のごとくテスフィアの苦手とする微笑が向けられる。
視線を逸らしては見るが、逃れられない圧迫感がじわじわと背中に水滴を浮かび上がらせていた。
「……アルス君に、少し勉強を」
「でも、彼はあまり成績が良くないはずじゃないの?」
「え、あ……い、いえ……」
「これを彼から頂いたということは、あなたの成長に彼は関係あるわ……よね」
テスフィアは回らない頭を必死に動かすが、その度にボロが出る。もう母の追求から逃れる言葉はなかった。
無言の頷きを以て口を閉ざす。
「で、彼の順位は?」
核心を付いた、当然出てくるだろう疑問にテスフィアは用意がなく、言葉が喉の辺りでつっかえる。
そして、そこから先は理事長にも口止めされているため、母であろうとも口には出せない。
娘であるテスフィアが現1位の情報を漏らせばフェーヴェル家の名に傷が付くかもしれない。いや、もしかすると……。
アルスの性格から考えてそんなことはないと思うが、だからと言って漏洩していい許容を超えている。
「すみません」
テスフィアは嘘をつかずに、謝って口に出せないと主張した。
もちろん、フローゼも察する。フィアは知っているが、話せないと。
それがプライバシーに関することだからと考えるのは浅はかだろう。
フローゼが今までに見たこともない恍惚とした笑みを浮かべる。それは純粋な好奇心から来るもの、こうなると誰も止められない。下手をすれば総督が直々に折檻しなければならないほどだとテスフィアは内心で、アルスへと謝罪するのだ。
無礼があっても知らないのならば少しだけ言い訳はできるだろうかと。
(そもそも口止めされていたのだから、どうしようもないし、全力で謝れば許してくれるよね?)
いもしないアルスへと懇願してみる。後はこの母がどこまでするかだった。それについてはテスフィアは神頼みをするほかに手がない。
「いいのよフィア」
ポンっと肩に置かれたしなやかな手。
テスフィアはその手の意味がわからず、母を見返す。
続いて。
「そのアルス君を家にご招待しましょう」
「――――――!!」
目を見開いたテスフィアが反論する。
「彼は絶対に来ないと思います。自由奔放ですし、きっとお母様が気分を悪くされると」
「フィア、いいわね。私が学院に行ってもいいのよ」
「……!!」
アルスの評価を下げて、興味を削ぐ作戦は一蹴されてしまう。
テスフィアはそこまでするかと内心で苦渋を作る。それでも、思い起こした彼は無駄な時間を割くことを拒否する性格だ、断固として拒絶するだろう。
フローゼも脅し文句のような言をつい吐いてしまったが、そんなことをすれば理事長を務めるシスティにも迷惑がかかる上、外聞も悪い。
だから、フローゼは譲歩する。
「フィア、婚約は嫌?」
「……!! はい」
唐突の問いでも、この解はすでに決まっていた。
「わかりました。でも貴族として結婚は早めにしなければならないのはわかるわよね」
そう、わかっているからこそ内側から滲め出る苦渋に唇を軽く噛み、頷く。
「本当は滞在中に婚約の相手を決めてもらうつもりでしたが、彼を連れてくるならばもう少し様子を見ます」
無論、フローゼも自分の欲求を満たすためだけに提案したわけではない。少なからず打算はある。
アルスというクラスメイトがテスフィアを短期間でここまでの成長をさせたのだとすれば、並みの魔法師なわけがない。
一度も会わないことをフローゼは後悔するだろう。そんな予感もあってのことだった。
「わかりました。必ずアルを連れてきます」
即答。
テスフィアに残された微かな光明。婚約を一旦にしろ回避できるならば、悩みはなかった。何が何でもアルスを連れてくる決意表明。
フローゼはそんなテスフィアを見て、奥歯で苦虫を噛み潰したような苦味を味わっていた。
「楽しみにしているわ。フィア……それでいつ頃になりそうかしら」
「明日、戻ります。アルの予定を聞いてから連絡を入れます」
どの道、予定していた滞在期間も残り僅か、テスフィアはこれ以上長居したら、本当にボロを出しそうだと早めに発つことにした。
すでにテスフィアの脳内予定では丸一日ほど、ショッピングでもして対策を練ろうなんて安直な……今からダメそうな計画が練られる。
「一応、この棒は預かっておくわね」
「えっ! ですが、それだと訓練が……」
ニッコリとフローゼが笑む。
「早く連れてくればいいだけでしょ」
「…………」
今回は少しの間をおいてテスフィアは頬を引き攣らせた。
アルスが来ざるを得なくなるのは結果として良いことなのかと罪悪感を織り交ぜながら頷く。
♢ ♢ ♢
結局、テスフィア自身が考えた策としては悲壮感たっぷりに懇願すればなんとかなるだろうというものだった。というよりも彼に対して提示できるだけの物を持っていないのだから、最初から頼み込むしかない。
実際に面と向かってへつらうことができるかは考えもしなかった。
中層に降り立ったテスフィアの目はすでに買い物モードに切り替わっているのだから。
なので、アルスの研究室に着いたテスフィアの手荷物が少なく見えたとしても、中身は全部途中で買ってきた戦果なだけだ。
蛇足だが、満喫モードの服装も途中で気に入り、着替えたからという目も当てられない理由だったりする。
そんな満喫モードとは打って変わって、テスフィアの置かれている状況自体はのっぴきならないものだったのにも関わらず、事態は何とかなってしまうのだから、アルスとしてはしてやられたということなのだろう。
無論、やられたのはフローゼに、であってテスフィアの策だけでは足蹴にされたはずだ。