恋の価値その2
フェリネラは、ゆっくりとイルミナを見る。そしてフェリネラ・ソカレントを説明する。
「私が私を好きでいられないの。いくつも習い事や、人前で作った私もいるけど、今以上に私は私を好きにはなれないのよ。アルスさんのことは本気よ、貴方に嘘ついても仕方ないしね。でもこの話は私自身の話」
まるで自分に対して言っているかのように、フェリネラは小さな声で「十分、青春してるじゃないの」などと口ずさむ。
貴族ではなく一人の女性としての無垢な微笑を浮かべると。
「私は私を育んでいるの。今この時を生きることに、生命を懸けることになんの躊躇いもないわよ、イルミナ」
「そ、そんなのアルス君が好きな自分に酔ってるだけじゃないの。勘違いなんていうつもりはないけど、そんなもの一生モノである保証なんてないでしょ」
イルミナはそんな不確定な一時の恋慕に対して訝し気であった。初恋だなんだといっても、これから長い人生の中で、恋は一度ではないはずだ。誰に聞いても同じように答えてくれる自信がイルミナにはあった。
それは当然、フェリネラも同意して貰えるはずだとも。
しかし、フェリネラの微笑は翳ることはなかった。
「先のことなんて誰にもわからないでしょ。だから今なのよ。今を全力になれない女が、後で全力を出せるはずがないわ。未来を期待して今を犠牲にするの?」
「そ、そんなことは言っていないわ。ただの恋なら、私だって応援する。でも、それを成就させるために貴方が生命まで懸ける必要がないと言ってるだけ」
「ただの恋よ、イルミナ。そして恋には生命を懸けるだけの価値があるのよ」
「詭弁よ。それに生命を懸けなくてもアルス君を振り向かせる方法はあるでしょ。魔法師に拘っているのは、貴方が他の方法を模索しようともしないから。アルス君だって別に魔法師に拘りはないでしょ」
ハッと心臓が奇妙に跳ねて、フェリネラは一瞬口籠った。
イルミナの言葉は一理あるだけでなく、酷いくらいに正論だった。噛み締めるようにフェリネラは、不覚にも心の中でクスリと笑ってしまった。
彼女の言うように、恋をする自分に酔っていたのかもしれない。酔って、というと人聞きが悪いが、浮かれていたのだろう。毎日が浮かれた調子でフワフワしていたのだろう。だが、それもまた自分自身であった。正常な判断ができない自分を客観視して、それでも受け入れられると思えた。新たな自分に出会えた気分だ。
赤裸々な会話をしているはずなのに、随分と堅苦しい方向に話が進んでしまっている気もする。
誰かに好意を寄せることに理由などないはずだと知っているのに、言語化しようするのはもしかすると滑稽なことなのかもしれない。
そんなことを考えながら、それでもフェリネラは今必要な言葉を選ぶのだろう。絵本のようなお花畑の頭ならば、いっそ清々しかったはずだ。そうでないからこそ、イルミナは口を噤んでくれないのだ。
アルスの女性の好みに魔法師が含まれているとは、フェリネラも考えてはいなかった。
であるならば……いいや、そこはすでにアルスとは別に個人的な問題なのかもしれない。これも面白い……原点を気づかせてくれる。根源に戻ってこれる発見だ。
フェリネラの表情をイルミナはどう読んだのか。この話題を切り上げるように、彼女は重い口を開き、クールダウンがてら声のトーンを抑えて語り出す。これ以上は何も言わないが、これだけは言わずにはいられない、そんなニュアンスが込められていた。
「フェリ、あなたが夢物語みたいな展開を小さい頃から思い描いて、自分に重ねようとしてきたことは知ってるわ。それはそれで尊敬しているもの。誰よりも夢を追いかけて努力してきたから。でも、考えてみて欲しいのよ、まだこの先いくつもの未来があるじゃない。一つである必要はないでしょ。貴族といっても、あなたのところは魔法師を強制されているわけじゃないでしょ」
フェリネラは頷いてしまう——イルミナが正しいことは分かっているから。
方法として、手段としていくつも用意されておきながら、自らそれを断ち切ってしまう無謀な選択をしようとしている。
けれども、たった一つだけ、フェリネラの中でのみ存在する正義が、芯が彼女に否を突きつけるのだ。
「縛っていないわ、イルミナ。必要だと私が感じているの。狭い知見でと思うかもしれないけど、私の人生で今が最盛期なのよ。毎日更新されているわ」
嘘偽りない言葉を満面の笑みで、親友に投げかける。
恋する自分に酔ってる? 結構。
十代で人生を懸ける? それも結構。
頭で嘘はつけても心で嘘はつけないのだから、後悔のしようもない。
アルスと結ばれること、それは目標ではあるが完全ではない。成就すれば良い。しかし、そのための努力を怠った自分が彼の隣で添い遂げる未来などないのだ。
「魔法に魅了され、比類なき魔力を持った彼に惹かれて、私はこの道を歩む覚悟を決めたのよ。私が望むフェリネラ・ソカレントは魔法師なの……」
「わからないわ」
「そう言ってくれる貴方は掛け替えのない親友よ、イルミナ」
イルミナは降参とばかりに掌でおでこを押さえた。そして「そうね」と諸々を含んだ肯定の声が宙を軽やかに飛んだ。
沈黙が訪れるかと思いきや、この二人のこと、次なる会話の切り口はごく自然に始まった。
「ねぇ、イルミナ。まだ時間あるかしら」
「え、えぇまあ、きてまだ十分も経ってないんだし、帰れと言われない限りはもう少し居てもいいけど?」
「じゃあ、検査に付き合ってくれないかしら」
「……検査って、お医者様が良いと言うなら」
「あら、大丈夫よ。検査といってもイルミナが見学してるだけで良いから、ね」
イルミナは眉間に皺を作って、困惑顔を浮かべる。
目の前では準備のために軽やかにベッドから降りるフェリネラの姿があった。
確かに患者衣があるせいで無意識に重病人と決めつけていたのかもしれない。だから今も安静にさせたい衝動に駆られているのだが、当の本人は至って健康そうに凝り固まった関節をポキポキ鳴らしていた。
ナースコールの横にもう一つボタンがあり、その通話口に向かってフェリネラは「これからリハビリに向かいます」と一言だけ告げる。
それから何食わぬ顔で患者衣を脱ぎ、可愛いらしい下着姿になると備え付けのクローゼットへと向かう。
「フェリ、羞恥心が治っていないわよ」
「大丈夫よ。女同士で見られて困る身体じゃないつもりだから。それに見慣れてるでしょ?」
引き締まったプロポーションを飾り立てるような下着。下心さえも吹き飛んでしまいそうな肢体は、同性であっても嫉妬心を覚えそうだった。
イルミナはフェリネラが鉱床任務で負ったであろう傷跡が消えていることに安堵していた。
それからドアへと足を運び。
「なら、まず鍵を閉めることね」
電子的な音がドアの内部から聞こえて、ロックランプが点灯する。
その間、フェリネラは自室にいるかのように、声を返した。
「そういうこともあるわ。女子寮生活に慣れてしまったのかしら。それにいつもはここでは着替えないからかもね」
何食わぬ顔で強化繊維の黒タイツを穿き、見慣れない服をクローゼットから引っ張り出してベッドの上に乗せた。
無論、フェリネラの趣味ではないだろう。彼女はリハビリと言っていたのだから、それ専用の衣装だと推測された。
軍服とまでは言わないが、魔法師が着用する服は基本的には戦闘服に傾倒しがちだ。
イルミナは「暇そうね」とポツリと溢した。そんな言葉を漏らしてしまうのは、少なからずフェリネラの容態が安定しているからだった。
「えぇ、本当に。本を読むのにも飽きてしまったのよね。早く学院に戻りたい」
一抹の寂しさが込められた一言。
同時に、イルミナはそれに対する返事として『仕方がないじゃない』を用意していたが、彼女が口にしたのは別の言葉だった。
「そうね。早く帰りましょう」
希望だけが現実を置き去りにイルミナの口を吐いて出た。単純な話ではないことは百も承知だが、確かにフェリネラの顔色は良く、すぐにでも学院に戻ることだってできそうな気がしてきたのだ。
この特別病棟がそうであるように、フェリネラの置かれている状況は芳しくない。
しかし、フェリネラはその言葉に笑みを濃くして頷いてくれた。
イルミナが説得を諦め、フェリネラの背中を押すその言葉に、彼女達がそれ以上の会話をここですることはなかった。
(本当に病院は気が滅入ってしまうわね。早く日常に戻りましょう、フェリ)