道標の水
「つまり、イブサギの影響ということですね。あ、アリスさん背中の方はだいぶ拭けましたよ」
「ふぃ〜、ありがとう」
上着を脱いだアリスの背中をロキが拭く。片腕が使えないアリスに代わっている間も意識はしっかりとこの不可解な事象に対して言及していた。
「ちょっと寒いけど、あのままでいるよりは良いよね。終わったからもう良いよアルぅ」
背を向けていたアルスは振り返るが、まだ完全に着用を済ませたわけではなかった。
一応は肌は隠せているので誰も気にはしないが。というか、これで責められても困りものだろう。
「アリスは怪我している腕をあまり使うな。魔法は片手でできる範囲にしておけ」
「あ、うん。了解であります」
調子が狂う声音が返ってくる。
外界というだけで萎縮し身動きができなくなるより、いっそ開き直ってくれた方が助かる。
「…………」
アルスの怪訝な視線を受けて、アリスはバツが悪そうに無理矢理笑みを作る。
「大丈夫、自己責任だもん。忠告を無視した私の責任」
「あぁ、その話か」
目的地まで馬鹿正直に進んでも到着しないことがわかった今、一旦足を止めるのも良いだろう。
奇妙な風船の魔物以降、八体の魔物を狩っているので小休憩を挟むにも良い機会だ。
「確かなことは言えないが、アリスは精神汚染されていたんじゃないかと思う」
「なんか病んだ感じの表現だね」
「キリングハイも似たような症状ですが、汚染と言うように原因が自分以外ということです。あの時のアリスさんはキリングハイと似た症状がありましたけどね」
うう〜、と自責も込めて唸ったアリス。
「珍しいことじゃないが、お前の場合は違うと断言できる」
「なんか慰められてる感じするけど。あの【地の嫌悪者】が原因とかない?」
「ないし、事実だ」
「アリスさんはそういうタイプではありませんしね」
根拠としては弱いニュアンスだが、平時から感情の起伏が緩やかなアリスを思えばまずないと言える。
そもそも怒るや悲しむなどそういった感情変化の原因がない。
「すんごい分析されている」
「いいから聞け。多分だがイブサギが原因だろう。ここが迷うと呼ばれているのはやはり俺達同様、方向感覚が狂わされたからだろう」
「——それだけでは過去大勢の魔法師が帰ってこれない理由にはならないというわけですね」
そう直進していればいいし、ここは比較的アルファに近い場所に位置している。鍛えられた魔法師が同じ道を永遠回り続けることはないだろう。
だがそれでもイブサギに侵入したら、ほとんどが帰らないと言われている。
「そこで俺らが方向感覚がおかしいと判明したのはいつだった?」
「あっ、【地の嫌悪者】を倒した後だ! じゃあ、やっぱり」
「正解だが、原因じゃない。長時間ここに滞在すると感覚がおかしくなるんだろうな。魔物との接触で、さらに加速していくのかもしれない。アリスに俺らの声が届かなくなったのはそうした理由もあるとすれば納得はいく」
確証は得られないが、そう言われてみれば筋が通っていることにロキは頷く。
ならば……。
「末期症状として、この小川すらここまで接近しないことには気づけなかったということでしょうか」
「かもな。どの道、俺らはここから出られないだろ」
「えっ!? 離れ離れになることはなかったけど、三人とも迷子だね」
アリスのテンションが少しおかしいが、先の理由からイブサギの精神への干渉による影響かもしれない。
心配気な目でアリスを見るロキだったが、アリスは至って平常運転であった。
彼女にとっては離れ離れになる心細さに比べれば、迷子とはいえ二人がいるだけで随分と気が楽なのだ。
「アリスのせいで、というよりはまんまとイブサギにしてやられたわけだ。天然の罠か、それとも……」
「メテオメタルですね」
「そっか、それが原因なら帰れるかもしれないってことだね」
頷いてアルスは肯定する。
メテオメタル絡みであるならば、その原因を取り除くことで揃って迷子現象は解消するだろう。あくまでも、かもしれないだが。
「一先ず、アリスは精神的に脆い部分があったわけだ。魔法以外のことなんで勝手に鍛えてくれ、俺にはわからん分野だ」
「確かに、アリスさんは催眠術とか普通に掛かっちゃいそうですよね」
「あれ? 今度は貶し始めた?」
「体質とかそういった話です」
「アリスの気が立っている、これは……」
「なるほどだから魔物にも猪突猛進なのですね。そういう一面も持っていたと」
「え、えっ。なんの話。私全然キレてないよぉ。それに魔物怖いし……というか二人が怖い」
引き気味の表情でそんな顔をするものだから、アルスもロキも悪いノリを切り上げることにした。
ずっと気を張り詰めてもいいことはないのだろう。こんなやりとりを外界でしているとふと、レティの部隊を思い出す。
あの部隊は良い意味で家族の一面があった。
背中を預けるに足る信用構築が完璧に出来上がっている。喜怒哀楽を分かち合う者ら。
時にはそんな空気があってもいいのだろう。
アリスが自分を責めないこともわかったことだし。
「アリスの怪我の具合も気になるが、治癒術式も正常に起動しているから緊急性はないだろう」
一応腕に穴が空いているのだが、比較的浅い場所だったため十分処置できるはずだ。
とはいえこれ以上彼女の傷が広がるような苦境は避けたいところだ。
「ここからは俺も戦闘に加わる。アリスを守りながら戦うが、先陣はロキに任せよう」
「はい。迅速に、ですね」
頷き返す。アリスの実地訓練はここらで切り上げ、後は目的達成のための戦術に切り替わる。
可及的速やかに障害の排除。
無論、アリスが何もしないわけではない。彼女も戦闘にはしっかり加わってもらう。中距離魔法があるので支援はできるだろう。
問題は……。
「どこに向かうかですね」
「だね〜」
アリスの提案で再度それぞれが進行方向だと思う方向を指差す……。
「あれ? 今回は一致したね」
今回は何故か全員が一致していた。先ほどはてんでバラバラで、自分が正しいと信じて疑わなかった異常事態だったのに。
何が違うのか。
アリスの疑問を真剣に熟考するのはアルスとロキだ。
「どういうことでしょう」と訊ねてくるロキに、アルスは口角が持ち上がる。
「ナイスだ、アリス。さっきとの違いは方向を認識できる不動の目印がないことだ」
「アル、それは考えられないかと。周辺の木々など視界内の景色で自分の立ち位置を把握できるはずです。全ての樹木が全く同じであるはずもないですし」
「そこだ。もちろん俺らなら大抵記憶できているものだからな。枝の形状や配置なんか、木々が自ら動かなければ方角を見失うはずはない。自分の位置を認識する情報源としては十分だが、こんな密林の中では不十分でもある。この霧だから太陽の位置も怪しいしな、何も当てにならん」
では何故、三人とも別々の方向を指し示したのか。そして誰が正しかったのか。
答えは誰一人として正しい方角を指していなかったはずだ。
当てずっぽうなら確率的に正しい道筋を示せただろうが、そうではない。
「俺らも少なからずアリス同様、精神的誘引に掛かっていたんだろう。だから今回は一致した。だが今は決定的にさっきと違う。確実に自分の立ち位置を把握できるからだ」
「——!! 小川ですね」
「そっか、景色にプラスの要素、情報ってことだね」
「それもあるが、こいつはそれだけじゃないと思う」
この細い川を見てアルスの口端に深い笑みが刻まれた。
「精神的な誘引を受けているのであれば直前まで小川に気づけなかったように水場は見つからなかったはずだ。だが、このポイントに限っては違う。偶然か、あえて誰も示さなかった道を進んだことが逆によかったのか」
「特定のルートを経由しないと見つけられないと言うことですか!?」
「すぐ側を流れていてもな」
頭をフル回転させてようやくアリスも追いついてくる。
要領は良いが、これが魔法によるものではないことがアリスの頭を不必要に掻き乱していた。
「常識じゃ考えられないよね、これ。だって魔法じゃないんでしょ?」
「俺でも察知できなくて、かつ【暴食なる捕食者】も掻い潜れるほどなら話は変わってくるがな。しかし、魔法じゃないと断言し切るのも難しくなってくる」
でないとアルスでも説明できないからだ。原理や脱出方法など外形を捉えることはできても、本質までは理解できない。
だから今は理解できなくていい。元を辿れば仕組みぐらいは見当が付くだろう。
「いずれにせよだ、この上流って気にならないか?」
「この小川がイブサギで迷わないための鍵かもしれない、ということですね」
「ま、この小川に沿って上って行けば直にわかるだろ。下流も気になるが、おそらく上流に何かある」
「だね〜」
先陣を切って、ロキが歩き出し、アリスは何かを待つように何歩か下がってみせた。
「…………おんぶはせんぞ」
「だよね〜。あまり背中を意識されても恥ずかしいし、外界で鼻の下を伸ばしちゃダメだよぉ」
「うっ」
「ははっ、さっきの仕返しぃ。もう大丈夫だよ。まだ痛みはあるけど歩けるし、走れるもん」
おちゃらけて血が滲む片腕を掲げてみせる。曲げるくらいならば差し支えないのだろう。
ロキの睨みが光る中、アルスは口を噤みガクリと項垂れた。
そんなつもりは微塵もないが……というかおんぶしていたアリスからは、後頭部しか見えていない。
それがわかったとて、アルスの口は重い。
「善意が全面降伏せにゃならんとは、正義はなかったか」
「下心はあるのにねぇ」
「…………アリス? 冗談のブレーキが壊れているみたいだが?」
「ぷっ、ふふっ………はははは、ゴメンゴメン。これより急停止しまーす」
どこまでが冗談なのかも判断が付かない。少なくともおんぶされたことによる羞恥心はないようだ。あっても失礼な話だが。
「ロキに置いてかれたら、それこそ散り散りになるぞ」
「はいはーい」
「まだ精神汚染が……」
冗談で締めようとするアルスの横に並び立って歩くと、アリスはぴっちりと閉じた口で半円を作る。そんな如何にもな作り物の顔をアルスに向けた。
いつもの彼女のはずなのに、妙に威圧感を纏っている。
「またその話に戻る?」
抑揚のない声音でアルスへと問う——もとい圧を掛けてきた。