捕食の対価
空の彼方。
バベルの防護壁が取り払われ、空気と呼べる物が一層澄んだ。
世界の一部となった証。
冷たさも温かさも風が齎らし、それはまるで多くの香りを運ぶ船のようであった。
適温を無視して、否応なく世界の姿を晒し出す。
目のゴミが取り払われたかのように、透明度が増したかのように、空を見渡すことができた。
リンネは背筋が凍りつくのを強く感じた。その戦慄は背中を刃物で薄く裂かれたように鋭く走った。冷たく、そして……痛い。
固まるリンネは、少女の不気味過ぎる双眸から目を離せない。ラティファの顔が逸れて前方に向くまで続いた。
永劫に続くかと思われた呪縛から解放された気分だ。
そして、リンネも顔をラティファの視線を追って傾ける。
ようやく現実へと引き戻されたかと思えば、今度は遠方に光点が浮かぶ。
「速い!」
魔眼で確認した時はここからだいぶ離れていたはずだ。だが、小さな光点は一分足らずでここに着弾する。
そう、この場所に。
場所は7カ国——生存圏内だと思われたが、ここに至ってリンネは魔法の照準がこの協会本部であることを確信した。
高出力の魔法は、周囲数キロにまで被害が及ぶだろう。
直に警報が7カ国全土に響き渡るはずだ。無論、その頃には街という街は壊滅しているのだろう。
各国軍部はこういう事態を想定していなかったわけではない。
しかし、あまりにも突然過ぎたために、どこにも対処法がないのだ。バベルの防護壁が崇高であり続けたのは、誰もがそう願ったからではなく、厳然たる事実として人間を守れるだけの機能が備わっていたからだ。
遠目に迫る攻撃にリンネは諦念の籠もったため息を漏らす。あんな物、あんな速度の物を一体誰が止められるのか。
実に馬鹿げた光景だ。
どうせならば、もっと早く滅ぼせばいいものを、と愚痴っぽい感想が胸中に溢れ返った。
人間いう種を、痛めつけ、後悔させながら苦痛を与えるという意味では、このタイミングは効果的だった。
これから魔物を狩り出しに行こうと、各国の意識が統一された矢先にこれでは出鼻を挫くには十分過ぎる。十分過ぎて、もはや魔物に立ち向かう気力さえ今後人類に起きないだろう。
(——!! あれはっ!?)
光線の射線状に展開された障壁魔法は、方角からして頭上を通過するであろうバルメス軍によるものだろうか。まるで紙切れのように抜けていく光の矛に、止める手立ては存在しない。
魔眼で確認するまでもなく、障壁は一秒すら時間を稼げていなかった。
「リンネさん、大体で良いので、方向だけでも教えてください」
「……北東、ちょうどこの方角です」
リンネはすぐさま訂正する。目が見えない少女に方角を示したところで、わかるはずがないのだから。
だから、ラティファの手を取り、人差し指を取った。そのまま指を目標方向へと差し導いた。
「もう一分もせず、この場所に……」
避難しよう、という提案はこの時点で適切ではない。どこに逃げようと一分ではたかが知れている。転移門もおそらく強力な魔力の干渉によって作動しないだろう。
「うん、ありがとうございます。少し離れていてください」
「…………」
言われるがまま、無言でリンネは足を引き摺るように下がる。彼女に自分の居場所を知らせるためにあえてそうしたが、ラティファは盲目とはいっても、気配である程度察知することができる。
妙に静寂が色濃く満ち、風さえも凪いだようだった。
同時に音が消失した。リンネがそう感じた直後、足下で黒い霧が蠢いているのに気づく。
(音を食べた!!)
キーンッとする耳鳴りは気圧の変化を示し、咄嗟に口を開けて耳抜きを試みる。
無論、それでよくなったわけではないが、霧が上空に昇っていくにつれ耳鳴りは止んだ。
「食べていいよ」
「——!!」
不穏な声は、さらりとラティファの口から紡がれた。
直後、ラティファの目から薄墨色の霧が溢れ出す。涙が気化したかのように、その霧は一度足下を這い、足の置き場すらもないほどにテラスを飲み込んでいった。
それどころか、手摺りの隙間から滝のように流れ落ちていった。次第に腰まで飲み込まれ、それでもリンネはこの場所を保持し続けた。
「これは——!」
金色の髪を靡かせながら、ラティファは消え入りそうな声を空に向かって発した。
「どこがいい? どこならいいの? 二つは無理だから、一つだけね」
「な、何をラティファさん」
彼女の独白に対して理解を求めるリンネの声は、得体が知れないことへの恐怖に染まっていた。
まるで突如、知らない言語を喋り出したかのように、ラティファへの恐怖心が芽生えてくる。
「大丈夫だよ、リンネさん……。もう、話し合いは終わったから」
すると光の矛を意に介さない、彼女の微笑みにリンネはそっと手を差し出した。この互いに手を伸ばせば届く距離。その空間に横たわる不穏な気配は、決して容易くない距離だと理解させられる。
直後、ラティファの足下から吹き上がった風が、金色の長髪を空に舞い上げていく。
黒いカーテンの奥で、彼女はその風に浸るように目を閉じていた。
霧の動きはまるで、それそのものに自我があるかのようだった。そう思わせる奇妙な蠢きをして、揺蕩うように昇っていく。
一帯を埋め尽くす黒い霧は、頭上で雲のように広がり、日差しを遮断してしまった。
日食を思わせる陰りが、辺りを夜に沈ませていく。
次に彼女が開いた目蓋の奥には、真っ黒な闇が広がっていた。目として認識できる眼球の丸みや、角膜と瞳孔は認められる。しかし、その双眸は間違いなく人間のそれではなかった。
「魔眼……イーゼフォルエの漆眼」
ポツリと溢したその名称にリンネの顔は一層引き締まる。
そして頭上の真っ黒な雲は一斉に光の矛へと向かう。黒い塊が尾を引きながら、天高く昇り光線を真っ向から迎え撃った。
螺旋状に走る黒い雲は、まるでアルスの【暴食なる捕食者】と似ている。同一ではないが、同等のものであろう。黒い霧状であるなど、似通った点はあった。
しかし、彼が扱うような異能の獰猛性はそこに感じられない。
何故ならば、ラティファが放った死神の力には、獰猛性の象徴たる顎といった形状が存在しなかったからだ。
まるで黒い物体とでも言えば良いのだろうか。
その正体に近いヒントは、光線と衝突した時に明らかになった。
あれは粘性に近いものだ。
霧状とはいうものの、衝突時に見せたのは高エネルギー同士の激しい衝突ではなかった。スライム状に衝撃を緩和した黒い霧は、まるで包み込むように光線を捕らえたのだ。
そして光の尾に沿って凄まじい速度で、包み込みながら発射元へと伸びていく。
光線は空気を焼いた白煙だけを残し、今度は黒い尾が空を割っていった。
「一体何が……吸収した!?」
現象に合理的な理由を与えるとしたらそんなところだろう。過去、アルスの異能を直に見たリンネだからこそそう感じたのかもしれないが。
いずれにせよ、ラティファの攻撃は単純な魔法同士の衝突でも、障壁魔法のように防いだわけでもなかった。
「はぁ、はぁ、はぁ……直に終わる」
荒い呼吸で、ラティファはそれだけを簡潔に伝えた。
彼女の呼吸がカウントダウンのように静けさの中で際立ち、続く緊迫する空気に時間を与えた。
遠くを見つめるラティファは、戻ってきた日差しに目を焼くような痛みに堪えていた。
「食べた」と発した直後、彼女の身体から一気に力が抜けていく。
それだけで何かが終わったことだけは確かなようだった。何事もなかったかのようにリンネも全身の張った糸が緩んだのを感じた。
魔眼で確認しながらだったが、確かにラティファの異能——魔眼は高エネルギー体を消失させた。
しかし、とリンネは再度身体を強張らせる。
そう、この力は間違いなくアルスの“それ”と同じだ。彼の異能は捕食した魔力を自己に取り込む。
当然、彼には長年魔法師としての戦い、積んできた訓練が許容できるだけの器を築いている。膨大な魔力を内包できる器を持っているのだ。
だが、ラティファは別だ。
彼女には今の膨大な魔力を取り入れるだけの許容がない。器がないのだ。
無論、あれほどの膨大な魔力を取り込めるのは、リンネの知っている魔法師の中でもアルスぐらいだろうが。
ハッと我に返り、血の気が引いていく中で、ラティファは目を強く押さえた。
「うッ…………」
膝の力が抜けたように腰を落としたラティファは顔を手で覆いながら、啜り泣いた。見た目通りの少女が発するか弱い声が涙と共に零れ落ちていく。
自重を支えるように強く膝を硬い地面に突いた。
「ラティファさん!!」
「あああああああぁぁぁぁ…………うぐッ」
短い絶叫の後、彼女は声を飲み込むように口を閉ざし、息を止める。ガクリと落ちた首、押さえる手、その隙間から真っ赤な血が滴り落ちる。
蹲ったラティファに寄り添いながら、リンネは即座に患部を診ようと覗き込む。
ゆっくりとラティファの手が目から離れていく。ねっとりと着いた血は彼女の掌を余すことなく染めている。
「…………ッ!!」
「ふふっ…………痛い。痛いよ。目が痛い」
そういうラティファの掌には摘出したように綺麗な状態で眼球が一つ乗っかっていた。
血に染まりながら、眼球は手の上で転がり、そして溢れるようにして落ちた。
思わず、拾い上げようとするリンネはまだ神経を繋げ、最新の治癒魔法技術ならば失わずに済むなどと希望を抱いていたのかもしれない。アルスが片腕を落としたように、また繋ぐことが可能かもしれない。
しかし、そんな淡い期待は、甘い期待は嘲笑うかのように異質な光景を見せる。
ラティファの眼球は内部から喰われるように黒い霧となって消失した。
「クッ!! それよりも今はラティファさんを!」
華奢な身体を抱き抱え、リンネは急いで協会の中へと全力で駆けて行った。




