小さな弾み
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収穫が全くない。
そんな諦めも、虚しさも結局は自分がどのように解釈するかで良し悪しが決まるものだ。
前向きに捉えようとするアルスの試みは常に合理的な思考故の帰結とも言える。
アリスの実戦訓練も積めたし、長年魔法師を苦しめていた【イブサギ】の謎についても解明できた。解明とは言っても原理がわかったというだけだが。
それでも二国間を跨って広がる【イブサギ】は政治的にもアンタッチャブルな区域だったため、否が応にも何かしらの進展があるだろう。
アルファ国の軍人ではなくなったアルスにはどうでも良いことだ。
「それでは失礼します」
アルファ軍本部に戻ったアルス達はその足で、軍のトップに面会という名の報告を済ませたところだった。
相変わらずのつまらない部屋の様相。至る所に見られる防衛システム。
アルファ軍人ではなくなっても、何も変わることはなかった。変わらず報告に向かうのは総督の執務室で、軍部を誰に遠慮することなく歩いて、数少ない顔見知りがいれば軽く挨拶を交わす程度。
協会所属の魔法師になっても何一つとして変わることはなかった。
きっと総督から泣きの連絡が入ればアルスは動くし、動かされる気がする。
指令の間に協会を挟むだけなのだから、おそらく総督もそれほど気には留めていないのだろう。乾いたノックの後、名乗るまでもなくベリックはアルスを歓迎してくれた。
渋い顔なのは何一つ変わらない。皺の深さが顔に濃い陰影を刻んでおり、ふとこの総督も年老いたのだと気付かされた。
ともすれば、アリスの負傷を聞くや否や、本部勤めの常勤治癒魔法師を総動員して治療に当たらせているのだから、変わらないこともあるのだろう。
足長おじさんは、素性を隠すことを忘れ、全身全霊で孫娘同然のアリスに手を差し伸べる。
婚期を何周も逃した初老のベリックに残った、偽物の親心みたいなものなのだろう。
「さて、軍部も久しぶりとはいえ、何一つ変わらないな」
「そのようですね」
物珍しそうに視線を向けてくる新人魔法師や、職員など奇異の目はこれからも続くのだろう。
堂々と軍部を歩くロキの姿は、一流の魔法師としての貫禄がついてきたようだった。
そんな二人に声をかける奇特な人間はまずもっていない。それもそのはずだ、見方によってはアルファを捨てたと思われても仕方ないのだから。
今回の一件でさえ、情報提供をしても末端まではその功績は伝わりきらないのだ。だからアルスへの見方が極端に変化することはない。
しかし、何も変わらないということもないのだろう。
良し悪しに関わらず変化は必ず起こり得るのだから。本人が気づかないところで、変化し続けているはずだ。
(とはいえ勝手知った軍部でも、AWRがないのは落ち着かないな)
職業病とまでは言わないまでも、魔法師たる所以、象徴であるAWRがないとどこか身体のバランスが崩れた感覚に陥る。アルスにとってAWRは戦闘の補助というより、どちらかというと枷に近い側面もある。
AWRなしで戦えないわけもなく、しかしやはり戦術の幅は限定されてしまうくらいの物であった。
加減や微調整を無視して、存分に魔法を使って良いのであれば無系統を軸に膨大な魔力量に物を言わせるだろう。
アルスは自分の目を確かめるようにふと下瞼を触れてみる。
この目が原因か、はたまた独立したものと仮定して、異能が原因かは別としてアルスは己の魔力量の底を知らない。限界がわからなかった。
人間である以上、魔法師である以上、きっとそこには限界が存在することだけは確かだが。
今回もしかり、ここ最近は魔力消費による疲労感は皆無と言って良い。
その一方で自分という存在を見失いつつもあった。ルーツもわからなければ、人間と言い切れない存在。魔法師であれば、アルスは外側だけが辛うじて人間を成しているように見えるのだろう。
それも今更と言ってしまえば、今更なのだが。
そしてそれよりもどこまで強くなったのか、己を測る物差しがないことの喪失感。隠居だなんだと言いつつも、この力の試しどころがない。
戦いの高揚は、外で見出すしかないのだ。自分が人からどれだけ離れた場所にいるのか、それだけでも試したいものだ。
「アル」と隣からロキが小声を発した。
呼ばれた原因はすぐに察せられた。
ゆっくりと本部を歩くアルスは、周囲の人々を横目に確認すると、そこではピタリと時間を止めたように皆が静止していた。
誰一人動き出さず、瞬きすらも耐えている有様である。
原因は知らずと漏れ出たアルスの魔力であった。非魔法師であろうと、アルスの魔力を知覚し、息を潜めていた。
「不味いな」
即座に魔力を押し留めると、一様にその場に崩れ落ちる。
自分でもどれほどの魔力を放出していたのかわからない。
すぐさま、警報が軍本部に鳴り響くと、遠くの扉から慌ててアリスが飛び出してきた。
「やっぱりアルだ! 何、喧嘩?」
彼女は他の魔法師や職員とは違い、どこか緊迫感に包まれた面持ちで金槍を抱えていた。
廊下の端に倒れる人達を横目にしながら小走りで向かってくるアリス。
その奥からは武装した魔法師達が、元凶へと向けてゾロゾロと姿を現し出す。
「大変なことになりましたね。というか魔力感知システムの誤作動では誤魔化せないでしょうね」
「だな。というかこんな感度良かったか?」
「さぁ?」
惚けたように相槌を打つロキは、あえて言葉にしなかった含みを込めていた。
軍部であろうと魔力の放出自体は珍しいことではない。
本部内であっても、魔法師の中に血の気の多い連中は必ずいるからだ。そんな小火のためにいちいち本部全体が、右往左往するわけにはいかない。
だからアルスが言うように、感知システムが過剰に反応してしまったと言う主張には多少なりとも一理あるのだ。
とはいえ、アルスが今し方魔力を放出させたものは恐らくは軍が警戒レベルを最大にしてもおかしくはない魔力量であったことも事実。
ロキも慣れたこととは言え、身の毛がよだつ感覚はある。
アルスが最近までアルファ軍に籍を置いていなければ、即捕縛・拘束してもなんら不思議ではないのだ。
もっとも、シングル魔法師並みの魔力をちゃんと感知できていれば、それなりの人員が投入させて然るべきである。
「見るからに、荒事専門って感じの魔法師ですね。レティ様が不在でよかったかもしれませんね?」
「呑気なことを言ってる暇があるか?」
「ないと思いますよ。拘束されれば、長くて一日は時間を無駄にしそうですね。見える範囲だけでも、これだけの人が真っ青な状態なわけですし」
「だよな」
実際にアルファ軍魔法師と相対してしまえば、もう手遅れだろう。そこからは適当な罪状を告げられ、抵抗しなければ云々まで宣言されれば法の下、勾留されかねない。
無論、それを言わせない方法はあるが、不幸なことにアルファ軍というのはアルスに対して好意的に見てくれる人間が少ないのだ。己の権限を越えてまで、助けようとする酔狂な人間となると尚の事。
アルスは現実逃避するように、視線を中空に漂わせるとそこで思考を中断した。
解決方法はシンプルが一番である。
「アリス、掴まれ」
ひょいっと訳もわからないアリスの身体を抱き上げると、アルスは一目散に軍の玄関口から飛び出す。
「こういう時は逃げるが一番だ」
「ですね。ともあれ、後始末は……」
最後の一言を濁して、ロキも気持ち嬉しそうに声を弾ませる。
「あぁ、ベリックに任せるか」
「それしかありませんね」
「あの〜私だけ置いてけぼりなんだけどな〜」
アルスに抱えられたアリスは、特別恥ずかしさを感じることもなく疑問符をぶつけてくる。
「つまり、アルス様が珍しく魔力をお漏らしなさったのです」
以前の口調に戻したロキは、お漏らしを上品な言葉遣いで報告した。自分は無関係とばかりに。
それだけでなんとなく察した——想像したらしいアリスは、苦笑を浮かべて納得したのであった。