命の再起
現在治療中の幕舎の前で、イリイスはゾワリと全身の細胞が騒ぎ出すのを感じて足を止めた。
イリイスは自分が化物であることを正確に認識できている。
つまり、彼女が死を意識する心配はないのだ。全身が泡立つほどの恐怖心を彼女に与えられることができるのは、アルスを除けば皆無だった。
強さではなく、実質的に不可能であるが故に彼女の危険感知センサーは壊れたままだ。これが誤報でないならば良いが、しかし、彼女の魔法師として積み上げてきた経験が誤報はあり得ないと訴えかけてくる。
イリイスは首だけを回して、視線を上げる。
そよ風が髪を巻き上げて、視界を良好にしていった。
(——!! 何が起こってるんだ!?)
大きく目を見開いたその視線の先は、遥か上空に向けられている。先ほど光の線が通っていった場所だ。
今も白煙だけを残して、微かに望むことができる光の切れ間が尾のように引かれていた。その様はまるで空にできた亀裂のようだった。
だが、イリイスが見た時——空を割るように走っていた光は、端から侵食されていった。
晴れた日にはまずあるはずもない、暗闇が光を正面から食い潰していく。光を包み込むようにして飲み込んでいった。
凄まじい速度でイリイスの視界の端まで真っ黒な霧が飲み込んでいく。光が放たれた元を辿るかのように、光を逆に侵食していき、ついには鉱床の陰に隠れてしまった。
黒い霧、それは受動的というよりも、能動的に光を飲み込んでいるように見えた。
光からの脅威を取り除く、というより元を辿ることに全力を注いでいるかのようだ。およそ魔法と呼べる代物ではない。
筆舌に尽くせない、人知を超えた事象。説明のつかない災害。
だが……。
だが…………。
イリイスの脳内ではこの不可解な事象に対して、可能とする人物が思い当たる。あれに似た力をイリイスは知っている。直に見たこともある。だからこそ、思い当たる人物へと行き着くことができた。
(もしや……)
その瞳は驚愕というよりも遥かに怒りの感情を反映している。
まるで、空に唾を吐くようなイリイスの表情は、眉間に深い皺を作っていた。
「クソッ、クソッ!? アルス、入るぞ。こっちも状況が二転三転してきた」
♢ ♢ ♢
イリイスが幕舎から出てきたのは、入ってから一時間以上経過してからだった。
全身を濡らすほど汗をかいているアルスは、幕舎から出ると手で扇いで服の中へと風を送り込んでいた。そしてその肩は腕を持ち上げるのですら億劫と言わんばかりに落とされている。
背後にはイリイスが数日は寝ていないような疲労感を湛えた顔で出てきた。入った時と比べたら酷い変わりようだ。
明らかに手伝っていたのは言うまでもない。
恨みがましさはないが、イリイスの片目は微かに痙攣していた。
そして最後に出てきたのは若草色の髪を後ろで結ったフリンである。この中でも特に彼女は、今にも倒れてしまいそうな足取りで、重たい瞼を辛うじて開いているといった様子だった。身体を大きく揺らしており、もはや活力は底を尽いていた。
まだまだこれから詰めていかなければならず、アルスとじっくり膝を突き合わせて治療方針を考えなければならないの、だが……。
「ダメ、すんごい眠い……」
「ゆっくり休んでくれ、フリン」
目を擦るフリンも全力疾走後のような異常な汗をかいている。だが、それにも勝るほどの睡魔が彼女を襲っていた。治癒魔法は神経を擦り減らすという意味において、ありとあらゆる作業のトップに君臨する。
何度も気を失いかけたフリンを労うアルスの言葉は感謝しかない。
「おっと」と倒れそうなフリンに肩を貸し、アルスはそのまま背負う。こんなことぐらい、いくらでも、何時間でも苦にならない。彼女には感謝してもしきれないのだから。
己の腕を繋げただけでもフリンには一生頭が上がらないだろう。
フリンはアルスの背中ですぐに寝息を立てた。服が濡れて気持ち悪いだろうが、そんなことよりも彼女の脳が今すぐにでも休息を必要としているのだろう。
「おい、アルス。私は聞いてないぞ。お前、何をしたのかわかってるのか。いや、もういい」
恨み言をいうイリイスはすぐさま問答を自ら打ち切った。どの道自分でも同じことをした、と感じてしまうのだから責める言葉を続ける意味はない。
中にいるフェリネラ・ソカレントの治療を手伝わされたイリイスは、盛大なため息を溢した。
「何はともあれ、か。しかし、いやいや……ん〜、やめだ、やめだ」
「騒ぐな。何か言いたげだな」
「場所が悪すぎるだろうが。誰かに聞かれたら面倒になるぞ、アルス」
疲れを吹き飛ばすイリイスの鋭い視線に、アルスは目だけを隣に移した。
「面倒なんてあるか。ようやく魔法師らしいことができたんだ。全力を尽くした、こいつも、俺も」
「私もだ」
「あぁ、そうだった。まっ、後は……任せるしかない」
「ここに来て、運任せか」
「運なんかに任せられるか。後はフェリ次第だ」
「それを言うならば、私も力を授けたんだ。繋いでもらわないと困る。お前がそこまでするんだ、大丈夫さ」
イリイスは自棄になったように軽い言葉を投げる。
彼女の言葉は深刻にならず、気が楽になる。手を尽くした後に、手を合わせて祈るなんてアルスには性に合わない。神がいれば別なのかもしれないが、もしいるのならば人類は随分と手痛い仕打ちを受けていることになる。
そんな神など、御免被る。
「撤収するのか?」
唐突にアルスは拠点の様子を見て、そう解釈した。撤収の気配に意外感もあったが、果たしてすぐに撤収できる状態なのかは疑問だ。
「あぁ、それが一番良い。アルス、目的を果たしたんだもう用はないだろ。それとも欲をかくか?」
拠点を維持しつつ、鉱床内部の魔物を壊滅させて、ミスリルを採掘できるよう整備するか。
そう聞かれれば、アルスは「まさか」とわかりきった答えを返す。
これだけシングル魔法師がいて、引き際を誤るなんて馬鹿はしない。理由もない以上、これ以上は予想外の被害を被るだけだと確信的な予感がある。そういうものなのだ。そういう風にできていると言ってもいい。
死ぬまでチキンレースをするようなものだ。
よほどの馬鹿か、死にたがりでもない限りここに留まる意味はない。
あえて留まる理由を探すとすれば。
「だが、実際負傷者もいるぞ。運び出すにも大掛かりになる。休息も無しじゃ、死体の山を築くだけだ。かと言って留まるにしても鉱床内部の魔物は何かと面倒だ」
「私が何も考えていないと思ってるなお前は。転移門もあるから距離的にはそう離れてはいない。それに治癒魔法師部隊は現在も治療にあたっているし、すでに重傷者はフリンが治している。一部残す算段もついてはいるのだが、無理する段階じゃないだろうよ」
「トップはイリイスだから、口出しはしない。フェリを救出できたんだ。それ以上は望まないさ。さて、そこまで急ぐからには何かあったんだろ?」
先ほど上空に一条の光が空を割った。
イリイスが見たままを伝えるにはそれだけで十分だ。しかし、話はそれで終わらない。今度は逆から光を食い潰す闇が空を二分した。まるで光と闇の喧嘩だ。
そして軍配は闇に上がった。
攻性魔法であれば、あの光は周囲数キロを消滅させるだろう。魔法師が生み出せる最高出力を優に超えていた。
更にそれを上回ったのが漆黒の陰だ。それに関しては魔法なのかの区別すら付かない。
加えてイリイスは援軍に駆けつけてくれたシングル魔法師二人に、鉱床とバベルの関連性まで明かした、と伝える。
流石のアルスでもそこについては難色を示した。
ただ、どちらかと言えば面倒事が増えたといった手間に対してだが。
「そうなるだろうな。内部の魔物を見れば一目瞭然だ。気づかない程鈍感だとは端から思ってなかったしな」
「それにだな、シングル魔法師の小娘が面白いことを言っていたぞ」
なんとも周りくどい言い方にアルスは、白い目を向ける。頑なに名前を呼びたくないと言いたげな“小娘”には悪意を感じなくもない。
イリイスからすれば全員小娘か小僧でしかないので、今更とやかく言うつもりはなかった。
「鉱床は実験施設として使われたんじゃないか、とな」
「その発想はなかったな。今となっちゃどっちでも構わんがな」
「同感だが、上の連中はそうはいくまい。それに現場の魔法師とて、事実だったなら鉱床近辺は危険度が増す」
慎重に言葉を選びながらだが、イリイスの言わんとしていることをアルスはその名前で告げた。
「【背反の忌み子】か」
「あれほどの化物がぽっと出てくるというのはな? ましてや鉱床内部の化物は階層毎に必ずSレート級が存在している事実とくれば」
「間違いないな。イリイスが言いたいのはその先だろ?」
「あぁ、デミ・アズールが鉱床の化物だとすれば、何体解き放たれているか」
「あそこまでの化物はそう出てきやしないだろうが、外界で変異する可能性はあるな。正直【悪食】なんてものは手に負えん」
【背反の忌み子】のようなSSレートを好き好んで相手にしたいとは思わないものだ。命にストックがあれば、腕試しも良いのだろうが、人間である以上はそうはいかない。
討伐した本人が言うのも変な話だが、終盤の魔力爆発など洒落にならないレベルだ。
だが、そう、口で言うほど悲観的には聞こえない。
もう一度再戦するようなことがあれば、もう誰も心配させることなく勝てる自信もあった。対策然り、鉱床から帰還したアルスは恐怖とは無縁にも思える高みに昇り詰めていた。
「仮にSレート級の魔物でなくとも、厄介な進化を遂げる個体も出てくるかもな」
鉱床の魔物は通常外界いるタイプと異なる。人間的な部分が少なからず存在する。目的や、欲望。複雑に思考するのではなく、何か一つの感情なりに縛られている節もある。
かなり高度な研究がバベルで行われていた可能性は高い。
アルスの仮説は、バベルで行われた研究の被検体、その廃棄場所が鉱床であるというもの。
廃棄ではなく、それすらも実験であったにせよ、魔物の中の紛い物が、外界に出ればどんな影響が出るかは未知数だ。
現実問題、魔物の総数を把握するは不可能であるため、結局できることは何もないのだが。
だが、そんなこれからの問題をアルスは楽観的に吹き飛ばす。
「今回はこれで良いんじゃないか。これからのことはこれから考えれば良い……お前がな」
「うぉい!」
イリイスのツッコミは先を行くアルスの足を止めるには至らなかった。
虚しく響く歳を積み重ねた少女の声。
短い時間であってもフリンを休ませるべく、アルスは治療用の幕舎が集まる一画に向かう。
だが、その道中。
三人の前には、ファノンとガルギニスが待ち構えていた。エクセレスの姿は見当たらず、二人の前には全身傷だらけのはずのロキが、誰よりも完璧な立ち姿で迎えた。
身体の前で両手を重ねる姿は、一流のメイドもお手上げの立ち姿である。
「お疲れ様でした、アル」
朗らかな笑みを口元に浮かべて、ロキは軽く目を伏せた。
後ろの二人は後々説明しなければならないが、アルスは一先ず結果だけを告げる。おそらくファノンもガルギニスもそれを聞きに来たのだろう。
彼らはそのために力を貸してくれたのだから。穿った見方をするならば、死者を出さず、協会の運用に疑問を持たれずに済む。協会が本格的に始動すれば、軍は防衛に割く人員を減らすことさえもできるだろう。
それでも良い。打算で人助けしようと、助かる人がいるならば、誰も文句は言うまい。
だから彼の知る中で最高クラスの治癒魔法師が、全力を尽くしたその結果を告げる。
「問題ない。フェリの治療は成功だ」
「10巻発売記念スペシャル企画について」
10巻の発売を記念し、アルスの過去編の一部である書きおろしの長編、
『最強魔法師の隠遁計画』外伝『始まりの蒼風』を、ホビージャパン様のWEB小説サイト
「ノベルアップ+」様にて、公式連載枠で3か月限定公開予定です。
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