境界の行方不明者
スカーフの男の不穏な動きに対して、先頭にいた大男が太い腕を横に突き出した。
「やめておけ、ここに辿り着けただけでも運が良い。お嬢ちゃんも悪いことは言わねぇ、帰り道くらいは教えてやる。今はそれで黙って引き返してくれないか」
対等な口調で大男は、彼なりの礼を示したのだろう。
あくまでも言葉の上では……。彼は常に動ける状態を維持しているし、明らかにスカーフの男を御せる実力者。
相手の提案を聞きいれたとしても、一時も目を離せない、そんな相手であった。
話を進める前にと、ロキは視線を僅かにひ弱そうな商人を自称する男へと移す。
「ニッケンと言いましたね。国籍は?」
「…………」
ニヒルな笑みを浮かべてニッケンは沈黙した。
大男がロキと相対しているせいで、警戒心を一手に引き受けている。そのおかげもあってスカーフの男が幾分自由の利く立場になっていた。
「言わんこっちゃない。あんたがしゃしゃり出たせいだ。言っとくが俺らは野盗じゃないからな。物騒な依頼はなしだぜ」
語尾を強調する一瞬の間に、スカーフの男はロキに対して殺気を放った。まるで彼だけは理性の欠いた獣のような闘気を示したのだ。
大男の方も、一度張り詰めた糸が緩めば戦闘にならざるを得ないことを理解していたのだろう。
緊迫感は煮えたぎった鍋の蓋と化して、いつ溢れ返ってもおかしくはなかった。
ニッケルという男は、隣の粗野な若者がいる分、諦めたように肩を落とした。
しかし、運悪くその瞬間——事態は後戻りできないスタートを切らされることになる。
「——!?」
ロキのすぐ隣、それも地面の上で魔力光が弾けたように輝いた。それは至近距離で閃光弾が爆ぜたのに等しい光量であった。
集中が途切れ、まさかという焦りがロキの顔に浮かぶ。その玉はイブサギへの侵入を試みる際に、アルスがそれぞれに渡してくれた使い捨てAWRだ。アリスがはぐれしまった際の保険として互いの位置を示す光を発する代物だ。
それを裏付けるように収束した光は真っ直ぐロキへと伸びてきた。
刹那——ロキは自分が相手から警戒を解いてしまったことを悟った。
大男とスカーフの男はこの絶好の隙を逃さず、反射的に動き出していた。
(しまっ!)
目を見開きながらもロキは魔力を魔法へと変換し、出遅れを巻き返すために【身体強制強化】を巡らせる。視界の中で加速する思考は完全に手遅れであることを物語っていた。
直後、男らは踏み出した一歩を、地面を踏み抜く勢いで静止させていた。
二人の目はロキを見ていなかった。その背後へと瞬きもしない双眸が向けられている。
「ちっ! 不味った」
二人とも蛇に睨まれた蛙もさながらピクリとも微動だにせず、大男は率先して腰のベルトにかけられた鞘の留め具を外して武器を落とした。
スカーフの男もそれを見て、湾曲した刀を握る手を開いて落とす。
どちらも完全に降伏を示した。
ギイィとかキイィとか、立て付けの悪い音という音が混ざり合ったように蝶番が悲鳴を上げる。
それと同時に膨大な魔力が流れ出す。
アリスが放ったであろう使い捨てAWRはロキを示すと同時にアルスをも示す光のラインを伸ばしていた。
「賢いな。穏便に済めば良かったが、こちらも事情が変わった」
廃屋から出てきたアルスは、相手の戦意を完全に挫く圧倒的魔力を提示する。戦力を比較できるように、そしてそれを見た相手は自分らでは手に負えないと判断したに過ぎない。
ロキはすでに探知を済ませており、アリスが近距離にいないことを首を振って知らせた。
「こっちにはやり合う意思はねぇ。もちろん、最初っから危害を加えるつもりもない。少し拘束させてもらう程度だった。信じてもらえるといいんだが」
「…………」
大男が手を上げ、スカーフの男は完全に沈黙した。
「身分を明かさず、身の潔白を証明できるか試してみるか?」
無慈悲なアルスの一言に大男は後頭部の髪をワサワサ掻き乱した。
「こっちにも事情があるんだ、初見で情報を明かす愚はおかさねぇ。場所を考えれば尚更だ」
「あぁ、場所を考えれば何が起こってもおかしくない。ライセンスも完璧じゃない」
薄い氷上をアルスだけは平然と歩いていた。
この言葉の意味は軍属の魔法師が発するにはあまりにも乱暴な思考。
商人の男など冷や汗をかいて、今にも倒れてしまいそうなほど青白くなっていた。本人でさえなんで身体が震えているのか理解できないままに。
「待て!! 身分も明かそう、ここで戦闘になるのは御免だ。それにあんたらの方が今は不味い事態に陥っているはず……」
「アリスさん、もう一人女性がいたはず、彼女に何をした!」
言葉を遮りキィッと鋭い眼光を向けるロキに、寧ろ相手は胸を撫で下ろしているようだった。
大男は「俺はバシュロン、こいつは……」と淡々と自己紹介をした。
「ランドルフだ」
スカーフの男は汗を垂らしながら、喉に引っかかるような調子で自分の名を告げた。
「後はあんたらが決めてくれ。こっちは敵対の意思はない。寧ろ手助けの用意はある。なにしろ、ここへは何度も来てるんでな」
武器を捨てた上で、敵意の確認などいらない。奥手があるにせよ、彼ではアルスに届かない。それを嫌と言うほど理解してしまったのだから。
「決めるなら早くした方がいい。時間を掛けるとお仲間が消えちまうぞ」
一秒毎に焦燥感が積み重なったかのようなバシュロンの声。
外見こそは野盗と見紛うほどだが、ここで争うことに利はないように思えた。ロキに言った「帰り道を教える」も嘘ではないだろう。油断を誘うにしても随分と手緩いやり口だ。
スカーフの男——ランドルフは少々違うようだが、バシュロンの言葉に従う姿勢は見える。
彼らが何故この場にいるのか、それは後回しにして、今はアリスの存在だ。
「アリス」
声を張ってみるが、返答はなかった。廃屋はその場で一回転すれば把握し切れてしまうほど狭い。
だから声が届かないどころか、彼女を目視できないはずはなかった。
また、誰よりも離れることに恐怖を抱いていたアリスが、自ら距離を取るというのも考えづらい。子供のように蝶を追いかけて、というのもあり得ないだろう。今のアリスは一人になることを第一に恐れているのだから。
外界で迂闊な行動を取る理由がない。
ならば……。
「おい、その噴水にあるのはAWRか」
「「——!!」」
明らかに動揺した二人を見てアルスは確信した。AWRというよりも魔力的に親和性の高い何か。
本来の目的である【メテオメタル】を示唆したつもりだ。
あそこから流れ出た水を遡ってきたのだから、その元に何かしらの魔法的な効力を考慮するのは自然なことだ。
「あ、あぁ、それがわかっても、解決はできないぞ。方法を知っているのは俺らだけだ」
「メテオメタルか」
「——!! そこまで気づいていたのか」
「なっ! メテオメタルだと!?」
商人のニッケンが驚愕で声を上げた。商魂とでも言うのかその一瞬だけは呪縛を抜けて器用に顔だけをバシュロンにむけていた。
「おめぇは黙ってろ!」
一喝が入る萎縮した商人は「うっ」と気圧されてキュッと口を結んだ。
アルスはそこまで聞いて、彼の警告を信じた。メテオメタルはそれぞれに特殊な性質が備わっている。
現代の魔法では再現できない唯一の性質。ユニークな性質でもあるのだろう。
それこそアルスでさえ手に負えない可能性は十分憂慮に値する。
「分かった。どうやら仲間が一人行方不明のようだ。まずは仲間を見つけるのに協力してもらう。その間、AWRには触れるな」
「うむ、感謝する。さらにいうなら俺らは一歩も動かない方が良いだろう」
アルスが頷くとバシュロンとランドルフは肩の力を抜いて腕を下ろした。
バシュロンは強面だがその瞳はどこか気の良い親父を思わせる。
「先に言うとだな、お前さんの言う通りメテオメタルが原因だ。アンタらの仲間はそこの水を飲んだんじゃないか?」
アリスは小川の水を口に含んでいるし、ここに着いた時もすでに口に入れていた。
「あぁ、おそらく」
「それが原因だ。飲んだ者と飲まなかった者とで互いを認識できなくなる。声なんかも聞けはしないが、魔力や魔法は認識できる。お仲間がここで何かやらかせば巻き添いってこった」
「視覚的に見失うのか」
アルスの分析を即座にバシュロンは否定した。太い首を左右に捻ってから続けた。
「触れたことすら互いに認識できないんだ。言いたいことはわかる、ぶつかればって言うんだろ。実際には確かにぶつかるんだが、本人は理解できないんだ。側から見ると尻餅をついたとしても本人はすぐに立ち上がって何事もなかったように記憶していない」
互いに認識できなくとも物理的に交われば、不可解な現象に当人は遭遇することになるだろう。
ぶつかれば、というのはアルスが考えていたことと本質的には同じことだったのであえて否定はしなかった。
次なる疑問をぶつける前にバシュロンは「俺らもある程度は試した、先に解決策を言うと、俺らも水を飲むことだ。そうするとお互いに見えるようになる」と奇妙奇天烈なことを言い出す。
しかし、不可思議なことでもことメテオメタルが絡んでいるとなれば、アルスも一先ずは頷くしかなかった。
「ニッケン、まずはあんたが飲め」
「えっ!? 何故私が——」
「どの道あんたにも飲ませるつもりだったんだ。俺らも効力が抜けてるはずだからすぐに飲むが、其方さんは許してくれんだろ」
バシュロンの言う通り、視覚だけでなく魔法的にも察知できなくなればアリスを人質に取られることも考えられる。
「では、私も飲みましょう」
「頼めるか」
「はい!」
ロキの申し出はこの場における最善でありそれしかないからだ。
アリスが使い捨てAWRを使用したことから、毒物とかではなさそうである。
「時間は?」
アルスの問いは、アリスが飲んでからすぐに消えたわけではないためだ。ここで時間差など、飲む量によってアリスを認識できるまでにロキとニッケンに誤差が生じるのは不味い。
いかにも非魔法師であろうと、最初にアリスを会わせるわけにはいかなかった。
「数分だ、個人差がある。最長でも十分程度」
「ロキ、合図はAWRを使え」
「了解しました」
そういうとロキとニッケンはそれぞれ手で水を掬って口に含んだ。