恋色エンプティー
「気付いていたのですか!」
俯いたフェリネラの顔が羞恥から再び赤みを帯びていく。月光を浴びて、なお妖艶さが増した姿だった。
彼女が聞き耳を立てていたことについては、おそらくヴィザイストも気づいていたはずだ。だからこれ見よがしに話を振ったのだろう。
つまり、フェリネラの言いたいことはヴィザイストの悪態ではなく、そもそもの結婚についてだ。旧制度ではあるが歴然と受け継がれている風習、のようなもの。勝手に親が決めてしまうというのは貴族にとっては当然なのだろう。
ただヴィザイストは絵に描いたような貴族とは懸け離れている気がしたため、驚いたのは確かだ。
「まあ、聞いていた通りだ」
「もちろん、突然のお話でわかっていたことなんです。ただ父がこういうのは早いほうがいいと……」
アルスはその元凶の性格を思い起こす。
「まぁ、ヴィザイスト卿ならそう言いそうだな」
「ご迷惑でしたよね」
恐る恐るといった感じの心苦しい言葉。謝意とも取れる声音だった。
「いや、いずれは避けて通れないからな、考える良い機会だった」
そんな機会はこの先訪れないだろうから。
その言葉にフェリネラは少しだけ胸を撫で下ろす。そして訂正を加えた。
「その……父の一存だけの話ではないのです」
ヴィザイストの口ぶりでもそうだろうと当りは付けていた。
しかしアルス自身、軍にいた頃もそうだが、その手の浮ついた経験がない。
それも周りは大人ばかりで、アルスもまた少年だ。あればあったで逆に問題というものだ。だからなんと言えばいいのか窮していた。
「気持ち悪いですよね。数回会っただけで……恋慕するなんて」
「……そういうものじゃないのか?」
色恋の感情などアルスにわかるはずがない。何が普通なのかすらよくわかっていないのだ。
ただ一つ言えるとすれば、これを学院の男子生徒が聞いたら卒倒しそうだということ。
思いもよらなかったのだろう。フェリネラは瞠目して少しずつ柔和な顔になっていった。
「どうでしょう?」
「…………」
今にもクスッと笑い出しそうな調子だ。
反問されたアルスは馬鹿にされた気しかしなかったが、いつものフェリネラに戻ってくれたことを考えると、あながちそうでもないのだろう。
「では父の言葉通りに……籠絡しても構いませんか?」
籠絡という言葉ほど積極的な性格でないことを自覚したのか、恥ずかしそうに紡がれた。
「やってみればいい」
当然アルスも言葉通り、堅牢な要塞を以て待ち構えるだけのこと。
そこで本当に問題を解消するまではその気がないと拒絶したりはしなかった。
フェリネラの知らない秘密をアルスは抱え過ぎている。堅牢は絶対に崩れない自信あってこそだ。
雑木林を抜け、中層と富裕層を繋ぐ道路へ出ると、フェリネラは次々に質問を投下してきた。
好きな食べ物、好きなこと、どういった時に休まるのか、戦闘漬けのアルスの経歴を知っているからか、それ以外にも任務での苦悩や功績を聞いてくるのだ。
途中からアルスもうんざりしたが、律儀に全て答えた。秘匿とされる以外は隠す必要がないのも事実なのだから。
サークルポートのある中層街に着くと、二人で転移門へと向かう――そんな時。
「どんな女性が好みですか?」
思い切った質問はフェリネラがやっとのことで紡ぎ出した言葉だった。
転移門へと踏み入れた二人は移転先を指定、足元に魔法陣が浮かび上がり、一度全身の情報を複写する。
そして転移が始まる直前――
「役に立つ女だ」
「……!!」
熟考の末ではない。少ない知識の結果出た答え。
アルスは正面を向いたままで、それを聞いたフェリネラの顔がどういったものだったのかは見ていない。
淡い光の中でフェリネラは口を孤に作っていた。自分でアプローチをかけなければ彼をものにすることはできないだろうと。
きっと、会わなければずっとそのままの可能性も考えられる。
何をすればいいのかなんてわからなかった。一つ言えることは動かなければ何一つ変わらない。
父の力で結婚しても愛されない結婚ほど辛いものもないだろう。さらに言えば、この気持ちが冷めずに愛せない男にくっつけさせられるほど残酷なことはない。
貴族にはありがちな話だ、まだヴィザイストは凝り固まった慣習に囚われないのが救いだろう。
ならばフェリネラがすることは案外単純なのかもしない。想いの灯が続く限り、恋を愛に変え続けることだ。
♢ ♢ ♢
翌日、アルスの研究室に訪れた者はいなかった。もちろん休校の通達のせいでもある。陽が照らし出す清々しい陽気だというのに疲労からか寝ているのだろう。
無論、アルスとてこれに漏れない。肉体的な疲れよりアリスにヒヤヒヤさせられた精神的なものが要因なわけだが。
だからというわけではないが一番働いたはずのアルスは僅かな睡眠の後、いつも通り研究に没頭していた。ロキもぐっすりで多少の物音では起きないことは実証されている。
というのも自分で紅茶を入れようとした際、残念ながらカップが犠牲になった。甲高い破砕音、それで起きないのだから日頃の疲れも一緒に押し寄せていることだろう。
誰も来ないから今日一日研究という至高の日になる……ことはない。端的に言えば予定があるのだ。
夕方頃になってもロキが起きてこないため、書置きをして研究室を出た。
向かう先は女子寮だ。
男子生徒がアポイントなしで通れるはずもないのは当然である。というかよっぽどでもない限り入るのは難しい。ちゃんとした手続きを踏まなければ立ち入れない禁制区だ。
個人認証などあってないようなもの、翳したところで性別が男というだけで拒絶のエラー音が鳴るだけの話なのだ。
おそらく二番煎じだろう愚かなことをアルスはしない。
受付前の認証機器の手前でアルスを出迎えたのはフェリネラだ。
「おはようございます」
すでに夕方なのだが、清々しい蠱惑的な笑みは昼夜を勘違いしそうだった。
「おはよう。起こしてしまったか?」
事前に連絡を入れたおいたときは寝起きの印象を受けなかったのだが、いや、今も寝起きにしては身なりが整い過ぎている気が……。
とアルスが考えながら、フェリネラの全身を見ていた。
「いえ、不摂生な生活はできない体質でして」
本当に貴族らしいなと思ってしまうのだった。貴族とは言わずとも学生の模範と言うべきだろう。
フェリネラはマスターキーのようなカードを取り出すと内側から翳した。
入場の許可が下りたのを青いランプが知らせる。「どうぞ」と促したフェリネラ。
アルスでなければ満を持してと形容するべきなのだろう。
もちろん寮内には女性徒の数もまばらだがある。すれ違う女性徒たちに白い目で見られないのもフェリネラあってだ。それでも奇異な眼差し――――相当図太くなければ、その視線も犯罪者を見るものに変わって見える――――に晒されるのはいつものことだ。
アルスがわざわざ女子寮まで足を運んだのは当然わけあってこと。
もちろんアリスに用があるのだが。
「ふぁ~い」
可愛らしいチャイム音を鳴らしてから、少し経つと、欠伸と勘違いしそうな間延びした声が中から聞こえ、同時にドアが開かれた。
「どちら……さ……ま!!!」
もちろん用があるのはアルスなのだから扉を開けた真正面に男性が立っているという女子寮ではまずありえない光景なわけだ。
こちらは貴族なのに明らかな寝起きで寝癖がピョンピョン跳ねている。そしてこの膝上までのネグリジェ。
透け透けというほどではないにしろ生地は薄く、体のラインが分かるほどではあった。何にしろ扇情的な格好なのは確かだ。
「ちょ、えっ!」
自分の格好を見下ろしたテスフィアは隠すという手段には出ず、真っ先に相手を昏倒させる強硬にでた。
「この変態ッ!!!」
鋭く腰の入った拳がアルスの眼前に迫る。
これを受けてやるのが男なわけだ。非を認めるのが男なのだが。
「――――!!」
しかし、そんなポリシーを持ち合わせていないアルスは掌で難なく受け止めた。
「うるさい、今日はお前じゃなくてアリスに用があるんだ」
とその間もアルスは手を握ったままなわけで、羞恥に耐えかねたテスフィアが悶えるようにネグリジェを掴んで足を擦り寄せていた。
「アルスさん……!?」
やんわりと隣でフェリネラが指摘する。手を離すとキリッと睨みつけたテスフィアは凄まじい勢いでドアを閉めた。
中でドタドタと荒々しい物音がする。
「フィア、壊さないでよ。怒られるのは私なんだから」
もうっ、とフェリネラが呆れ混じりにため息を溢す。
「アルスさんももう少し、女心というものをわかっていただかないと」
「そういうものか」
(これは苦労しそうですね)
珍しく考えを改めるアルスは眉間に皺を寄せて唸った。
そんな姿を横目で確認したフェリネラは思い付いたように少しだけ口角を持ち上げる。
(でも、今のは使えるかも)
と一人だけ別のことを考えていたフェリネラだった。何だかんだで籠絡の準備は着々と進んでいたのだ。
そして待つこと30分、
「お前ら、俺を待たせるとは上等だな」
「突然きたのはそっちでしょ」
特段小奇麗にしたというわけでもなく、いつも通りの二人。
「3分もあれば十分だろうが」
隣でこめかみを押しているフェリネラ。
「そして俺が呼んだのはアリスでお前じゃない」
「アリスと私はセットなの、変質者紛いのことをしておいて一人だけで送り出せないでしょうが」
それを言われるとアルスとしては反論できても周囲で窺い見る生徒たちの間で間違いなく変な噂が流れる。
仕方なく救援要請を出すための目配せをし、隣の寮長殿へと託す。
「フィア、私がお連れしたのよ。それに自分の部屋だからといって貴族の名に恥じない格好を心掛けなくてはいけません。それに確認もなしに開けたあなたにも非があるのではないの?」
「で……ですけど」
「ですけど?」
これが貴族だ。いや、こっちが貴族だとアルスは頷いた。
一応納得してもらったところで。
「アリス、じゃ行くか」
「えっ! どこに?」
その問いはアリスだけでなく、テスフィアもフェリネラも同様の顔を作った。
「それを言いなさい。それになんでアリスだけなのよ……私は?」
ギュッとアリスを抱きかかえたテスフィアは小柄なせいか駄々をこねる子供のようだ。
いや、あながち間違ってはいない。
「お前は関係ない。隠すようなものでもないが、ここでは話せないなさすがに」
「あがる?」
アリスが提案するが、それを止めたのはやはりテスフィアだった。
「アリス本気?」
「だって聞けないと話が進まないじゃん」
まったくもって正論だ。しかし、アリスには事前に話しているのだ。この少女はそれを忘れている。
呆れ顔でフェリネラが正論の矛を振りかざす。
「フィア、あなたが言い出したことでしょ? それとも見られたらまずいものでも……」
「無い……無いけど、ちょっと待って――!」
焦りと冷や汗のような冷たい感覚に襲われたテスフィアは言い終わると同時に扉を乱暴に閉め、部屋へと戻って行った。
そしてまたしても荒々しい音が外まで聞こえる始末だ。
フェリネラは「あらあら」と他人事のように微苦笑を浮かべ、アリスは「普段から綺麗にしなって言ってるのに」とこちらも似たような顔をする。
アルスとしては聞かれたらまずい内容なだけで、長話をするほどのことでもないのだが。
「埒があかんな」
すでに30分も待たされた後だ。これ以上は待てなかった。
「入るぞ」
「ちょ、アル!」
アリスの制止はおかまいなしにドアを開ける。
「ははっ……」
フェリネラはただ苦悩の声を上げただけだった。
白を基調とした壁紙、そして二人で住んでいるにしても広い部屋だ。
所々に女の子らしい色が目に付く。
「まだ……ちょっ! 入るなぁ~」
「俺は気にしないぞ、お前がだらしない生活をしてるのは予想通りだしな」
「うるさい!!」
一度踏み入れると後に二人も続いた。その先で荒い息を上げたテスフィアが出迎える。
「信じられない!」
「こっちは時間が押してるんだ。30分も待たされたおかげでな」
アリスもため息をつくとリビングへと勧める。
「しょうがないね」
「フィア、諦めなさい自業自得よ」
「フェリさんまで……」
諦めの境地だろう。
アルスは仄かな甘い香りに覚えがあった。
「最近俺の研究室で甘い香りがするなと思ってたらお前らか」
「ギャ~嗅ぐなぁ」
テスフィアがアルスの呼吸を止めに掛かるが、またしても両腕をあっさりと掴まれてしまう。
「無理を言うな」
「本当、良い香りね」
フェリネラも続いて鼻をひくつかせた。
他愛ないやり取りも長引かせれば、ろくな変貌を遂げないものだ。
勧められた円卓を囲むように座る。
いや――
「おい、なんつう扱いだ」
椅子が3つ、言い争っていたアルスは順番で言うと最後になった。当然空きはない。
もちろんアルスは言葉ほど憤慨しているわけではなかった。ただ、労力に見合わない対応なのは違いない。対応というほど故意ではないので、そこに悪意は存在しないのだが。
「ア、アル……」
と落ち着きを取り戻したテスフィアが腰を浮かせた。今回の件ではアルスに多大な負荷を与えた自覚からだろうか。
だとすれば少しは甲斐もあったのかもしれない。
しかし、テスフィアが腰を少し浮かせた瞬間――。
「アルスさん、半分どうぞ」
ずれて勧めるフェリネラ。機先を制しておきながら羞恥に視線が彷徨っている。
どう考えても逆に疲れる。すぐに「俺はいいから、お前が座れ」と断った、つもりだったが、紳士的な対応にフェリネラの時間が一瞬止まるのだった。
アリスがお茶を出そうと慌てて立ち上ったが、それほど長くならないため遠慮する。
時間を確認すると、余裕を持っていたとはいえ頭が痛い誤算だった。
「さて、アリスには俺と一緒に軍本部まで行って総督に会ってもらう。もう約束は取り付けてあるから」
「あっ!」
思い出したのだろうアリスが頓狂な声を上げた。
「そんな偉い人になんでアリスが」
「黙秘を強制することになるが、構わないならアリスから聞け」
面倒になってきたというのが本音だ。他言はアリスの不利益になるだけなのだからまずテスフィアが口を滑らせることはないだろう。
「私もいいでしょうか」
「構わない」
すでに軍務で似たことをしているフェリネラは黙秘の重さを理解しているはずだ。
「私も行く」
「うるさい」
一蹴するのは容易だが、それで引き下がらないのがこの少女の厄介な性質。
「私もフィアがいたほうが緊張しないで助かるんだけど」
約束とは言っても細かいことまでは伝えていないので、何人連れて行こうが齟齬ということはない。
「いや、こいつを連れて行くとうるさくなるからな」
直情タイプのテスフィアは意に沿わないと誰が相手だろうと噛み付くことをアルスは身を以て体験している。
「子供扱いしないでくれる?」
「今回はアリスのことだから、アリスが良いと言うならば構わんが……頼むから人目を引くような真似はするなよ」
何かを勝ち取ったように小さく拳を掲げるテスフィアに早くも不安を覚えるのだった。
「フェリはどうする? こうなったら何人連れて行こうが変わりないけど」
「残念ですが私は遠慮しておきます。まだ仕事が残ってますので」
「そうか」
仕事と言う辺り、生半可な気持ちでないのが窺えるというものだ。
「そうだフェリ、終わったら俺のところにも報告書を持ってきてくれ」
事後処理と言うほど大袈裟なものではなく、ヴィザイストの補佐をするのだろう。
それでもアルスに頼まれれば簡単に笑みを浮かべてしまうのだ。
「はい!」
ちょうど時間になったことを確認すると。
「そろそろ行かないとな、何を言われるかわかったもんじゃない」
「えっ――! もう? ……この格好はまずいよね?」
テスフィアが自分の身なりを確認して不安そうに尋ねる。装いとしては上流階級の社交場でもないかぎりは不自然のない格好だ。現在のドレスコードに照らしても清潔感がある、のだが、軍というお堅いイメージの場で相応しいかと言うことだろう。
アルスからしてみればそんなことを気にしたことが無かったのだから、何でも良いと思うのはある意味では自然なことなのだ。
アルスは普段着というには少し堅い格好だ。黒のカラーが多いモノトーンでまとめた装いで、単純に軍で支給された衣類を着ているだけなのだから、おしゃれというには味気ない。
貴族であるテスフィアが外聞を気にするのは仕方のないことなのかもしれない。だからこの場合はアリスにも共通する格好を提示してみる。
「それで構わんだろ。いやなら制服にでも着替えろ」
これでまた時間を取られたら本当に小言を言われかねない。