上司の仲
最初に声を上げたのは逸早く気がついたロキだった。続いてテスフィアとアリス。
アリスは完全に憑き物が落ちたように清々しい微笑を浮かべて出迎えた。
「アルス様、お怪我は……」
「出て行った時と変わらないよ」
呆れた顔で答えるが、ロキが気遣ってくれるのは今に始まったことではない。
だからなのか、このやり取りもあまり蛇足だとは思わなかった。
「せめて止血だけでもさせてください」
ロキとしてはその怪我のことを言っていたのだ。上から窘めるような口調になるのも仕方のないことで、無視することはできないのだろう。
「わかった」
一先ずの仕事を終えたことでアルスは諸手を挙げて身を委ねた。
ロキが自分の戦闘着を袖から一気に裂く。何もそこまでと思った時には後の祭りだ。
「俺のを使えばいいのに」
とローブの端を持ち上げてみせる。作りも簡素で代えはいくらでもあるだろうに。
「いえ、一度床に落としたじゃないですが、黴菌が入ったら大事です。私のは汚れていませんので」
などと言われればアルスには反論する言葉を探し出すことはできなかった。
そしてロキはと言えば甲斐甲斐しく世話をすべきは自分しかいないという自負が駆り立てていた。もちろん、その中にパートナーである自分を差し置いてフェリネラを連れて行ったことへの少なくないフラストレーションがある。
その捌け口として譲れなかったのかもしれない。
傷に触れないようにローブを脱がされる。これも自分で、と、腕を挙げた瞬間にムッとした視線がそれ以上の動作を許さないように力が入った。
手当されるがまま微動だにできなかった状況だ。身体的にも心情的にも。
その間、肩を落としたアルスにぶっきらぼうな声が投げ掛けられる。
「何をしたのよ、ここまで地響きがしたわよ」
それがアルスによるものだと決めてかかるテスフィア。
なまじ当たっているだけに好奇心の光を帯びた瞳が鬱陶しかった。
無論魔法だ、なんて言葉を返すことこそ蛇足だろう。
「…………」
小柄な少女を見返しては見るが、視線を逸らさない。逸らした方が負けだとでも言いたげな土俵だ。
アルスの選択は、打って出る――。
「……それよりも」
ではなかった。土俵に上らずに一先ずの棚上げを以て回避。
「ちょっ――!」
「それよりもアリス……」
肩の辺りを巻かれキュッと結ばれたことで手当は終わり。応急処置程度だったが止血はできたようだ。
アルスは礼を簡単に述べるとアリスのほうへと歩みを進めた。さすがのテスフィアもそれ以上口を挟むことはなかった。
アリスの背後には眼を瞑ったグドマが横たわっている。
「本当によかったのか」
グドマの体にはアルスとの戦闘で負った傷以外見当たらない。つまり、アリスは手を下さずに狂者の最後を見取ったのだろう。
アリスの顔に後悔はない。
「最初は私の手で、って思ってたんだけどそうじゃないのがわかったんだ」
振り返ったアリスがグドマの亡骸を優しげに見下ろした。
「私が許せなかったのは私自身、何もできなかった力のない自分。だからってグドマのやってきたことを許せるわけじゃないんだけど、ここで私が止めを差しても何も変わらないと思う」
淡々と語るアリスの言葉は新しい発見があったかのような喜気があった。
「そうか」
それがアリス自身で決めたことだというならばアルスとしてはただ答えを受け止めるだけだ。
復讐を成功させたとしても何かが変わるわけではない。両親の仇、実験させられた怒り、グドマを殺したことで表面では遂げられる。しかし、アリスの負った傷はそんなことでは決して癒されるものではない。
意味がないとは言わない。憎悪に駆られた結論でなく自分で導き出した答えならばきっと癒しの道であるはずだ。
後は時間と仲間が少しずつ、やり場のない空虚を埋めてくれる。
彼女はグドマの研究があったから親友と出会えたのだ。それは魔法因子の欠損で、悪いことばかりではなかったと言ったアルスの言葉とは違う。
テスフィアとの出会いは間違いなく得難いものだ。本当に悪いことばかりではないとアルスは赤髪の少女を横目で見た。
「よし後は軍に任せて俺らは帰るぞ」
背を向けて、来た道を帰る。誰一人疲れた顔を出す者はいない。これもまた彼女たちが成長するための一助となったことだろう。
今回の任務はまだマシだった、とアルスは安堵する。時には虐殺同然の任務もこなさなければならない時もある。到底彼女たちには見せられる現場ではないのだから良かったのだろう。
テスフィアとロキが先陣を切るように背を向ける。アルスもその後に続き……アリスはもう一度グドマを見ると心配してくれた彼の背中にボソッと溢した。
「それにアルは殺さないで欲しそうな顔してたし」
もしかするとそんなことが理由だったりする。手を下さない選択を提示したのはアルスだ。
アリスとしては返答を期待しない独り言のつもりだった。
しかし――――
「そんな顔してたか?」
そっけない返答は歩いたまま放たれた。含むところがない、自分でも意識してのことではない言葉。
「…………!! してたよぉ、こう悲しそうにねぇ」
軽快に隣まで近づくと、手を後ろ手に組み、腰を折ってアルスの顔を覗き込んだ。
その顔は今にも泣き出しそうな表情を作っている。
「誰が、んな不細工な顔するかっ!」
「不細工って…………もう素直じゃないんだから」
今度は面白可笑しいといった具合に綻んで、クスリと溢す。
それをアルスは不服に思いながら眼を細めた。同時に「そうか」と内心で呟くのだった。
アリスは完全に吹っ切れたようだ。
それがアルスの足取りを軽くしていた。無論本人にその自覚はない。
なにせ、意図してそんな顔をした覚えがないからだ。アリスの見間違いではないかと思うのだった。
それを口に出すような野暮な真似をしないのが彼だ。
これでよかった、と言い切れるほどだ。いっそ浮かれている気さえしてくる。結果よければ全てよしなんて妄言は実際に過程さえも大したことがない場合に言う言葉だ。
しかし、今回ばかりは結果がアリスのこの笑顔であるならば、良しとすべきなのだろう、とアルスはほくそ笑むのだった。
♢ ♢ ♢
本部というには簡素なものだ。ヴィザイストならではとも言える。旧世代を思わせる様相だからだ。
なんと言っても木々の合間にぽつんとテントが設けられている程度である。
周囲を魔法によって迷彩が施されていたのだろう。
ヴィザイストの魔法は現地に赴かなければならない。それでも数kmの範囲をカバーできるため、大規模作戦では彼の右に出るものはいないとさえ囁かれている。
功績は数知れず、貴族の中でも最有力の家系だ。左胸に整然と並ぶ勲章が物語っている。
アルスが幕舎然としたテントの中に踏み入れた時点でおそらく日を跨いだ頃だった。
ロキを引率代わりにテスフィアとアリスを先に帰す、不承不承引き受けてくれた彼女だが、あの不満な顔は何かしらの機嫌取りが必要かもしれないとアルスを頬を引き攣らせた。
正面にヴィザイスト、その向かいにフェリネラがいた。
何か話し合っていたようだ。
それもアルスの来訪によって打ち切られるのだが。
「おぉ~来たか、久しぶりだな」
どっしりと座るヴィザイストは探知魔法で名を馳せているが、実は武道派なのはそのがっちりとした体躯でわかる。50代も半ばなのに未だ衰えることを知らない実力者だ。
若い頃は二桁魔法師として外界で活躍していたと以前に散々自慢されたこともあった。
事実この豪胆な男の現役時代を知る者は探知魔法などと聞けば鼻で笑うだろう。
白髪混じりの灰色短髪はその頃からだ。つまり初めてヴィザイストの部隊に配属されたときは9歳の頃。およそ7年経った今でも変わりない。
実際久しぶりというほど何年も会っていないわけではない。あまり顔を合わせないのは事実だが、暗殺任務に駆り出されるときは大抵ヴィザイストの部隊が諜報活動するのだから間接的には結構な付き合いだ。
「ヴィザイスト卿もお変わりなく」
社交辞令などではなく、本音だ。おそらく今回も被害は最小限に抑えられているのだろう。
外見も然り、その手管も衰えていないはずだ。
「悪かったな、あそこまでの数を揃えられるとは思っていなかった。こっちのミスだ」
「しょうがないかと、禁忌を使った隠蔽では手立てはありませんよ」
「その辺も対策せんとな」
失敗をそのままにしないのがこの男だ。それが禁忌であろうと探り当てる術を見出しそうだ。
「それにしてもべリックの奴め、お前が学院なんぞに通っているなんて知らんかったぞ」
それについてはアルスも苦笑いを浮かべるしかなかった。
べリック総督を呼び捨てにできるのは彼ぐらいだろう。べリックとヴィザイストは旧知の仲らしく、外界で猛威を振るう剛腕ヴィザイストとは打って変わって数々の指揮で功績を残したべリックは昇進を重ねて今の地位にいる。
ヴィザイストは老いとともに前線を退くが、未だ現役にしがみついた結果今の場所に落ち着いたらしい。元々探知に秀でた魔法師だったこともあったが、本人が剛毅な性格なだけに好かなかったらしい。
だから今も絶対の窮地に陥ったら前線に赴く心積もりだったのかもしれない。
「それにしてもお前も大変だな」
「……いろいろと」
すでにフェリネラから多少の経緯を聞いたのだろう。
「失敗してたら……そんなことはありえんか」
「いえ、肝が冷えましたよ」
「ハッハッハ……良い経験をしたな」
皮肉めいた言葉で快活に口を開けて笑う。
「それにしても見違えたな」
「そうですか」
何年も会っていないわけではないのでよくわからない。当然アルスにも自覚はないのだが。
「人間臭くなった」
「……!!」
褒め言葉なのだろうか? 釈然としない。言葉に詰まったのは仕方のないことだった。
「楽しくやってるようで何よりだ。お前が退役を申し出たとべリックに聞いた時は驚いたぞ」
「心配をおかけしました」
そこでヴィザイストは持ち上がっていた頬が降りて、軍人の顔付きに変わる。
「心配なんぞしていない。お前はこっち側の人間だからな」
「…………」
その意味をアルスはすぐに察した。重苦しい空気。厳粛というものではなく、達観されるような圧力だ。見透かした言葉だった。
「俺が必要なだけでしょう。Aレートの進行だけでも今のアルファでは甚大な被害を出すでしょうね」
一拍置いたアルスの冷たい声音は張り詰めた空気を弛緩させた。ヴィザイストとの会話では日常茶飯事だ。
「相変わらず、言いよる」
「お互い様です」
歯を見せて頬を持ち上げたヴィザイストは、
「今回の件は不問だ不問、結果良ければ全てよし、べリックには俺から言っておこう」
「ありがとうございます。ですが、一度総督には会いに行く用がありますので」
「なんだ、またやらかしたのか」
またという謂れもない言いがかりは無視。
「私用ですよ」
それを聞くとつまらなそうに頬杖をついた。そしてそれまで黙っていたフェリネラが口を挟んだ。
「司令本題に……」
アルスはその他人行儀な呼び方にしっかり区別しているんだな、と感心する。逆に頭ではわかっていてもこれを父と呼ぶフェリネラと呼ばれたヴィザイストでは似付かないため違和感しかないのだろうが。
「そうだった。アルス、お前がフェリネラに指示を出したことでグドマの研究が外部に漏れることは阻止できた……できたんだが」
扱いに困るということだろう。
「この研究に内の上層部が興味を持っていてな」
「それは……」
関与を示唆する言葉だ。
「いや、調べは付いている、上は白だ。それでだ、お前から見てこの研究をどう思う」
アルスは逡巡した。全てが無意味だと切って捨てるには惜しい資料だ。光系統の根源的な研究にも役立つはず、
しかし――
「破棄したほうがいいでしょうね。余りに甘美過ぎます」
国の根幹である軍が禁忌に手を出すとは思えないが、惑わすに足る誘惑があるのは確かだった。
「わかった。フェリネラ」
即答だった。ヴィザイストはアルスの研究にも一目置いている。そう指示を出すと可憐な一礼を披露してフェリネラはテントを出た。
おそらく資料を持ち帰ったことを知っているのはこの場の三人だけなのだろう。
アルスとしてはそんなことまでさせているのか、という意外感があった。
べリックが出した任務の達成目標も研究データの抹消が含まれているのだから問題はないだろう。それが外部に漏れることを恐れたからなのか、どの道強すぎる毒であることに違いはない。
「ところでだ……」
突然の切り出し、それが任務と関係の無いことはフェリネラの背中を見送った顔からもわかる。
まさしく一人の親の顔だった。