不安の先の不覚
一先ずは、と前置きをしつつ最悪の事態が回避されていることに安堵を覚える。
おそらく二、三日ほど通常通り授業を受けていたら、自分が何を探っていたのかわからなくなっているのかもしれない。
アルスにとっては若輩臭が鼻につく程度のことだったのだ。要は普段と変化はない。
学院に来てからこれほど周囲を警戒したことはなかったかもしれない。アルスの空気を読む感知レベルは残念ながら低いと言わざるを得ない。
普通に会話できる間柄ならともかく、常識の欠如は著しいままだ。訂正されないままのアルスにとって知らないとはいわば、赤の他人、路傍の石、言葉を介さない虫に近い。
意識の排除リストに組み込まれてしまっている。
そうはいってもなかなかどうして、いざ絶妙なタイミングに身を置くと見えてくるものがある。
あらゆるものが重なり合致した、運命の交差路の中心に立つと物事が多角的に見えてくるものだ。
軍が任務の詳細を公表しないように、市井に隠してきたことの代償に平和を約束した。これは一方的な約束だが、多勢の国民は信じて疑わないだろう。
日々の稼ぎが税として徴収され、その使い道は透明性をもって明確化されている。
(貴族は野心家が多いイメージがあるからなー。学院はともかく、軍部に少しは亀裂が入るかもな)
軍の活動を中で見てきた者達も結局は大勢に靡く。
亀裂で済めば御の字……亀裂で済まなければ。
眉間に皺を作ったアルスは、ため息すら出ない想像を膨らませて、いない神に願ってみた。
「俺には関係のないことであってくれれば助かるんだが」
アルスのそんな愚痴をロキが見逃すはずもなく。
「心境の変化でも?」
「なんだそれ? まあ、心境云々の前にいろいろ変わってきているのは確かだな。俺も……お前も。この学院でさえ変化を受け入れなければならない」
「そうですね」と小さく微笑んだロキはスッとアルスを追い越していく。髪が大きく跳ねて、銀色の粒子を舞わせるような幻想的な光景を早朝の廊下に作り出した。
今、この瞬間を絵にすることができれば、最高級の額縁に飾っておくのも悪くないのだろう。
「良い変化ですよ」と相好を崩すロキであった。
「良い変化、か。そうであれば良いのだろうが、学院に関しては教員達は多忙に晒されるだろうな」
「と言っても今はそういう話ではないのですが。それはそうと以前のアルなら『俺は関係ない』とキッパリ言い切ったはずです」
ロキは人差し指で自分の目尻をクイッと持ち上げて吊り目を作った。アルスの目つきの悪さを訴えているのだが、残念ながらそこまで人相は悪くないとアルスは思っている。
「……そうなることを願ってる。だけど、真面目に言ってのんびりし過ぎると国が壊れる」
神妙なニュアンスで告げるアルスは、盛大なため息を吐いて歩を進める。
自分の研究、いや如何に画期的な研究をしたとしても一世紀近く続く魔物との戦況を覆すことはできない。
もはや自分が戦場に戻らざるを得ないことをどこかで確信してしまったのだ。
誰かに命令されたわけではないが、そうせざるを得ない。やむを得ない理由故に。
「アル、それでなのですけど……授業は」
「もちろん出るさ」
嫌々ではあるが、せっかく登校したのだから学生の本分は全うしたい。こうした危機的状況を知ればこそ普段通りに。
無論、世間的に見ればそれどころではないのだが、逆に今だからこそ仮初の平和に身を窶すというのも贅沢な時間の使い方なのかもしれなかった。
試験前日に遊びに行くような背徳感があったのだが、その感覚を抱くのはアルスにとって数えるほどしかなかった。当然の事ながら学院の生徒が抱く小粒ほどの背徳感ではなく、アルファや延いては魔法師にとって大きな転換期の予感があってなお……。
しかし、そんな子供心を経験しようという時に、言い難いようなロキの曖昧な笑みが意味深に向けられた。そして彼女は指を一本立てて。
「言いにくいのですが、教室は……え〜っと、残念ながらここは一階ですよ」
「あ? 間違えた」
「ふふっ、でしょうね。私たちはもう二年生ですよ」
「いや、講義によっては一階の教室を使うこともあるぞ」
「私とアルは全部一緒の講義を取っています。今日の一限目の講義は三階です」
「…………」
二人は一年生から二年生への変わり目にいなかったため、自ら望んで科目を選んだわけではない。通常ならば新学期が始まる最初に自分が取りたい科目・講義を選択する履修期間が設けられている。その中で進級に必要な単位数を満たせば良い。
無論、人気の講義などは定員数が決まっているので、抽選であぶれる場合もある。
アルスとロキはどういう扱いになっているかというと。
定員数に余裕がある講義に割り振られており、幸いにもロキとは全て一緒だ。今更単位取得条件を満たすことに意味はないのだろうが。