背中の湿り気
アリスの腕をきつく縛り上げる。
その様子にみるみる彼女の顔から血の気が引いていく。脂汗がさらに増して、不安げな視線をアルスとロキへ交互に振った。
どちらも顔のない人形のような無表情だった。
この後、自分の身に何が起こるのか、そう誰かに問わずにはいられない——のに頭は鮮明に映像付きの回答を幻視させてくる。
さらにロキが腰巻きからナイフを抜く。それは【月華】ではなく、彼女が常用していたメスのような形状のナイフだった。
痛みにばかり集中していられなくなった。
血が止まり、腕が変色していく。
それと同時に枝も伸びては新しく皮膚を破って突き出てくる。腕を縛ったおかげなのか、その勢いは衰えて見えた。
「アリス、よく聞け」
「……腕、切るの」
短い言葉でアリスは断念した声を落とす。
すると汗に濡れた髪の上からアルスの手が乗っかった。
「そうならないようによく聞け。独断専行についてはお前のせいじゃない。こっちも気付くのが遅れたからな。なんとかする方法はある」
安心させるような優しい声音ではなく、決められた時間内で説明し終えるために整えられた言葉の羅列。
説明調ではあったが、アリスは反射的に首を回してアルスを見る。
「その辺りの話は後だ。魔力にせよそもそも魔物をお前は受け付けない。それが光系統の強みだ」
アルスは回り込んで足の間にアリスの両足を挟み込んで膝立ちになる。
それから彼女の顔を両手で挟み込んで顔を近づける。
その瞳を覗いたアリスには理解できた。
アルスは自分を助けてくれると。声音以上に、表情以上に、彼は全力で助けてくれる。
しかし、何もせずに助けられるなど虫のいい話もない。アルスの目からは、アリスがやるべきことがあると伝えていた。
「……ん」
アリスは小さく頷き返す。
「全身の魔力を全て腕に回せ、それもただの魔力じゃ意味がない。光系統の因子が必要だ。集めるのはここからだ」
指を当てられた場所は心臓の上だった。
「侵食速度を上回り、根本に干渉しろ。押し出すイメージだ。大丈夫だ、大丈夫だ」
繰り返される言葉は自分自身に言い聞かせているようだった。でも、逆にアリスを勇気付けてくれる。
外界ではきっとこんな怪我は日常で、どんな時でも自分でなんとかしなければいけない。なのに、アルスは子供が怪我したような目で見てくる。
過保護なのだろう。でも、いつまでもそれでは外へ出ていけない。
アルスも重々承知なのだろうが、時間が経つにつれて隠し切れなくなっていた。嬉しい気遣いなのだけど、いつまで経っても誰とも対等になれない。
テスフィアにもロキと同じ場所に立つことはできない。そんな気がしてならなかった。
自分にとっての分岐点とはこうも自覚できるのかとアリスは胸が空く思いだった。
苦境に立つことで、人としての——魔法師としての——真価が問われる。
ここで女を見せなければ、ずっと子供のままだ。いつもあの二人から一歩引いていることをアリスは知っている。そんな自分の性格を良く理解している。整列していても、自分は足を一歩分だけ引いてしまうのだ。
でもいい加減もう一歩を踏み出して、二人と肩を並べることにした。引っ込み思案を変えるいい機会なのだろう。清濁を併せ呑むような態度はやめよう、誰にでも良い顔をするのはやめよう。
そして、自分にこれだけ心砕いてくれるアルスに真剣に向き合おう。自分の心に向き合おう。
テスフィアもロキも関係ない、自分とアルスの関係について見直そう。
そのためにも……。
ここで何もできなければ、それが腕を失う結果になったとしても一生外界へは出ていけないだろう。自分が矮小でちっぽけな人間だと認めることになる。
臆病でいい。でも時には臆病に立ち向かえる勇気がなければならない。
「うん、大丈夫だよアル」
コツンと額をぶつけてアリスは不敵な笑みを作る。
これ以上ない苦境の中にいてアリスの双眸は力強い光が灯っていた。
アルスが入学当時、二人に言ったように外界では適性が試される。魔法師としての才能ではなく、人外の領域に踏み入れられるかの適性——洗礼だ。
奇しくもアリスにとっては、これがその試練なのかもしれない。
ふっと息を吐き出すアリス。
「いくよ!」
そう言うとアリスの意識は己の深層へと潜り込むように希薄になっていく。魂が抜けたようで、すぐさま彼女の全身に光が溢れ出す。
魔力光さえ光系統としての純真な白を描いていた。
整い出す呼吸のリズム。
体内に巡る魔力を全て掌握しようとするその姿は、神の依代のような神々しさである。肌さえも薄く光出し、側からもアリスの魔力の流れが感じ取れるようだった。
白色で体を包み込み、体内の毒素を浄化する。
魔力操作が覚束なければアルスは早々に、彼女の腕を切り落としていただろう——命を救うために。
アリスの魔力操作は二桁魔法師と比肩する。外界に出ても十分通用するレベルに到達している。
だからこそできるはずなのだ。
いくつか対応手段は取れるが、今のアリスができる最善策は光系統を用いての浄化。
体内へ侵入する一切合切を取り除くこと。
(そうだ、稀有な系統である最大の理由——。光系統は魔物に対しての優位性こそが強みだ)
万が一に備えてロキがナイフを構えているが、その心配はないだろう。
代わりにアルスは合図を出して、腕を縛っていた糸を解かせる。
すると、体内魔力が一気に腕へと流れ込み、血管さえ光らせるほどの魔力が注がれた。
腕に根を張った枝も最初は黒く映っていたが、徐々に光に飲み込まれていく。腕、手首へと流れていき、枝は炭のような粒子となって枯れ始めた。
「後少しだ。魔力を切らすなよ」
「…………」
爪を割って伸びた枝の指を、アルスは下から掬い上げるように持った。
ピンポイントで魔力が流れ、爪から生えた枝は先端までを粒子へと変えて散る。
「よし! ロキッ」
「準備はできています」
今度はロキがポーチから治癒魔法術式が刻まれた包帯を取り出し、傷口の手当を完璧にこなしながら巻き終える。その素早さと来たら、戦いとは無縁の治癒魔法師ではできない芸当であった。
「はふぅ〜」
一段落の息を妙な声とともには吐き出したアリスは、そのまま後ろに倒れ込んだ。
血の滲んだ包帯が痛々しいが、それでも完全に抑え込んだアリスは疲労を隠そうとはしなかった。
「少し休んでいい?」
「もちろんだ。…………魔力操作を鍛えていてよかったな」
「じゃなかったら、腕……なくなってた?」
「…………あぁ」
「ん? なんか間があったけど」
いくつか条件付きではあるが、腕を失わずに済む方法はあっただろう。少なくとも三つほど。
ただ、確実性という点だけを見ればアリスが自力で対処した方が間違いないことはわかっていた。
「ここを抜けられれば、一時的にでも進行を遅らせて内地に戻る。治癒魔法師なら二人いればなんとかなっただろうな」
「ん〜なんか、一か八かっぽいんだけど」
「不満か?」
「違うけど、どうもなぁ〜」
あれほどの一大事を乗り切ったばかりのアリスに、小さな笑みを送る。
こういう経験が後に活きてくる。
そして残念なことに、こればかりはぶっつけ本番が常だ。備えることはできても、事前に練習はできない。
汗だくのアリスは、弱々しい抵抗を表情に乗せた。
釈然としないのだろう。いや、まだ実感が湧かないのかもしれない。
変な期待を持たれて、自己解決能力が育たない方が問題だ。
少し休憩を挟んだ後、アリスを背中におんぶして目的地へと向けて? 歩き出した。
片手でも魔法を使うのに支障はない、というアリスの主張を受けての続行だ。もちろん、そうした議論をする前にアリスが先手を打ったということもある。
金槍にお尻を乗せる形でアリスは、アルスの背中に身体を預ける。
腕の負傷でおんぶというより、アリスの体力回復のための一時的措置だ。
のはずだったのだが……横からは難解な意味を含んだロキのジト目が突き刺さる。前を見ていなくても転ぶヘマをしないだろうから注意も虚しい。
(テスフィアの時もそうだったが、一度はおんぶすることがあるもんだな)
とわざわざ過去を振り返るアルス。今更ながらおんぶは失敗だったことに気付かされた。
一応アリスは気にしていないようで、しっかり周囲を警戒してくれている。
の、だが。
背中に当たる〝何か〟をアルスが意識しないのは難しい。戦闘モードに思考を切り替えるにしても、これの対応方法まではわからなかった。
ロキの視線のせいでアルスがその二つの膨らみを頭から追い払うのを阻んでいるのだ。
これで溜息なりの反応をすれば、如何わしい方向に結びつけられそうな気がする。
「ねぇ、アル?」
ギクッと反応しなくていい心臓が跳ねた。やましさはないのに、言い訳無用の包囲網の中にいる気分だ。この状況下で冤罪を主張するのは難しいのではなかろうか。
言いづらそうに発されたその言葉の真意はわからない。
まずは続く言葉を待つことにする。
「汗臭くないかな。それにアルの背中も濡れちゃったし」
「あぁ、そりゃ……気にするな」
完全に肯定する前に、先読みする。 ロキの白い目を察知しての先手であった。しかし、女性相手への気遣いとしては不合格であったのか、ロキのなんともいえない苦い表情が返ってくる。
なんだろうか、今の短いやり取りの裏で予想し得ない地雷を踏み抜いた気がするのは。
相手がアリスであったことが幸いし、地雷は不発に終わった。
「気にするんだけどなぁ。というか凄く気持ち悪くって、ほら湿度も高いし。ジメジメ〜」
かく言うアリスもアリスで、一般的な反応とは違った返答。
擦りもしないすれ違いはどちらも無傷に終わったのであった。
結局ロキがデリケートな話題を回避する方向に振った。
「ここは一つ、汗を拭くことも考慮して水場を探してみてはどうでしょうか。方向的にも闇雲なところもありますしね」
「それさんせーい」
車掌気分なのかアリスは機嫌良く即答で挙手した。
探して見つかるかは別として、これといった根拠の上で移動しているわけではなかった。
地図はかなり古い物で、小川程度の記載があったと記憶している。
そもそも今どこにいるかもわからないのだから、地図を見ても何も得られないだろう。目印となる物もどこまで当てになるものやら。
そんなことを考えていれば、数十分と経たずに三人の目の前に水の音が届いた。耳を澄まさなければそれと気づかず通り過ぎてしまっただろう細い川。
辺りはひんやりとした空気が漂っていた。
「さて、幸運なことに小川を見つけられたのは良いんだが……」
アルスが何を言わんとしているのか、アリスもロキもすぐさま察することができた。というより、三人とも同じ感想を抱きつつも、不可解な物でも見るような目で恵の水場前で足を止めた。
「アルが何を言いたいのかすごくわかる。わかるけど……これ本当に水だよね?」
「アリスさん、なんの変哲もない水ですよ。綺麗なほどに」
もちろん幻覚を見せられているのではない。なので、アリスが汗を拭きたいという願いは叶うだろう。心配はないが一応これで飲水も確保できる。
ロキは小川の上流へとゆっくり視線を動かし、胸中で膨らんだ疑問をそのまま口に出した。
「この上流が向かっている場所って、今来た道ですよね?」
「残念なことにそうなるな。めでたいことに目の前に来るまで誰も気づかなかったわけだ」
アリスはポケットタオルを取り出して水にひたす、その背後で狐につままれたような会話が交わされた。