遥かに古い忘れ去られた記憶
魔物の存在がなければ、いや現実を直視したとしてもこの空間は強制的にアルス達を安堵へと誘った。三日三晩遭難した果てに、命からがら辿り着いた楽園にさえ見えてくる。
湧き水のおかげか、下草は鮮やかな緑を放ち、呼吸するだけで喉の渇きが癒えるかのようだった。
「これがゴールということでしょうか?」
ロキも緊張の糸を緩ませながら色彩が一変した小さな空間内を見回す。外界特有の緊張感が解れ、心無し表情が和らいだようだった。
「そうだろうな。あれだけ道に迷って、小川を辿ったらすんなりたどり着いたんだ。違くてもここには何かあるだろう。アリス、一応それは呑むなよ」
「えっ!? ダメかな? もう飲んじゃったんだけど」
湧き出した水を両手で掬っていたアリスは唇を離して首を器用に回した。
生命の水は指の隙間から滴り減っていく。その両手はすぐにでもまた口元に向かっていくことだろう。
「その水がもしかしたらイブサギに迷い込んだ魔法師の精神に干渉しているかもしれん。ここに来てはっきりしたが、その水にはかなりの魔力が含まれていそうだ。ちょっと飲んだ程度でどうにかなるものでもないだろうが」
「本当だ、でも、言われるまで気づかなかったよ」
「確証はないが、純粋な魔力そうだから害はないはずだが、一応な」
大気中に含まれる微細な魔力など、そもそもからして人間や魔物の魔力とは違う無色透明とでもいうべきものだ。
無論、それが明確に察知できるほど濃いこともありえないのだが。
「でも、さっきもこれで身体拭いたり、軽く口を濯いだりしたんだけど……」
「ま、それぐらいは大丈夫だろ。この場所が特別ってだけだ。通常ならありえないほど濃いからな」
迂闊であったことは間違いないが、そうとは気づけないほどの微量な魔力ならば初めからないのと変わらない。
「魔法的な要素については、慎重になるべきでしたね。もう手遅れですが」
「え、手遅れなの!?」
「症状が出たら手遅れですね」
軽いノリで平然と死刑宣告の如く言ってのけたロキは、暗い面持ちで小さく首を振る。
所謂、魔法師ジョークであるが、当事者のアリスは愕然と顔色を青くしていた。
「ハァ〜、ロキ、そういうのはせめて帰り際にしてくれ」
「はい、アル」
「ん? どういうこと?」
二人の間で解決した話題について説明を求めたアリスだったが、ロキのちろりと出した舌先を見て「あぁ〜」と思い出したように声を荒げた。
「そういえば、ロキちゃんだってさっき水飲んだじゃん!?」
「まあまあ、軽い冗談ですよ」
弛緩した空気が、会話の多さに繋がる。この得体のしれない場所は、精神的にも余裕を与えているようだ。
しかし、アルスだけはその会話に混ざり切ることができなかった。
改めて見回すと不自然という他に言葉が見つからない。
調査するにせよ、真っ先に廃屋へと足を向けたアルスは、朽ちかけたドアの、これまた錆のようなざらざらした手触りのノブへと手を掛けた。
スムーズに捻ると、今にもドアごと外れてしまいそうな鳴き声が上がる。
室内は一昔前の旧時代的な作りで、木材を組んだだけのようで無骨な壁が剥き出しになっている。
埃っぽく、明かりは天井に下げられた大きめのランタンのみであった。
奥まったところには古ぼけた棚が壁を埋め尽くしており、家具類は全てきっちり壁面に配されている。
妙に整頓されている上——。
「埃はさほど積もっていない」
手作りのテーブルだろうその上には薄らと白い埃が溜まっているだけで、隙間の多いこの廃屋であることを考えれば、あまりにも綺麗過ぎた。無論、そうでなくとも魔物の襲撃すらないようだ。
外ではロキとアリスが一応周囲を見張ってくれている。
膜を一枚張ったようなくぐもった声を聞き届けて、アルスは底板を踏み抜かないように足を滑らせた。
歩く度に出る軋みがやけに響く。
屋内には備蓄用の缶詰や干し肉があり、金属のたらいの蓋を開けると中は腐った水が残っていた。
そのまま右手側の戸棚へと移ると、いくつもの薬品が無造作に並べられている。
薬に混じって酒も何本か見つかった。年代など詳しいことはわからないが、呑める歳になったとしてもこれらを口に入れたいとは思えなかった。
「薬関係は割と揃ってるな。治癒魔法師というより医者、そっちに明るくないとここまでは揃えられないはず……」
アルファでも比較的目に付きやすい錠剤もあった。鎮痛剤なり、魔力安定剤など新人が常用しがちな薬である。
抗生剤など最低限と思える薬が全て揃っていた。無論、中には何に使うのか怪しい薬も散見されていて、まるで薬と名の付くものを一通り揃えたと言わんばかりだ。
罹った病気に効く薬があるのか、運次第といった具合である。
(使用期限は過ぎているが、それほど古いわけでもないか)
次にドアから最も遠い壁面の棚へと足を向ける。床が嫌な音を奏でるが、それでも抜けるような心配はいらないのだろう。
奥の棚にはいくつもの本が収まっている。棚をフル活用できていないが、それでも分厚い本が並べられていた。
これはかなり埃が積もっていて、アルスは口と鼻を押さえて一冊抜き出した。
こんな辺鄙で不便な場所でいったいぜんたい何を読んでいるのだろうか。アルスとしても本を見て、好奇心から中身を確認しないわけにはいかなかった。
外界で何を読むのか、前哨基地ですらないこの場所で——。
隔絶された穏やかな空間は、どこか隠居生活の空気感をともなっていた。
だからなのか、肩の力を抜いた書物を想像していたのだが。
「ん? 【混じり者の見分け方】」
埃を払ってどうにか読めたタイトルにアルスは予想していたものとの隔たりを感じる。いかな本であろうともう少し読み手に親切であって、興味を唆らせて欲しいものだと感じざるを得ない。
これでは報告書の題名……。
昆虫のオスメスの見分け方みたいな調子で訥々と書かれているのだろうか。
気は進まないが、アルスは本を一つ捲ってみる。
纏った埃が津波のように舞った。一ページ目の紙はボロボロで薄っぺらくなって所々穴が空いていた。
紙とは言っても、それは密に繊維が編まれたもので、アルスの知るどれとも違う肌触りのものだった。相当古いもののようで、それを考えれば奇跡的に状態は良い方である。
「——!!」
目を見開いたアルスは今一度表紙に書かれてるタイトルを見直した。
よくよく見ればそれは手書きであった。そして中に書き込まれている内容も全て手書き。
いつの時代だと、埃を払いながら得体の知れない書物に頬が引き攣るのであった。