天変地異
「アルス様!!!」
ロキが声を上げたのはアルスの負傷を確認したからだ。
アルスの肩から血が流れているのは、魔物を吹き飛ばした際に爪が肩を裂いて行ったからだった。
引っかけたというよりも背中側から入った爪が強引に引かれたため思いのほか傷は深い。
が、ロキの言葉を気に留める様子はなかった。アルスが魔物との戦闘で思考を切り替えた場合、完全に魔物を滅ぼすまで糸が切れることは無い。
無論耳に届いていないわけではないが、優先順位の低いものは後回しにされる。
それがロキにとって最も憂慮すべきことだったとしてもアルスには関係のないことだ。
魔物に向かって一歩、また一歩と距離を縮める。
喉を鳴らすほどの荒い呼吸を上げた魔物がアルスを見据えていた。追い詰められた鼠というのだろうか。
しかし、窮鼠猫を噛むというには酷く消耗しているのだが。
だからだろう本能的な恐怖は単調な攻撃を繰り出した。
間近まで迫ったアルスに向かって潰された右腕を大きく振りかぶって振り下ろす。
単純なだけに力がこもった腕は鈍器のように威力がある。ただそれだけでだ。予備動作から見ていたアルスは魔物の眼だけを見ていた。
そして――
「――――!! ガアアアァァァ!!」
振り下ろされる直前魔物の腕は付け根から切り離される。
アルスの腕が、真上に振り切られたナイフが何をされたのかを語る。
続いて反対側の手が横薙ぎに振られようとするが、それも腕が動いた瞬間にアルスによって肘から圧縮を掛けられ、バキッと音を立てながら力なくぶら下がった。
脅威を根こそぎ削がれた魔物に対して振り上げられたままのナイフを斜めに振り下ろす。
緑の血液が噴出し、壁にふらふらと寄りかかるとずるっと腰を落とした。
そう終わりだった。一瞬で屠らなかったのには理由がある。
真っ先に近寄ってきたのはロキだった。
「アルス様、お怪我を……」
「あ、あぁ大したことは無い」
今気付いたというように眼を向けると恐る恐る傷口に触れたくても触れられないもどかしさがロキの顔にあった。
あわわわ、といった具合だ。
横たわるグドマだった魔物を見降ろすようにアリスが隣に立ち、テスフィアが口を閉じてその背中を見守っている。
魔物の眼が次第に人間のそれに変わっていった。
口から滴るのは緑のそれだが、グドマは一時的にせよ意識が戻ったのだろう。
「ふっ……ダメだったようだな」
息も絶え絶えに紡がれたのは無念の言葉。
アルスは後は時間の問題だと、見下ろすように視界に映した。
「しかし、俺の研究が途絶えることはないだろう。あの人との約束は一応果たした」
ククッと強がっては見せるグドマは後悔のない顔をしている。そうアルスの目的はグドマと研究資料の抹消。
その一つは完遂した、残るは……。
「来たか」
アルスが告げた直後、魔物が開けた穴から一人の女性が降り立った。
着地した後に乱れた黒い髪が綺麗に元の位置に収まる。
「もう終わったのですか」
「フェリ、そっちは?」
「予想通りでした。瞳の色が違う実験体でしたね」
「――――!!」
眼にでも資料データを埋め込んでいたのだろう。
アルスは後ろ盾がいる以上、必ず成果を持ち帰るために保険をかけていると思ったのだ。
推測ではあったが研究費を個人で負担するには莫大過ぎる。疑わしい国、魔法師を最も必要としているところはあるのだ。
7カ国で魔法師の数が少なく危ぶまれている国【バルメス】はシングル魔法師を欠いているため、防衛能力がないと囁かれ元首解任の危機とも噂されている。その他にも【ハイドランジ】は5位の魔法師が一人いるだけで2桁魔法師の数は他国と比べても1割にも満たなかった。
わかっていることは両国とも東からが最短距離だということだ。となればアルファの転移門を経由しない道程は予測がつく。
「そうか……全てお見通しだったというわけか」
掠れた声で諦めの言葉を発した。グドマの眼の光が薄れていく。
もう見えないのかもしれない。
アルスは言質を取っただけで十分だった。それ以上もうグドマに告げる言葉はない。後は任せるのが一番だろう。
「俺はこれから外の連中を掃討してくる」
「ご一緒します」
傍に寄ったロキをアルスは手で制した。
「アリス」
「……!」
「後はお前の判断に任せる。どの道死は免れないが、その前にお前が手を下すのもいい」
そのために生かしたのだ。無論人間の部分が戻るとは思っていなかったが。
「アリス……」
「これはアリスが自分で決めなければ意味がない。そのために来たんだろ」
「だけど……」
テスフィアはアリスの顔を見ることができなかった。わかってはいても酷な選択を強いられているのだ。
心配でないはずがない。
「大丈夫、大丈夫だよ」
アリスが微苦笑を浮かべてテスフィアへと振り返った。
思うところがありすぎて考えが纏まらないといった顔が親友の口を閉ざさせる。
「ロキは二人に付いていてくれ」
「……わ、わかりました」
釈然としないながらもその必要性を理解したロキは言い難そうに承諾する。
「フェリは俺と外だ」
「はい!」
この破顔はアルスに向けられたものだったが、そう受け取らない者もいた。
「なんで先輩なんですか!」
蟠りを抱えたロキがつっけんどんに声を上げた。矜持を保つための反射なのだろう。
おもわず鼻白んだアルスは理路整然と口を開いたが、それは意図したものではなかった。
「人間相手ならフェリのほうが適していると言っただろ」
同じことを二度、そんな分かり切ったことをロキが理解していないはずがなかった。
それでも憮然として頬を膨らませたロキはフェリネラに向いた。
「そんな駄肉を抱えてアルス様の足を引っ張らなければいいのですがね」
「なっ――――!!」
胸を抱えて恥じらうフェリネラ。
この中で言えば間違いなく一線を画するのは事実だ。
「御心配なく、これでもスピードには自信があるので」
「さっさと行くぞ」
このままではいつまでも言い争いが続きそうな雰囲気にアルスは終止符を打つ。
緊張感のない奴らだと思うのだった。
「アリス、どんな選択をしても俺は尊重するからな。結果は誰にもわからないんだ、後先のことは考えるだけ無駄だ、お前の好きなようにすればいい」
振り返ったアルスが何故そんなことを言ったのか本人も不思議でしょうがなかった。
「うん……ありがと」
顔を合わせたアリスが何を思ったのか一瞬の間を置いた。
アルスは懐からマスクを取りだし、
(なんだかんだでこれも役に立つな)
などと徐に被る。
アルスの感情は隠された。
そして魔物が開けた穴からフェリネラを連れて外へと飛び出す。
「フェリ、司令に連絡を入れて救援が必要な箇所を洗え」
「はい!」
フェリネラは風魔法を駆使して滑空するように走る。自信があるというだけあって単純なスピードならばそこそこだ。複雑な地形で機敏に動くのは難しいかもしれないが。
少し経つとフェリネラが報告を告げた。それは口から発するものではない。
「アルスさん、少しいいですか」
「ん? あぁ」
不思議に思いながら大木の枝に降り立つと――
「少しじっとしていてください」
「……!」
向き合いアルスの仮面を丁寧にずらすと頭を挟むように手を添えた。
フェリネラの頬に紅が差したのがわかった。
顔が近づき……額が触れる。
「空間探知転写」
アルスの脳内に地形が浮かび、続いて青と赤の点が細かく分布。
赤が実験体の反応なのだろう。
「こんなこともできるのか、凄いな」
「はい!」
これ以上ない喜色満面。
「だが司令がやっているところは見たことが無いぞ?」
フェリの魔法はヴィザイストが叩き込んだものだと言っていたはずだ。
「ええと……額を触れさせなければならないので……」
少し顔色が悪くなったフェリネラ、アルスも遅れて気付く。
50代のおっさんと顔を密着させなければならないと考えるだけでなんとおぞましいことか。
頬が染まった日にはトラウマになるだろう。
「それは……勘弁だな」
「当然です」
フェリネラも父とアルスが額を重ねる構図を想像したのか断固として拒否した。
「じゃ行くぞ。まずは東だ」
アルスの速度に着いていくだけでフェリネラは想像以上に苦労したのは言うまでもない。
あれがほとんど身体技能によるものだというのだから懸絶した力量差だ。
戦闘での身のこなしは基本的に魔法を併用するのが常識だ。それは単純に身体技能に限界があるため、それを超えた動きをするには魔法による補佐が必要不可欠。
だと言うのに……というのがフェリネラが背中を追いかけながら思ったことだった。
戦況は芳しくないというのが現状だ。ヴィザイストの巧みな戦略によって被害は抑えられているものの、押され気味なのは事実だ。
アルスとフェリネラが救援に回るまで、その一報を受けたヴィザイストは全隊に通達、内容は防戦に回るようにとの指示を出していた。
(後は任せるか)
ヴィザイストは作戦本部で椅子に深く座り直した。
他人任せになってしまうが、戦力的にも集めた魔法師では力不足だった。これで白兵戦でもやろうものなら確実に全滅させられる。
ここまで耐えただけでも上出来とした。そろそろ自分が出向かなければならないと思っていたのだから、タイミングは良かった。
それからのアルスはというと、鬱憤を晴らすように魔法を行使し続けた。
もちろんアルスは余剰分の魔力を消費している……というよりそうせざるを得ないのが本音だった。
本来個人の保有魔力には限界がある。魔法をほとんど使っていなかったアルスの魔力はほぼ満タン。
それ以上の魔力は漏れ出るはずなのだ。しかし、アルスの使った異能の吸収分は置換という工程を経ているせいで異能として魔力加算されてしまう。つまり、漏れ出ることがない。そのため消費しなければならない事態になっていた。
異能といってもその特異性は自我があることだろう。活動源は魔力であり、大量に吸収させると力を自我としての衝動が激しくなり、アルスの制御下を独自に離れてしまうのだ。
そのため、制御できる範囲を越えないように適度に発散させなければならない。
アルスは一面を銀世界に変えたと思えば、業火で覆う。
全系統の最上位級魔法が披露された形だ。天変地異と見紛う光景に誰もが息を呑んだ。何かのショーを見ていたとしても圧巻だろう。
実質フェリネラは何もしていなかった。というかさせてもらえなかったのだ。
ヴィザイストが隊を介入させなかったのもこうなる可能性を考慮したのかもしれない。
助けられた魔法師達も呆然と繰り出される魔法の数々に立ち竦むことしかできなかった。
マスクを付ける意味がないのでは? と思ったフェリネラがそれを口に出すことはなかった。
♢ ♢ ♢ ♢ ♢
終わった頃、誰もが思っただろう、やり過ぎだと。
『やり過ぎだ』
当然の声はフェリネラの良く知る人物のものだった。アルスが片手に持つライセンスから発せられていた。
「すみません司令、つい」
『被害はないから問題はないのだが』
景観と言うには殺風景過ぎると感じるのは十人中十人のはずだ。
極秘の任務という体裁はもう意味をなさないだろう。その辺はうまく総督がやってくれることに期待するしかない。
なんせ地形が変わってしまったのだから。
『まあいい。撤収するからお前は一度本部に来い』
「了解しました」
叱責された気がして気乗りはしないが、気分で拒否できる類のものではない。作戦が大幅に変更を余儀なくされた経緯を話さないわけにはいかないのだ。
フェリネラは一足先に司令の元に向かうと言ってアルスと別れた。
彼には実験施設に残した者がいるのだから、指令の前に向かわなければならない。
焦燥感の類はないはずだったが、アルスは不思議と急かされるように駆けていた。
穴から一気に階下へと降り立つと気さくに話している3人の姿がそこにあった。
殺伐とした空気を予想していただけに面食らったアルスは機を逸して呆気にとられるだけの間が空いた。