忘れ去られた情緒
小川の上流を目指してアルス達が指針を変えたのは一時間ほど前になるだろうか。
それでもただひたすらに根拠の薄い小川を上って行くというのも存外暇なものであった。
「ねぇ、アル? これって大丈夫だよね? 上流に向かってるはずだと思うんだけど、さっきから似たような景色が続いてる気がするんだけど」
アリスの指摘はアルスとロキがあえて口に出さないようにしていた言葉だった。
かれこれ一時間、流石に変化というか、川幅が広くなるなど多少の変化はあっていいようなものだ。にも拘らず、如何せん自信がなくなりそうなほど、先ほどから変わり映えしない景色。
そろそろ歩き続けるのにも飽き出し、小川のせせらぎが耳障りになってくる頃合いだった。
一瞬ここが外界であることさえ忘れてしまうほどだ。アルス達は小川を上り始めて一度も魔物と戦闘に至っていない。
厳密には遠目にはそれらしい存在を確認することができたが、魔物の方がアルス達を感知できない状態であった。
何かしらのアクションをこちらが起こせば、気づかれるのだろうが、そうでもしない限り魔物はアルス達をいないものとして素通りしていく。故にある意味では幸運で、ある意味では確かに暇であった。
魔物の展示会に来ているような奇妙な感覚の中、アルス達は小川の上流を目指す。
これまでに目撃した魔物を分析する意味など然程ないのだろうが、ここらの魔物は【イブサギ】内で隔絶されていると見て間違いないようだった。いや、隔離と言えるのかもしれない。
アルス達を感知できないということは、魔物もまたイブサギの籠の中にいるということ。魔物に目的など主体的な行動は取れるのだろうか。無論、高レートになりそれなりに人間を喰らっていれば、取り入れた情報が様々な——良くも悪くも人間的な——思考判断が下される。
しかし、アルスの経験則でいえば、そういった魔物らしからぬ行動はやはり戦いの中で垣間見ることができるものだった。
だから、こうして目的もなく彷徨う魔物が何を目指しているのか定かではない。
他の動物のように食料を探しているのか、その緩慢な足取りが外界を生息地としていることを証明しているかのようだった。
無防備な魔物の背中が随分と離れ、完全に姿が消えたところでアルスは再び、この永遠に続く水の流れを目で追った。
ふと、蛇行する小川をぼんやりと眺めながらアルスは思考の海に潜り続けていると、ここぞとばかりにアリスの声が上がった。
「そういえば、なんだけど」
一度区切ったところを見るに、アリスの気弱さというか主張の弱さみたいなものが感じられる。いずれにせよ会話ができる程度には痛みも引いてきているのだろう。
長いこと思考に没頭していたため、ここらで頭を切り替える良い機会となった。
「藪から棒だな。歩き続けるのにも飽きたからな。ま、アリスは外界に出る機会もまだそうないから、聞きたいことがあれば答えるぞ」
「やった。んとね、精神系の汚染とか干渉って普通あることなの?」
弾んだ心の声を漏らしたアリスは、先程の話題を真面目な調子で振ってくる。
何より意外に小難しい話——専門的な話題でもあった。魔法師ならば知るべき知識の一つなのだろうが、案外こういった知識は実戦経験で学ぶことが多い。
とはいえ、雛の好奇心を出鼻で挫くのは不本意だ。
「そうだな、外界ではそう多くないというのが正しい。干渉というのも度合いの問題だからな。他者によって誘引・誘導させられるとか、本人の意に反してと定義するならば限りなく少ない」
「ふむふむ、でもあるにはあるんだね」
「今回のように特定の魔物や人物が術者ではないのはかなり珍しいがな」
先頭を歩くロキも時折、気休め程度の探知魔法で周囲を警戒しながら会話に加わってくる。
先達の魔法師として助言が如何に後進を育てるかと、身を以て知っているのだろう。広く浅くでも、僅かでも知っているのと知らないのとでは大きな違いがある。
アリスの怪我も十分回避できた可能性もあるのだ。
「おそらく高学年での講義にも出てくるかと思いますけど、精神操作の魔法は主に人間の分野なんです。もちろん、完全に乗っ取るという意味合いで言えば魔物にも可能でしょう」
「人間の分野って、闇系統とか?」
チラリとアルスは視線をアリスに向け、いつぞやの出来事を想起した。
闇系統で言えば先ごろアルスとの間で一悶着あった新入生のフィオネがいた。彼女はえらくアリスに懐いているようなので、この話題にデリケートな側面があることを察したのだ。
「闇系統の得意分野ですね。とは言っても闇系統にもピンキリですが。他者を操作可能な状態にまで干渉することは正直言ってかなり難しいと言わざるを得ません。ですのでまずは方法や理論を知るより、対処法を知るべきです」
教師役を担うロキの口上はどこか得意げであったので、アルスは口を閉じて聞くことにした。
アルスの配慮に気づいたのか、彼女はそのまま教師役を引き受けてくれた。
「対処法かぁ。すごい学問の分野って感じがするよねぇ。なんなら帰ってからでも聞くよ?」
「いえいえ遠慮なさらず」
何やら獣じみた嗅覚で機敏に感じ取ったアリスは、引き気味に問題を先送りにしようとするも満面のロキによって断念せざるを得なくなった。引き返そうにもがっしりと手首を掴まれているように、アリスは肩を落とす。
表面的にはそんな演出を入れたアリスであったが、彼女も自分を慕ってくれているフィオネが闇系統であるため知識を入れておきたいのが本音だ。
「まあまあ、そう難しい話じゃありませんよ。それに今回の迷子にも無関係ではありませんから」
「そういうなら……」
「闇系統ですが、特に精神に干渉してくるタイプにはもちろん対処法が存在します。精神干渉と言いますが、これはかなり広い意味を含みます。実際には〝認識〟や〝五感〟そういった部分に干渉してくるものも含みます。これらはやはり魔力的なところが侵食されている、侵されているのです。省略しますが、対象者の魔力情報体の一部分を強く干渉している状態ですね」
ゴクリとアリスが生唾を飲み込むのが聞こえた。
簡素な説明にアルスとしてはついつい横槍を入れたくなった。
「魔力の情報は、魔法学の観点ではいくつかの層に分類されてるんだ。基礎ワードなんかの重要な情報は一番深い層とかな。諸説あるが、大概の魔法は1層から3層が使われていると言われている。エネルギー体としての比率の問題からだな。実際のところは基礎ワードがある6層はパーセントでいえば1%にも満たない。魔法の運用はこれらの層で成り立っているということだ」
「ん〜、言ってることはわかるんだけど、何を言ってるかわからないかな」
「俺にはお前が何を言ってるかわからんがな」
そこに「コホン」と空咳をロキが挟み、話を戻す。
「精神干渉魔法は主に、この層で言う3層から4層で影響を受けることを言うんです。もちろん現象として五感の消失や精神誘導といったものは魔力情報体からの干渉が主な経路ですから。当然、対処としては魔力の正常化がベストです」
「あ〜なら、魔力操作も?」
「おっしゃる通りです。ですが、魔力操作はあくまでも防御面での対抗手段で、一度精神干渉を受けてしまうと破るのは至難です。そこで複数名なら以前アルがやったように、他者に魔力を流すという方法があります。あとは外的刺激や魔力の塊を受けるなんて強引な方法もあります。いずれにせよ、さっさと解除した方がいいことに変わりありません」
「そっか、ならなんだけど、今の状況は?」
この話の本質というか、本題というか、ロキに視線でバトンを渡されたアルスが引き継ぐことになる。
「ここまでの精神干渉は主に5層と6層への干渉を許した事になるな。こうなると生半可な方法じゃ脱せない。ほとんど無意識下で影響を受けたことを考えると、悪意ある他者からの干渉じゃないからな」
「つまり?」
「かなり強力だが、無理やり解除する必要もなく、同時に確実な方法が存在しない」
闇系統の精神干渉で最も強力だったのは、自死を強制するものだった。本人でさえ死ぬことへの恐怖はおろか、一切の疑念がない。むしろ正しいことのように笑顔で自死していく。
その闇系統の魔法を【血の宴】と言った。めでたく禁忌魔法の仲間入りだ。
苦い経験を思い出しながら、アルスは言葉を続けた。
「普通なら気絶させたりすれば十分対処できるんだが、ここまでのレベルとなると正攻法が一番脱しやすいだろうな」
「正攻法って?」
アリスの素直過ぎる疑問にアルスは口角を持ち上げて、顎で先を指し示した。
「あっ!?」
視線の先——川の源流は、まるで色調が一段明るくなったかのようにくっきりと鮮やかな緑で溢れていた。
下草はきっちり足首までの高さで揃っており、円を描くように開けた空間。
開墾されたような後はなく、またそうであったとしても随分長い年月この状態であったのであろう。
思わず足を止めた三人であったが、それは主に違和感に対しての本能的な警戒であったのかもしれない。
「どうしますか、アル」
声を上げて指示を仰いだロキだが、ここに来て行動方針は一択である。
もっとも彼女が婉曲的に言っているのは、古屋の存在であろう。
そしてもう一つ。
アルス達が追っていた小川の源流を辿ると、そこには無骨な岩を削った噴水らしきものがあった。前衛的とも言えるその石造からは大量の湧き水が吐き出されていた。
その下部に当たる溜池からは、手堀なのか支流となる細い水路が放射状に広がっている。
ざっと見ただけで四つほど、流れていることになる。
水路は二段ほど掘り下げられ、アルスはその上に置かれた橋代わりの平な石を踏まずに跨いだ。
その奥には蔦で覆われた木造の古屋がある。納屋とは違い、そこで居住できる最低限の広さはあるようだった。
埃が張り付いて曇ったガラス窓は、室内を透かしはしなかった。
神秘的で、情緒的な風景である。
隣で安堵するアリスを他所にアルスは、首裏が痺れるような違和感に襲われていた。




