観察者II
「——!! アルス先輩ッ!!」
咄嗟に口を押さえて漏れ出る声量を押し留める。
蛇足だが、フィオネはアルスとの一件以来、様付けをやめて学院の先輩という立ち位置の落とし所で納得していた。なんというか、有難かったし、系統に関する悩みも払拭できた、けれどどうにも彼の物言いや顔つきが少しだけ怖い部分もあったのだ。
凄いと感じ過ぎるがあまり、今後色々と……そう、あわよくば相談に乗ってもらうのに様付けでは距離を空けてしまう。ようはアリスやテスフィアといった尊敬する先輩方とこれからも、教わり、学び続けるにはやはり彼との付き合い方も考えなければならないのだ。
少し苦手ではあるけれど、根っこの部分では〝良い人〟というのがフィオネがアルスに対する認識だった。
これはフィオネ自身の問題ではあるが、現時点でもっと考えなければならない問題が浮上する。
「——!! ダメだよノワッ!!」
先制して釘を刺したのは、以前もアルスへと襲い掛かった経緯があるため。
ノワールはアルスを前にすると臨戦態勢に入ってしまう。アルス自身も、ノワールの襲撃を受け入れているようだったが、相手はシングル魔法師だ。
何よりノワールの暴走を止めるのが、フィオネの役割でもあった。
が、次の瞬間、明らかにノワールの腕から力が抜けていく。
いや、大きく目を見開いた彼女は、猛獣に見つからないように息を潜めることに全神経を傾けたようだった。無呼吸を思わせる静けさは、心音すらも止めてしまったのではと思うほどだった。
「ちょっと、ノワ!? どうしたの。それより帰った方が良いよ。アルス先輩に見つかったら……んっ!!」
シュッとフィオネはノワールに口を押さえつけられる。息が漏れる隙間すらないほどにピッタリと。
そして彼女はフィオネの耳元へと口を近づけて限りなく小声で続けた。
「ダメなの。動かないで。指も、呼吸も、瞬きも、しちゃダメなの!」
そんなことを言われても……。
息苦しい中で、ちょっとだけ鼻から息を吸い込み、フィオネはノワールから視線をアルスの方へと移した。
それは黒い霧状の何かが、無数の蛇のように宙を縦横無尽に蠢いている様だった。
禍々しい、という一言では言い表せない怖さが胸を締め付ける。
多分あれは、喰うモノだ。捕食するモノだ。
自然界における生存競争があるように、あれは最上位にあって全てを喰うことができるモノ。
それをノワールは察したのだろう。だから食われる側として身を隠す必要がある。理性ではなく、生物の本質として……。
見ればノワールの額にはびっしりと汗の玉が浮かび上がっていた。
すると、強風がこの木々の間を隙間なく洗っていくように吹き付けた。
そして……。
フィオネは指でノワールにジェスチャーを出す——アルスの姿が見えない、と。
ノワールも入念に確認すると、フィオネの口を押さえていた手をどかす。
「なんだったの、今の?」
「わからないんですの。あれは……」
「よく堪えたね、ノワ」
「あんなの、反則ですの。フィオネ、多分他言無用にした方が身のため。ロキがいないところを見ると、あの力は良いものじゃないですの」
ノワールは自分の震える手を見て、そう溢した。
あの力は人を殺し合いの舞台にすら上げさせない類のものだ。
「確か、異能とかっていうんでしたっけ」
ノワールは引き返そうとするフィオネとは逆に、先ほどアルスのいた場所へと歩き出す。
仕方なく、フィオネもそれに続きながらノワールが口走った言葉を反芻した。
「異能って先天性の魔力異常だっけ?」
「体のいい説明ですの。異能は、魔法とは一線を画する特異な性質」
「さっきのアルス先輩がウネウネした奴を出してたのが、異能?」
「ならマシですの」
異能の分類はあやふやだが、ノワールの知りうる異能の中でも先ほど見たのは別格中の別格。異能といっても、本来魔法との大差はないようなものだ。現象自体を魔法で再現できるものも多い。
けれど--。
「なんか凄いことになってるね」
「…………」
周囲にあった木々の幹。それらが虫に食われたように抉られている。辛うじて立っているが、周囲の木々がヘタすると強風で軒並み倒れてしまうのではと思われた。
「本当に、これなら、人類が胡座をかいてしまうのもわからなくはないですの」
抉られた箇所に目を凝らしたノワールが、ため息と共にそんな憂慮を口にした。
同族として、同じ魔法師育成プログラムで育った身として、ノワールはため息をついて、何かを晴らした。
「殺すのが、大変になったんですの」
「え……。それってアルス先輩のことじゃないよね?」
「ん? 他に誰がいますの?」
ハァ〜、と盛大なため息を今度はフィオネがつかされるハメになったのだった。
フィオネはいい加減、帰ろうとノワールを促すと、今度はすんなりと従ってくれた。
さすがに暗がりとはいえ、二人ならばフィオネもどうということはなかった。
服についた葉っぱを落としながら、ふと思い出す。
「そういえばさ、ノワは今度の試験の話って……聞いてないよね?」
「なんですの? 言っておきますけど、馬鹿三人組の面倒は嫌ですの」
「いや、確かに勉強を教えてもらったことはある、よ? うん、あの時はありがとう」
苦笑を浮かべて感謝を告げるフィオネ。確かに英才教育を受けてきたノワールの知識は学院レベルを超えているが、それ以上に彼女が人に教えるのが不向きだということが発覚したのだ。
おそらく、いや間違いなく、二度と頼むことはあるまい。
なんせメインが問題を間違える度に、半殺しの目にあうのを見ていたのだ。
過剰なほどのスパルタ。それも自己中心的で、わからないなどといえば鎌が首元に添えられる。
ノワールは教えるのが決定的に、壊滅的に下手なタイプだった。
優秀な魔法師が、優秀な指導者になれない証明を見ているようだった。
多分、ノワールに関しては実戦面で教えを請いたいところなのだろうが、それもそれで不安が残る。
「ほらほら、学院長が検討しているって報告した、課外授業」
「なんですの、それ」
「何にも聞いてなかったんだ。まぁ、ノワ、寝てたもんね」
「去年はテスフィア先輩やアリス先輩もやったらしいんだけど、今年はいろいろあったから新入生は、課外授業が見送りになってたのよ。外界に出て、魔物を倒してみるっていう奴」
そこについては国民から賛否の声も上がったが、理事長の説明会で必要性を説いたことで一定程度は受け入れつつあった。
そもそもアルファ以外の国では随分前から実施されていたことでもあるので、寧ろ遅いぐらいなのだが。
「参加する気はないって顔してるね、ノワ」
「よくわかったの。魔物と生徒の両方が狩りの対象なら……考え……」
言葉を切ってノワールは一瞬考えを巡らせる間を作る。
そして彼女は艶やかな、卑しいほどの笑みを浮かべた。美醜とはいうが、どんな表情を作ってもノワールの整った美形ならば、〝美〟がつく表現しか出てこないことだろう。
だから、彼女は怪しい、蠱惑的な笑みを浮かべた。
「あああぁぁぁ!! ノワ、今課外授業に乗じて、アルス先輩を襲おうとか考えたんじゃ」
「一緒にどう? 足手纏いになったら、置いておくけど」
「じょ、冗談じゃないわよ!! 退学ものだし、魔物とか、何かあったらどうするんのよ!」
声を荒げてみても、フィオネにさほど真剣味はなかった。
こうした冗談? が言い合えるほどにはノワールとも打ち解けてきたのだろうと、ふと思えてくる。
でも、だからこそ、目を離すと彼女は間違いなく、生徒の道を踏み外す。
面倒係としてそこは一線を引こうと改めて、フィオネは決意するのであった。
多分、ノワールが騒動を起こす度に、道連れにされそうな気がする。
連帯的とか言われた日には、絶望以外に何も残されないのだろう。アルスの了承はあるが、ノワールが殺人衝動の赴くままに彼を襲った場合、特にそれを教師や軍関係者に見られでもしたら……。
そんなことを考えただけで身震いする。
ブランケットをしっかりと首元で押さえ、フィオネは首を縮こめる。
「今日は冷えるわね」
「…………」
なんだか気まずい沈黙が僅かに舞い降りた気がするも、ノワールならば不思議と居心地の悪さは感じなかった。
「まだ検討段階って言ってたらしいけど、私たち一年生は課外授業がなかったから、代替案として何かやるんじゃないかな」
「ふ〜ん。私はあまり関係なさそうですの」
「というか、ノワは外界に出たことある?」
空気を読まずについて出た言葉に、ノワールは気を悪くするでもなく遠くを見ながら口を開く。
「あるにはあるの。気になるのはAレート級の魔物を殺したことがないってことぐらいですの。あまり楽しそうじゃないけど。血はやっぱり赤じゃないと」
「——! そういえば、魔物の血って何色なの?」
「血の色に興味が出てきた? でも残念、あなたは闇系統でも私とは違う側だから」
ニヤリと口角を持ち上げたノワールは、人の悪い笑みでフィオネを値踏みする。
「知ってるわよ。ノワは精神干渉を得意とするんでしょ」
「分かられるのも、仕事上癪に触りますの」
「以前、ロキ先輩が教えてくれました」
「あのチビ」
爪を噛む仕草で、ノワールは眉間に深い皺を築いた。
だが、単純過ぎる分析は同時に、ノワールの魔法特性について全てを明かしてはいないようだ。精神に干渉する魔法は特定の条件が必要なこともあり、ノワールのとっておきであると同時に手数は多くない。
【黄泉の黒蓮】などは手間も時間も掛かる。
「まあ、いいですの。あなたも一度人を殺めてみるといいですの」
「——!! 嫌だッ!」
キッパリと断固として拒絶する。
こんなやり取りも何回か行われているが、フィオネの気は一生変わらないだろう。
が、ノワールは決して闇系統の魔法体系が人を殺傷するのに、適した系統であるとは口に出さなかった。
女子寮が見えてきた時、フィオネの視線の先で巡回している女警備員が飛び込んできた。
大きなシルエットは人の、というより筋肉の発達具合が強調されている。ライトを持つ手は握り潰さんばかりにその小さな取手を掴んでいた。
「ヤバッ!!」
「じゃあ、フィオネさん、私はお先に——」
やけに丁寧なセリフの後、ノワールはフィオネの視界から消え、一瞬で女子寮の塀を越えていってしまった。
物音一つさせない辺り、改めて感心させられる体捌きぶりだが……それどころではない。
「ちょっとあなた」
そんな叩きつけられるような低めの声で呼び掛けられたフィオネは、ガクリと肩を落として、投降するように諸手を挙げた。正直者は馬鹿をみる。この場合は、要らぬ心配で馬鹿を見たわけだが。
ともかくフィオネは恨めしそうに、塀の向こう側に目をやった。
すると——。
「魔物の血は汚らしい緑ですよ、フィオネさん」
小馬鹿にした声が返ってくる。
そのすぐ後、フィオネは女警備員に連行され、寮長——現在は代役——に報告され、反省文などなどの罰則が科されるのであった。




