予想外は平常運転
【イブサギ】に入るにあたって、当然のことながらアルスも対策を考えてきていた。監督者としての責務と言うよりは、どちらかというと経験者故の準備である。であるからこそ、今回は些か力及ばずといった無念が胸に残っていた。
迷うと有名なだけで無策ではあまりにも杜撰過ぎる。加えてまだ外界の経験も浅いアリスをつれているのだから尚のことだ。
とはいえ、十分な対策があるのであれば、今日まで未踏なはずもないわけで……。
「逸れるなよ。こんな場所で人探しはゴメンだ。それもあまり過信するなよ」
「うん。過信はしないし、寧ろ置いてかない、で?」
何故か疑問系で発したアリスは、逸れる可能性の高いシチュエーションに言及した。望んで逸れるはずもないアリスには、他にあるとすれば走力で劣るため二人が先行してその背中が霧に消えてしまう場面が想像できたのだろう。
「それこそ心配いりませんよ、アリスさん。アルがいくらスパルタでもそれはないです」
「…………」
スパルタ発言に引っ掛かりは覚えるが、アルスは客観視した結果反論を呑み込んだ。そもそも新人の死亡率は統計を取らずとも肌感覚でわかってしまうほど明らかだ。ましてや学生のアリスを置いていけば、その監督責任は全てアルスにあると言っていい。
「万が一の時はあれを使え」
「了解」
アリスはポーチに触れてしっかり入っているかを入念に確認する。
過信するな、と言ったように二人には保険を持たせてある。彼女達に持たせているのは、三種の球形AWRだ。ガラス玉ほどの大きさで一つ一つが使い捨ての粗末なAWRだった。
即席でアルスが用意したものとしてはかなり贅沢な使用法でもある。採算度外視なのだから軍や協会に持ち込んでも渋い顔をされて終いだろう。
「個々人の血と魔力情報体の基礎ワードを入れてある。最悪の事態に陥ったら、それに魔力を込めれば所有者の下まで導いてくれるはずだ」
理論的には、と付け足さざるを得ないのが口惜しいが。
かつ、試験運用をする時間もないと来れば、本当に最後の保険と言えるだろう。アリスが持っているのは、アルスとロキの魔力情報が含まれた小球である。
この【イブサギ】の霧が魔法でない以上、事前準備を完璧に整えることは不可能だ。
今はまず離れ離れにならないよう細心の注意を払うことに注力する必要がある。
そうは言っても、アリスにとって外界は絶好の訓練場だ。この機会をアルスが利用しないはずもなく、当然、戦闘はアリスを主体とした隊列を組んでいる。
「実戦経験に勝る訓練はないからな。全力でサポートしてやるから、アリスは思ったように動いてくれ」
少し前に二人を連れて行った時とは違い、今回はアルスも赤子を抱っこするかの如く完璧にフォローに回る予定だ。心境の変化がないと言えばないし、訓練方針の転換とも言えなくはない。
のだが、アルスが口に出してそれを認めることもないのだろう。
アリスは最強の魔法師の言を疑いはせず、寧ろ彼我の力量差から来る別の心配があるらしい。
「気づいたら二人ともいないとかヤダよ?」
念を押すアリスの顔は悲愴感が滲んでいる。
「そうビビるな。なんなら抱っこしながら魔物を狩るか?」
「…………槍振れるかな?」
真面目に思案し始めるアリスに「馬鹿なこと言ってないで」とロキが彼女の背中を押す。
実際問題として、今のアリスならば大抵の魔物は単独で討伐できることは間違いない。実戦経験が乏しいことは大きな欠点だが、戦闘技能においてBレート程度ならば十分対処可能だ。
それからしばらく……。
といってもイブサギに侵入して五分ほど経った頃。波打つ地面に苦戦しながら、進行していた折、先頭を行くアリスがふとその足を大きくうねった根に止めた。
「普通に走ってきてるけど、この方向であってるんだよね」
「間違ってたら言うから心配するな」
彼女が何故立ち止まったのか、その意図は進行方向への不安から来ている様だった。こう視界が悪いのだからわからないでもない。
アルスもロキも時間の浪費に対しては割とシビアな方で、無闇矢鱈と行軍を止めたりはしない。
無論、ある程度探知魔法が機能していることで接敵がないとわかるためだ。
慎重を期すならば、何度か足を止める必要も出てくるだろう。
(霧は変わらず濃いが、ここら辺はまだ見通しが良い)
周囲の木々は常識を越えて巨大化しており、その背後に何が潜んでいてもおかしくはないのだが。
それでもまだここら辺はマシな方なのだろう。
霧の奥に樹木とわかるだけの陰影が認められるだけ、最低限の視界は確保できている。
木々の間隔が広いおかげで、進行方向だけならば二・三十メートル先まで目視できていた。
「どうしたのですか?」
今回はアリスの訓練も兼ねているため、その行動方針も確認しておくべきだろう。
「う〜ん、ねぇロキちゃん、あそこなんか嫌な感じしない?」
そう言って指差した先は遠近感で多少違和感はあるものの、ちょうど木々が重なって見える方向だった。
「確かにこの位置ですと、通過直前までわからないように死角になってますね」
確かに注意力散漫だとギリギリになって肝を冷やすことになる。
が、一々そんなことで足を止めていたらいつまで立っても目的地につかないのも事実。
だからロキは経験者としての物知り顔をする。出番待ちをしていたと顔に書いてある有様だった。
「確かに良いところに気づきました。けれども……」
得意げなロキの鼻っ柱を折るように、アリスの指摘した方向から幹が軋む音が響く。
「なっ!?」
目を見開いたロキの先には巨木の幹を払うように、異形然とした手が木々を押しのけていた。
地響きはなく、代わりに木の割れる音が不気味に響いてくる。
「上だ」
アルスがそういうや否や、三人は即座に散開。
立っていた場所には深い青色の腕が振り下ろされた。
四本の指に長い腕は、比較的高い位置へと繋がっているようだ。
根が弾け飛んだ跡を見て。
「ロキ外れたな」
「でもぉ……」
不服そうな顔をしつつ物言いたげに口を開きかける。
探知魔法が使えないロキにとって残る索敵方法はセオリーに則ることだ。それも軍で学んだものではなく実戦で培ったセオリー。アルスも賛同するべきセオリーと言える。
しかし、
「アリスに軍配が上がったな。光系統の未解明な部分だ、気にするな」
「え〜っと勘みたいなものなんだけどな」
アリスもたまたまだとこそばゆそうに訴える。
「おしゃべりは後にしよう。アリスは前衛、ロキは後衛、俺がサポートに回る」
「「了解」」
即座に殲滅できれば問題はないが、まずは分析。
叩きつけられた手は魔物にしては鮮やかな色味をしている。それでも魔物らしく血管の様に赤い線が表皮に走って見えた。
問題なのは……。
腕に無数の目が備わっていることだ。
実に化け物じみた様相。その一端なのだろうが、ギョロギョロとその眼が蠢く様相は、数々の魔物を見てきたアルスでも頬が引き攣ってしまう。
魔物とは良く言う、と。もう少し想像の範囲内に収まってくれていればと思わなくもないのだ。これがまた魔物は漏れなく畏怖されるべき姿形が多い。
「眼か、この霧の影響で適応するために変異したか。ふむ、適応を変異というかはまだ議論を呼びそうだな。さて、個体名は確か【地の嫌悪者】。センスがないな」
目があることを除けば、個体名は間違いないだろう。
樹上に出ることもなく、地上に降りることもない。樹間を縫うように移動する巨大な魔物。
アルスは手持ち無沙汰から両手を開閉してみる。
そして視線を上げれば、こちらを見据える無数の眼光が薄霧の奥に灯っていた。
「目ぼしい弱点はない。ただ、こいつは土系統の魔法を使う——」
直後、アルスの左右の巨木の木肌が不自然に捩れていく。小さな窪みが黒点を作ると、まるで幹そのものが吸われている様に一点に集約していく。
そして一際目立つ窪みから一斉に樹枝が生え出し、それらは無数の棘を纏ってアルスへと枝を伸ばす。
巨大な有刺鉄線のような樹枝が左右から襲ってくるが、アルスはそれを物ともせず涼しい顔で軽く腕を振る。すると周囲に凄まじいまでの局所的暴風が覆い、樹枝を木屑へと変えた。
濃い若木の香りが立ち込める。
まだ生えてきそうな幹の窪みを小さな【デトネーション】で爆破し、対処も完璧にこなす。
焦げた幹はその箇所からチロチロとやけに澄んだ水を流していた。