観察者I
♢ ♢ ♢
その日の夜はよく冷えた。
学内にある女子寮の中は温かいのだが、夜がふけるにつれて暗闇は一層濃くなる。バベルの防護壁が取り払われた、ということを実感するのに、この寒暖差は最適なのだろう。
これまでは過ごしやすい気温調整がなされ、時折の変な気候も人為的であったはずだ。だから、こう寒さが厳しい季節はそれだけで自然というものの、抗い難さを思い知らされる。
まぁ、それはそれとして、奇しくも順応してしまっているのも確かだった。
いざ寒さが続くと、これが普通な気がしてくるというもの。
「今日は月が隠れちゃったかな」
深夜に差し掛かってようやく寝ようかという頃になって、ふと外を見た。
暗めの群青色をした髪は、お風呂の後ということもあって、いつもの片側お団子スタイルではなく、長髪を下ろしている状態であった。
自室とはいっても女子寮は基本的に共同部屋なので、何もかもが自分のペースで決まるわけではない。相方の方はすでに就寝済みであり、部屋は小さな明かりが灯るだけだった。
だから、月明かりがあると何かと助かる場面も少なくないのだ。
そろそろ自分も寝ようかとカーテンを閉めに窓際に寄った時。
(あれって……。というかこんな遅くまで仕事なんて)
女子寮に向かってくる同級生を認めて、フィオネは深い憂慮を感じた。そして外に見える灰色の髪をした少女、ノワールに対して複雑な溜息が漏れる。
彼女の仕事について、詳細は知らないまでも人を殺めていると、以前ノワール自身から聞いたことがある。だから必要であろうと、それをすんなり受け入れることができなかった。
ただ、それでもノワールは学友だ。面倒係という側面もあるが、同じ系統で、一時悩んでいた時に助言をもらったこともあった。
そんな経緯から今のフィオネは少なからず、彼女を友達だと認識している。相手の方は、あからさまに嫌な顔をするだろうが。
以前よりもノワールの素行を気に掛けるようになったのは確かだ。
(珍しいかも。ノワがここまで遅くに帰って来るなんて)
そう、ノワールの仕事は知らないが、それでも彼女は女子寮の門限に間に合うように帰宅する。遅くなっても日を跨ぐというのは自分が知っているだけでも初めてではないか。
「——!!」
彼女が玄関口に向かって行く姿を「おかえり」と呟いて、見送るも……ノワールはあろうことか弾かれたように背後を振り返って足を止めてしまった。
踵を返して二、三歩戻ると、遠くを見るように目を細める。
「何やってるのよ!?」と口をつくや否や、ノワールは小走りで女子寮とは別の方向へと行ってしまった。
そんな姿を見てしまった時、すでにフィオネは部屋のドアへと向かっていた。椅子にかけたブランケットを肩に羽織って、そっと廊下を覗き込むように顔だけを出す。
さすがにこの時間帯は上級生の見回りもなかった。
上級生はもちろん、人っ子一人影がない。ちょっと不気味な雰囲気もあるが、物音を立てずにフィオネはドアを閉める。
彼女は素朴な風合いのパジャマのままで外を目指した。
馬鹿正直に正面玄関から出たら、強面の女警備員に捕まってしまう。そもそも警備の目は外からの珍客——不埒者——に対しての警戒であり、内側から外へはあまり警戒していないのだ。それも優等生であるという前提で成り立っているのだが。
普通ならばこんな夜更けに外出できるはずがないし、女子寮を囲う高い塀を越えるにしても一筋縄ではいかない。
夜の巡回が時間を置いているのは、塀にあるセキュリティのおかげだ。
その中でも魔力感知が厄介だった。
しかしながら、フィオネは女子寮の横へと向かい、塀に残った痕跡を見て「ここね」と頷く。
ノワールが門限を過ぎて帰って来た時に良く使う抜け道だ。
通常ならば、常人には難しいルート。当然壁に穴が空いているなどの単純なことはない。
壁にある微かな窪み、反対側の女子寮側の壁にもいくつか足跡らしいものが残っている。
「あとは、この変な取手? だよね」
点検口の取手がかなり高い位置に置かれている。指一本引っ掛けられるかといった具合だ。何より塀の上にある有刺鉄線が少しだけ歪んでいた。
ちょうど足を一本分乗せられるスペースはあるのだろう。ノワールが普段どのようにして、ここを使っているのかを想像する。
ノワールは主に外から内に入ってくるが、中から外に出る時もある。しかし、それも多くはない。
ルートを確認するとフォオネは膝を少し曲げて壁を蹴り、点検口に手を伸ばす。塀と背中合わせになるが、ここでも塀の壁を勢いよく蹴り、空中で反転した。
逆さになって足の膝までが塀の天辺を越える。
そこで手を離し、勢いのままに塀を越えた。なんとかして体勢を整えると、塀の上部、僅かなスペースに着地した。
「ふぅ〜、なんとか登れた。指が痛いし、これはノワに一言いわなきゃね」
ブランケットを首の前で押さえ直し、フィオネは塀を突破した。
ノワールの後を追って、彼女も小走りで駆け出す。夜も濃くなって、女子寮の明かりも遠ざかっていく。
月が隠れてしまっているだけで、こんなにも暗くなるとさすがのフィオネも足が竦みそうになった。
女の子が一人で、深夜に出歩くなど危険極まりない。
そんな近所の年寄りのようなことを考えて、フィオネは暗がりの恐怖を紛らわせていた。
「ノワ〜、ノワ〜。どこにいるの〜」
か細く呼び掛けるフィオネは、自分が辺鄙な所まで来てしまったのではと感じる。同じ学院の敷地内でも、こんなところに来る生徒はほぼ皆無に等しいはずだ。
木々が密集しており、学院も整地に手をつけていない。用事などまずないような、場所だった。
ある意味では景観用とでも言うのだろうか。
もう最後の街灯を無視して、歩道から逸れたのは結構前のことだった。
見つからないノワールにだんだんと心細くなる。ブランケットを掴む手が縮こまるように、フィオネの肩を包んでいた。
木々の中へと入っていくノワールの背中を、見てしまったのが運の尽きだったのだろう。
おそらく普通の女生徒ならば、こんな深夜にたとえ用事があろうと怖くて一人で出歩くなど無理だ。
その意味で言えばフィオネは度胸があるのかもしれない。
ただ、すでに考えもなしに女子寮を飛び出したことを後悔し始めていたのはいうまでもなかった。
「——嘘でしょ!!」
木々がざわめいた気がした直後、おかしなことに今度は怖いほどの静けさがフィオネを襲った。
咄嗟に考えたのは幽霊の存在だった。
「あ〜あ〜……………」
恐怖を紛らわせるためか、フィオネがとったのは歌を歌うことだった。孤児院時代の子守唄のようなものを埃を被った記憶の引き出しから引っ張り出す。
震えながら、声を張って、音程を外して……猛獣を遠ざけるかのように歌った。
ここに人間様がいますよー、と主張する歌はもはや歌の体すら為していなかったのだろう。
そんな時、さらに視界の奥で何かが揺れる気配があった。
不気味に揺れては消える。真っ暗な夜の陰とは違い、それはおそらく……。
「ひっ!? 嫌あああああぁぁ……!! 食べないで、美味しくない、美味しくない」
全力で走った。
もうどっちに向かったのかすらわからない中で、フィオネは「もう帰るうぅぅ」と叫びながら真っ暗な中を進んでいく。
するとまたしても横合いから、ザザザッと不気味な葉擦れの音が耳をそば立たせる。
直後、フィオネは手首を力強く引っ張られて、倒れてしまった。
「静かにした方がいいですよ、フィオネ」
「ノ、ノ、ノワァァァ……」
「くっ付くな。それとブランケットに血が付くけど、いいんですの?」
「えっ……!?」
フィオネは気を取り直して、目を凝らす。暗さに目が慣れてくるとノワールの状態を確認できた。確かに彼女の服は血を吸っていた。真っ赤というほどではないが、その染みは赤黒い。
幸い臭いはしなかったが、おそらく人の血であろうことは、ノワールの仕事上容易に想像できる。
空咳を挟むような間を置くと同時に、フィオネは彼女から気持ち離れた。
「そ、それはそうとなんで女子寮に真っ直ぐ帰らないのよ!」
「それがあなたとどんな関係があるんですの?」
確かに言われれば過干渉な気がするし、心配だったと素直に言ってあげるのも気が引ける。
「い、イイから。もう帰ろ。危ないからさ」
周囲を見回したフィオネはゾクリと背中が粟立つ感覚を覚える。暗い、見えない、というのはそれだけで恐怖心を掻き立てる。確認できないことの不安感は、容易に想像を悪い方へと掻き立てるのだ。
けれど、それだけじゃない。
ノワールが顔を戻し、茂みの奥の方へと視線を飛ばした。それに釣られながら、ある種怖いものの見たさでフィオネも目を凝らす。
二人して屈みながら、並ぶ姿はさながら覗きをしているような気もするが。
「誰かいる?」
微かなシルエットを確認できたのは、フィオネの純粋な視力の良さからだった。
問いかけながらノワールの顔を窺うと、彼女は今にも飛び出して行ってしまいそうなほど体重を腕に乗っけていた。
暗闇の中で、目を細めてそのシルエットと微かに風で巻き上がった髪を見て、フィオネは息を呑んだ。




