雲に覆われた森
アルファ軍から外界へと出るためには許可が必要である。
出国審査の様なものだ。
無論、軍関係者ならば事前に指令が伝達され、ライセンスによる通過許可が下りる仕組みだ。
これらは実際に軍人が意識することはない。外界に出ていく分には即座に指令との照合がなされて許可が下りる。
ただし、帰還した場合は少々事情が異なる。
外界から持ち帰った物は全て軍に所有権が帰属するためだ。表向きは内地に魔物関連を一切持ち込ませないためだった。
稀に廃墟となった旧跡から価値ある物を無申告で懐に入れてしまう輩がいる。文化的価値のある物も含まれるため、軍としても看過できないのだ。
そう言った事情から簡単な身体検査を受ける必要があった。
これもまた一般的な軍下部の魔法師のみで、実のところはアルスが身体検査を受けたことはない。
この辺りは順位による特権とでも言うのだろう。でなければ、アルスが作った魔物を使った訓練棒も形にならなかった。
なので、アルスはこんな通用口があること自体知らなかった。
さすがに軍部が自分の庭とまでは言わないが、勝手知った場所とは言い切れなくなった。
受付で外界へ出るための手続きを済ませ、アルスの知らない通用口を通っていく様に指示されたわけだ。
なお、ロキは場所を知っているらしい。
軍部ではまず見慣れない光景だろう。軍人でもない者らが外界へと出て行こうと言うのだから。
協会の設立以降、協会所属魔法師が軍部を外界への玄関口として使っていくかもしれない。
蛇足だが、バベルの防護壁が取り払われた現在、外界との境界を軍が全て管理できているわけではなかった。
バベルの防護壁はあらゆる側面で、管理に都合が良かったのは事実だが、それも完璧とは言い難い。防護壁の薄い箇所は確実に存在し、そこから抜けられれば軍は当然感知できなかったのだ。
現在は新たに領土を拡大し、前進してはいるが内地とを隔てる壁の建造を急ピッチで行っているところだ。
幸い土系統の魔法師の存在が大きく寄与している。
軍本部をガチガチに緊張したアリスを伴い、アルスとロキは泰然と足を運んでいた。
他人の奇異な目を気にしていたらキリがない。
今やアルスは名も顔も知れた魔法師だ。本人は望んでいないがシングル魔法師として、ようやく陽の下を歩けるというもの。
恙無く検査を終え——とはいっても今回のために適当に用意してもらった協会の依頼を受注している。目的地を正直に【拐かしの深森】とはせず、その近くでの調査としている。
アルスも今はアルファの魔法師ではないので、好き勝手に外界へは行けないのだ。ベリックに顔を出そうかと思ったが、足止めを受けるのは想像に難くなかった。
何せ、ここにはベリックが身元保証人であるアリスがいる。彼からすれば、孫同然と言えなくもない。いずれにせよ、随分と肩入れしているのは間違いない。
「さて、軽く運動も兼ねて、目標地点まで走るか」
「そうですね。アリスさんも軍人の移動速度に慣れておく方が良いですよ」
「え、うん。大丈夫かな」
不安な声を漏らすアリスだったが、彼女の視線を追うと原因が必然とわかってしまう。
アリスは顎を引いて、真下に目を向けている。
成長著しい膨らみ。その不安をアルスとロキでは解消してやれそうもなく、必然的に沈黙が降りる。
「今更それを言うんですか! 一応軍でも支給されている伸縮性の高い高機能インナーですから大丈夫ですよ。何を心配しているのかは聞きませんけど。魔法師には当然女性も多いわけですし」
なんとなく使命感を抱いたらしいロキが、女性ならではの問題に答える。
アリスもハルカプディアでの外界訓練を経ているので、その辺りは心配なかったはずだが、もしかすると多少動きに違和感があったのかもしれない。
今アリスが着用しているのは、アルファ支給の高機能ウェアであり、下着の上から着用するタイプで女性魔法師に定評の装備だ。なお、軍では肌着などかなり豊富に取り揃えられているし、その開発に余念がない。
この辺りの予算は実は合理的な統計が用いられている。単純に女性魔法師の外界での死亡率が低いからでもあったが。
魔法を扱う上で、女性というのは比較的適応しているのはデータからも見て取れる。
「もう移動したいんだが……」
「あ、うん。ちょっと走ってみてからだね。うん、オッケー。いつでも良いよ」
スタートの合図を待つかのように、走り出す体勢を取るアリスには不安しか感じなかった。
アリスからの返答を受けて、アルスは出鼻を挫かれた感を抱きながらもその場から一足飛びに走り出す。
風を切りながら、走るアルスに続いてロキとアリスも併走する。
深い森の中へと本格的に進入すると、アリスに今の速度を維持するのは難しい。
的確に足場を確保しながら、跳ぶように走らなければならないためだ。
それでも……。
(前も気になったが、こいつらそこそこの速度で走れるんだよな。これは嬉しい誤算だ)
訓練ではこうした走力や持久力といった体力面を鍛えていない。模擬試合ではある程度肉体的な訓練に繋がっているのだろうが、思った以上に体力はありそうだった。
肉体面に関してはテスフィアに軍配が上がるかと思っていたが、アリスも武術の心得があるおかげで随分と器用な体捌きができている。
目的地である【イブサギ】はアルファから南西数キロに位置している。
ちょうどアルファとルサールカの排他的統治領域の境界線に乗っかる形で深い森が広がっていた。
道中、Eレート三体にCレート二体をアリスとロキに討伐させると、程なくして魔法師から敬遠される深森に辿り着く。
外界でどこから、という明確な記載があるわけではないのだが、ここ【拐かしの深森】は少々事情が異なる。
周囲の木々を伐採し、微かに霧を纏う樹木の一群が三人を出迎えた。
「う〜ん、ねぇ、アル。帰らないかな?」
立ち竦みながらアリスはぎこちない笑みとともに首を可愛らしく傾ける。
柔和な表情とは対照的にその足は地に根付いたかのようで、アリスは頑として步を進めようとしない。
火照りを冷ましながら、顎を上げて木の天辺を見上げる。
外界の中でもここら一帯の樹木は異常な成長を遂げている。珍しくはないが、幹周りが三十メートルを超える木々が、太い根を張り巡らせていた。
どれほど高いかなど真下からでは到底望むことはできない。
「絶対、ここオカシイよね?」
「一応暗黙の了解としての立ち入り禁止ではありますよ。でも、アリスさんの言いたいことはわかります……」
アリスに続きロキもどことなく踏み入り辛さを感じているらしい。
というのも【イブサギ】は魔法師が迷い込まないように目印があるのだ。それは様々な色の布を枝に括り付けるといった簡素な方法である。
が、こうして至る所に目印が括られていると、誰がみても恐怖心を掻き立てられるというもの。
一度入れば出ることが困難と言われるイブサギ。異常なまでの警告は効果覿面だ。
人命もそうだが、政治的な問題が発生しやすいため上層部も迂闊に立ち入らないように警告を発してきている。
夜の外界ほど不気味なものがないように、イブサギもまた引けを取らない異様さを放っていた。
視界が悪く樹冠は日差しを遮り、湿った空気が肌に纏わり付く。外界の自然、その変貌の最たるものと言えるのかもしれなかった。
視界の利きづらい濃い霧は樹木群が大雲を掴まえているかのようだ。
すると霧の奥から、奇声がいくつも重なって大気を震わせた。
ビクッと肩を跳ねさせるアリス。その手はいつでも抜けるように金槍に向かっている。
「ロキ、探知は?」
即座に首を振るロキは事前にわかっていたことを裏付けるだけだった。
「やはりこの霧のようなものは魔力を豊富に含んでいますね。ソナーではまるで歯が立ちません」
「原理からして利かないんだろう。俺の方も全くダメだ。魔力だけじゃちと説明がつかんな」
アルスの琴線に触れたとロキにはわかった。声が一瞬弾んだのを彼女は見逃さない。
しかし、問題はやはり【イブサギ】が一度入れば出られないと言われていることだろう。もちろん、何人かは奇跡的に生還できているが。
「アル、対応は?」
「エレイン女教諭の話が本当なら、メテオメタルが関連している説だが、それも確実じゃないからな」
「この霧が魔法というのはどうでしょう?」
「それはない」
するとアルスは軽く片腕を突き出して、そこから黒霧を吐き出す。
グネグネと身を捩らせると先端をガバッと開き、微かに黒霧の形が蛇を模す。すかさず眼前に広がる霧目掛けて噛み付く。
空を喰む仕草をするが、その空間から霧が晴れることはなかった。
「魔力は含んでいるようだが、これが魔法なら必ず綻びが生じる」
「なるほど、フムフム。あのアル、その【暴食なる捕食者】はそんな気軽に使って大丈夫なのですか」
「ん? 多分」
ロキの語調から彼女が叱責へと繋がる雰囲気を醸し出していることを察する。暴走の懸念や、吸収魔力の消化不良などピーキーな代物だという認識なのだろう。
ラティファが使った魔眼とは別種である事実に、ロキだけは安心しきれなかったようだ。
管理すべきという面持ちで、監視の目を光らせるロキであった。
それもそのはずだ。アルスにとっても【グラ・イーター】は易々と使用できる類の能力ではなかった。それこそここぞという場面に限定した使用用途だったはず。
「そこまで神経質になるな。一応、この前試しに感触を確かめたが完全に制御下にはある」
「……そうなら良いのですけど。アリスさんがいるんですから、しっかりして下さいよ」
「了解」
珍しく咎められるアルスであったが、ロキの不安は今回の調査任務では解消されることはないだろう。それこそ一緒に長い月日を過ごして平常を見せなければならない。
一度失敗しているアルスは、素直に従うのであった。




