恋の価値その4
リハビリ検査が始まり、イルミナの目の前でいくつかのメニューが順次行われていった。
魔力の放出を段階的にクリアすると、次にフェリネラが修得している魔法を初位級・中位級・上位級とゆっくりと組み立てていった。
戦いの中で瞬間的に構築する魔法を、じっくりと熟読するかのように時間をかけて組み上げていくのだ。
それは一歩を踏み出すために、どこに力を入れ、重心を移動させ、関節を曲げて、筋肉を収縮させるか、一つ一つを意識的に動かしているかのようだった。
所長が職員の報告を受けて、その都度「クリア」とマイク越しに伝える作業が続いた。
確かにこれならば問題ないのかもしれない、心配しすぎていたのかもしれない。イルミナはそう思い直し始めていた。
一つクリアする度に、イルミナは緊張した面持ちで安堵の息を吐く。
見ているだけでお腹が空いてくるようだった。
「ふむ、ここまでは問題ないな……ん?」
肩肘を張っていた所長もイルミナ同様、一段落と見て脱力する。だが、その直後、彼の目はフェリネラではなく、モニターの一つに留まった。
「この数値少しおかしいな」
「そうでしょうか、波長的に見ても許容内です。魔力ですから、バイタルサインに影響を受け易いのでは?」
所長はすぐには結論を出さずに、モニターをじっと見つめる。
「気になる。魔力パターンの下限がやけに不安定だ」
魔力を消費したとしても、このモニターでは総量に対する観測を対象としていない。魔力の状態値を映しているのだ。
この機器からは最悪、魔力暴走などの異常を察知できる。
難色を示していると、区画内のフェリネラから「所長、次の段階に進みましょう」と背中を押す声が流れた。
「一先ず待機していてください。それと身体の方に異変はありませんか?」
待機の指示を出した所長に、なおもフェリネラは言い募る。
「確かに胸の奥に違和感はありますね。どう言えばいいのかしら? ……そうですね、血の流れとは別に何か冷たい液体が身体を巡る感覚といいましょうか?」
さして疲れた様子もなく、フェリネラは淡々と感じるがままに口に出した。
「ですが、ここから先に進まないことには何一つわかりませんよ、所長。と言いますか、少しやってみたいことが……」
「危険です、と言いたいところですが、確かに進展は見られない状態ですね。して、やってみたいこととは?」
「魔法に関しては問題なく使えそうですが、それは今まで通りの方法です。ただ、感覚的にではありますけど、もう一つ魔法を扱う上で魔力の通り道があるのです」
「ふむ、それは魔力経路のことですね……認識できるわけですか。お嬢様の魔力経路はいくつも分岐されており、魔力経路は今、二種類に分けられております」
「えぇ、そのもう一つを少し活用してみます。安全は確認できていますけど、危険は確認できていませんよね」
実に軽快な口調で声を飛ばしたフェリネラ。
まさにそこが問題であるのは、所長も気づいている。危険の度合いが不明な点については、まだその段階に触れてすらいない。少しでもデータを残せれば、如何様にも分析して仮説を立てることができるのだ。
フェリネラが魔法師を目指す上で、その危険について把握しないわけにはいかない。
「では」とフェリネラは区画の中で、そっと目を閉じた。
「是非も無いですね。しかし、少しでも危険とわかればこちらで即時中止させていただきます」
フェリネラは二つ返事で口角を少し持ち上げた。
何をするつもりなのかイルミナにはさっぱりだ。ただ、今、目の前で親友が危険なことに挑戦することだけはわかった。
止めようかとも思ったが、フェリネラはそれを試すためにこの場にイルミナを同伴したのだろう。
ギュッと口を閉ざして、イルミナは姿勢正しく直立するフェリネラをじっと眺めた。
「——!!」
変化はすぐに見られた。イルミナが瞠目する横で所長は「始まりました」と険しい目つきで呟く。
所長の手にはいつでも検査を停止できる装置がしっかりと握られている。ケーブルで繋がれたそれは機器の一つと接続されており、ボタン一つで強制中止できるらしい。
フェリネラの身体を取り巻くように風が舞う。
それは誰の目にもわかるほど黒付いた風であった。彼女の髪を巻き上げながら徐々にそれは竜巻の様相を呈し始めた。
膨大な魔力の乱流。
イルミナにはそれがどこか嫌なものに見える。魔力は自己を投影する映し鏡とも言われている。
しかし、今、フェリネラから溢れる魔力のどこにも彼女を感じることができなかったのだ。
黒々とした風の渦は、フェリネラの姿を隠し始めていた。微かな隙間から、フェリネラの苦悶の口が見え隠れする。
「バイタルが異常値を示しました」
「魔核の活性化を確認——」
モニターしていた職員が次々と報告の声を飛ばす。一瞬にして騒然となった施設内に、所長は額に汗を浮かべながら停止ボタンを握り締める。
「所長、上昇率が危険域を突破しました」
「わかってる!! まだだ、監視を続けろ」
緊張感に包まれながら、所長はギリギリのラインを見極めるようにフェリネラから目を離さない。
区画内の魔力量は異常な速度で増加し続けた。
黒く満たされ出した区画内は、嵐を閉じ込めたように荒々しく対魔法強化ガラスを激しく揺する。
「取り返しがつかなくなります!」と職員の一人が声を荒げて進言するも、所長は無視して荒ぶる区画へと取り憑かれたように見つめる。
事前に個人的な相談を受けていたのだ。彼女の決意を知り、このタイミングで実行に移すと——。
時間を掛けて、ゆっくりと治し、いや付き合い方を模索していくべきなのだ。医者ならば絶対に首を縦には振らない。しかし、研究者ならば、幾分首の調子は良さげであった。
ヴィザイスト卿からはフェリネラの好きなようにとまで言い付かっている。もちろん、許可を取るために連絡は入れたが、返ってきた答えは同じだった。
これは必要な限界試験である。彼女が魔法師を再度目指す上で、その無謀な挑戦に手を貸してしまった。
だからこんなことは一度きりにしなければならない。一度きりで終わらすのだ。
所長とイルミナの目の前で、魔力置換システムを組み込んだガラス壁に亀裂が入る。
内部がどれほどの魔力を内包しているのか推測することすらできない。魔力置換システムの壁を見て「これって罅入るんだ」程度の感想しか出てこない。
(時間がありませんよ、お嬢様——)
魔物の核をその身に宿したことで起こる過剰反応は、魔力に限らず自身の魔力情報体に多大な負荷を強いる。
これが表現として正しいのかは定かではなかった。魔力情報体を外的干渉で改変することなどできないのだから。それをやろうと試みた者は過去にもいた。
魔力というものの情報の源は、今の科学でも完全に把握できているとは言い難い。場合によっては都合の良い解釈として、学者間の共通認識上置き換えているだけとも言えなくもないのだ。
だからこそ、誰もがそのブラックボックスに手を加えようとしない。人であると目に見える形で再現した個性であり独自性である。故に人間が干渉できる領域に在らず、最大の禁忌として解明の足を止めた。
だが、尽きない欲望の権化と称される研究者は、えてして禁忌に踏み入りがちだ。
多くの研究者が禁忌に足を踏み入れることを躊躇わせるには、奇しくも歴史が大いに役立った。
人間の根源に足を踏み入れた研究者は定期的に現れ、その惨憺たる結果だけを残すのだ。畏怖される事件として、戒めのように研究者は境界線を再認識する。
クロノス襲来直後の研究ラッシュなどその最たるものだろう。
悲惨な研究の残滓として、一つだけ判明したことがある。
魔力情報体に手を加えることはその者の死に直結するということ。軽度でも自我を喪失し、それは常識の埒外の症状を引き起こす。回復の見込みはなく、そして自我を喪失後、次第に生命維持を自ら放棄するのだ。
未だかつて、魔力情報体を故意に改変され今まで通りの生活を送れているものはいない。
結果から魔力情報体は人の根源と言われるまでになった。
だからこそ、今目の前で起こっている事態に、所長は好奇心をゆうに凌駕する恐怖を抱いていた。