生命を司る眼
雨が降り始めた。
それはあまりに不吉な前触れとして、しんしんと雨音を運んできた。音がぶつかり、混ざり合う中で、ただただ身構える魔法師達の身体を否応なく濡らしていく。
オーレンは不敵な笑みを貼り付けて、一歩下がった。一歩だけ下がり、彼はそこから一歩も動くことはなかった。
携えている剣に触れもせず、ただただじっと見守っている。
エクセレスもまたそれに習うことしかできなかった。
言われるがまま……ただ何もしないというのは探知魔法師のプライドに障る。
彼女の首元から痣が這い上がってきた時——。
「やめた方がいい。あんたも標的にされるだけだ」
「えッ!?」
振り返ったエクセレスはオーレンの、忠告に耳を傾けて痣を引かせた。彼の目は酷く曖昧で、余計な忠告だったと言いたげだ。決して親切心からではない。
彼の瞳に映る光は、イリイスさえも好敵手としているかのようだったのだから。眼球が雨で濡れても彼は瞬き一つしなかった。
無論、エクセレスも忘れていたわけではない。同行したのは協会会長であるイリイスの力を見極める目的も少なからずあったのだ。
余計なことをしようとしていたのは自分だった。
そう思い改めた直後、エクセレスは息を止めて驚愕に目を限界まで開いていた。
まるで時間と時間の隙間に迷い込んでしまったかのような感覚。今見ている物は脳が誤認したのではと、自分が正気ではないかと疑ってしまうもの。
そう、落ちるはずの雨が空中でピタリと静止していたのだ。
膨大な雨粒が時間を止めてしまったかのように、周囲で滞空している。数えることもできない粒が色を透かして、時を止めた。
(魔法——!?)
降り続ける雨は今ある位置で止まり、上空の雨もまた物理法則を越えて留まっている。
魔法として見れば、この一帯がイリイスの干渉化にあるとわかる。ようやく動くな、という意味がわかってきた。
その矢先——。
エクセレスの眼前、数センチのところにあった三つほどの大粒が微かに揺れる。内部でコポッと小さな気泡が浮いた。そして中心部に胚膜のような白色の膜が生まれ、それが膨張していく。
瞬く間の出来事だった。内部から突き破るような動きが認められると、稚魚のような歪な魚が胚膜を破った。
見たこともない、魚はおよそ生物としての命とは無縁な気がした。
生まれたばかりの魚は小さな雨粒の中を泳ぎ出す。
まるで雨粒が羊水の役割をしていたかのようだ。そしてそれは宙空で縫い止められた球形状の粒に限られているようだ。でなければオーレンの目からこの異形の魚が生まれることになる。
幸い、その心配はなかった。
だが、これほどの数ともなれば正直、千では利かないだろう。
魔法と呼ぶにしては人の域を越えている。ファノンやガルギニスは魔法師として選ばれるべくして選ばれた、天賦の才という意味で人の域を越えてはいるのだろう。
だが、これは違う。魔法という概念すら超越しているのではないか、エクセレスにはそんな風に見えた。
オーレンの口笛がエクセレスの耳元を掠めていく。
こんな時に、とも思わなくもないが、彼の余裕は動かないことで担保されているのだろう。
先の言葉からも動かなければどうということもないはずだ。
そうこうしている間にも迫る脅威がその足音と共に警鐘を鳴らしてきた。明確に聞こえてくるのは、こちらに向かって逃げてきている人間——魔法師の存在だ。
その荒々しい息遣いがすぐそこまで迫っていることを知らせてくる。
「良く聞け! 死にたくなければ誰一人として動くなよ! 識別が利かん」
イリイスの重い声が全員に届くや否や、大量の雨粒から異形の魚が姿を現す。濃い青の体色は、透明度が高く反対側も透かし見ることができるだろう。
そして特徴としてそれらの稚魚には目がなかった。目があるべき場所は、薄らと目蓋らしい線があるのみ。それを目蓋と言うには、見ている魚はあまりにも小さくわかりづらい。
空中を自由自在に泳ぎ回る魚は、まるで解放されたかのように身体を動かし、尾びれを異様な速さで振っていた。
そしてイリイスの合図があるまで、それらの稚魚は仲間を捕食し始める。一匹捕食すると、その身体は倍近くも膨れ上がった。
(何……この魔法!? この魔法を)
この魔法を【不自由な痣】で感知すれば……。そう思うが、結局エクセレスはオーレンの忠告を守ることにした。諜報と言えば聞こえは悪いだろう、彼女は情報収集をしているに過ぎないのだから。
ただ、それも自らを危険に晒すほどの価値はない。
寧ろクレビディートやファノンの立場を悪くするかもしれないのだから、やはり価値はなかった。
動くなと言われても、魔物が迫れば臨戦態勢をとってしまうのが魔法師の性だ。
少なくともこの視界の中で共食いを始める魚がいるのだから、そちらの方にこそ警戒した方が良さそうだが。
木々の隙間から魔法師の姿を数名確認。距離にして五十メートルもないだろう。微かに見えただけの距離で、傍には数名の魔法師がいることだろう。
彼らがこちらの意図を察して速度を落とさず、そのままこちらに飛び込んでくるのはすぐにわかった。
確認できただけでも五人。スライディングする要領で飛び込んできた彼らの目にギョッとした感情が浮かぶ。
空中で見たのだろう、魔物同然の魚は今や共食いを繰り返し、三十センチほどの個体が百以上も泳いでいる。
「頭を伏せて、そのままじっとしていろ!」
イリイスが怒声のごとき勢いで言い放った直後——彼らを追ってきた魔物の群れが一斉に飛びかかってくる。
多種多様。まさに百鬼夜行とでも呼ぶべき大群が視界を埋め尽くす。
蒼い瞳——その片目をフルに起動させたイリイスは片腕をそっと目の位置まで持っていく。
袖の中から微かに指先が覗いた時、イリイスは嘲笑じみた声色で発した。
「【海底の楽園】……子らよ、餌が向こうから来たぞ」
魔物の群れを感知したのか、水魚は見るからに獰猛さを露わにする。
エクセレスの周りを周回していた魚も豹変したように、魔物目掛けて泳ぐ。
そして一瞬で趨勢は決した。
魔物の突進などまるで歯が立たない。迎え撃った魔法の魚は、強靭な顎で魔物の身体を食い千切っていった。
虫食いのように一噛みは致命的とは言い難いが、それが数十と加われば、魔物は原型を留められない。
噴出する血が水魚の鮮やかなアクアマリンのような身体を染めていく。
それでも構いもせず次の餌へと群がる様は、もはや狂気じみている。魔物の外殻は個体差はあるものの比較的硬質だ。それを物ともしない顎はどういう作りなのか。
身体が水で作られているとはいえ、あまりにも常識からかけ離れている。
エクセレスはオーレンの忠告に従わずとも、この光景を前に何かしようという考えも起きない。ただただ、起こっている様を映像のように観ているだけだ。
噛みつくことが攻撃だとしても、彼女が見ている光景は食い散らかしているだけだった。
「押し返している」と茫然とエクセレスは口にする。津波のような魔物の侵攻、その勢いが止まった。
魔物の肉片が飛び散っては足下に転がってきた。
全部を食べているわけではない。どちらかと言えば、噛みちぎっているのだ。




