魔核の存在
室内の空気は決して良いとは言えなかった。ここに到着したフリンは、否が応でも張り詰めた表情にさせられている。
患者の死期が確定した瞬間よりも、双肩に重くのしかかってくる空気。
学院で見た彼とはまるで別人だった。外界に出ることでスイッチが切り替わったのか、もはや目の前のアルスは、フリンの知る彼ではなかった。
何度か顔を合わせているアルスを目の前に、フリンは己に言い聞かせていた。
浅くなった呼吸で、大きく固唾を呑んだ。
言葉を選ばなければならない、と。
言葉を間違えてはいけない、と。
この小さな幕舎は、フェリネラのためだけに用意され、現在はアルスが立ち入りを禁じている。ロキでさえも、この場に踏み入れることが許されていない。その意味を知るのは、アルスとロキの関係を理解している者だけだ。
そしてフリンもその一人に数えられる。
もちろん、ロキの治療を担当したのもフリン自身だ。本来彼女は安静にしていなければならないのだが、苦痛を堪えてすぐにベッドを空けてしまった。彼女の行き先をここだと予想していただけに、少々意外感はあったが。
ただやはりロキが、この場にいないのはある意味では異常とさえ言える。彼女が真っ先に向かう場所などここ以外にあるはずがないのだから。こうしてアルスと二人きりになることも初めてかもしれない。
アルスの手も最低限の治癒しか施されておらず、その手は厚めの包帯で覆われている状態だ。固定もせず、簡易式治癒魔法で微々たる治癒の恩恵を受けているだけだ。腫れた手を見ているだけで、フリンの方が気が滅入る。
最前線から帰還したアルスは、その敵意とも取れる圧力を今も放ち、一時も気を緩めていなかった。それがフリンにとってことの重大さを訴えてきている。
「お前が一番わかっているだろ」と言うアルスからの問い掛けに一瞬喉が詰まる。
避けるように視線をフェリネラへと移し、フリンは一度大きく肩を竦めた。負傷者がいて、それを治すのが治癒魔法師の使命だ。ならば誰であろうとそれを阻む者があってはならない。
そんな小さな決意は、フリンに一生分の勇気を絞り出させた。
「もちろんです! だから聞いてるんです。私が知らないことを、アルスさんは知っているはずです。彼女を救うために……」
全てを話して欲しい。続くことをアルスに悟らせる形で言葉を区切る。
アルスの命令であればフリンは真っ先にフェリネラを治療した。私情の有無はどうであれ、フリンは今や患者を選ばなければならない立場である。重傷者を置いて、先着順に治療していたのでは死体の山が積み重なるだけだ。
そうならないために治癒魔法師部隊がいる。
だから彼女にしかできない治癒をフリンは求められている。
アルスがフェリネラを連れ、帰還してすぐにフリンは彼女の容態を診察した。手で触れれば大方の負傷具合は分かるつもりだった。しかし、フリンを以ってしても何が原因で彼女が死の淵に立っているかがわからない。
身体中には無数の傷はあるが、そんなものは直接命を危険に晒しているわけがない。
だから、後回しにせざるを得なかったのだ。
「大丈夫です。治癒魔法師の名に懸けて命の保証はします! もちろん今のところは、ですが」
フリンは恐る恐るといった足運びでベッドの傍に立って、アルスからフェリネラの手を取る。
前準備としてメアの治癒をしていたのが功を奏したのか、鋭敏な感覚がさらに研ぎ澄まされている。
フリンは慣れた動きで腰に下げた医療用の鋏を抜き、フェリネラの衣服を切っていく。本来ならば治療室を兼ねた幕舎で診るのが良いのだが……。
フリンの感覚は嘘を吐かない。彼女は正直な反応しか返してこず、それは治癒魔法師としては腑に落ちない現象でもあった。
おそらくこの疑問の答えをアルスは持っているはず。
「疑問点が多いです。彼女には治癒魔法が異様に効きづらい。魔力的な抵抗力かと思ったのですが、そうではありませんよね」
フリンの目つきは治癒魔法師のそれに変わり、アルスから全てを聞き出すための語勢になった。
「さすがだな。フェリを死なすわけにはいかない。だからお前には協力してもらうつもりだ。俺もどうすれば良いのかわからない」
だから一先ずフェリネラを隔離した。
一つフリンの中で、疑問が解消されたが、肝心なのは彼女を救うための情報だ。
フリンは改めて治癒魔法が効きにくいことを確かめて、焦らずアルスの話に耳を傾ける姿勢を取る。
治癒魔法師の本分は怪我人や病人を治すことにある。だから、それ以外の事情はフリンにとってどうでも良かった。
「アルスさん、ここでは必要な機材も不足しています。おそらく彼女の衰弱具合からして内地からここまで機材を調達するにも、彼女を内地へ連れ帰ることも難しいでしょう。救える命を救わないのは治癒魔法師にあるまじき行いです。お婆ちゃんに顔向けできません!」
畳み掛けるかのように言葉の羅列を吐き出すフリンは、焦燥感を押し殺していた。早く手を打たなければ、この患者は持たない。死を宣告するタイムリミットは確実に迫っている。
そんなフリンの焦りを読んだかのように、アルスは徐に声を地面に向けて落とした。その絶望したかのような態度は、同時に頭では全く別のことを考えているかのようでもあった。
「大丈夫だ。お前が生きているというのであれば、猶予はある」
「なら早く!! 私を巻き込む心配なら要りません! 今更ですッ! これまでずっと巻き込みっぱなしじゃないですか!」
声を荒げるも、フリンはそれ自体を責めているのではない。寧ろその逆、今更水臭い、そんなニュアンスの方が強かった。
「いくつか方法を模索していたんだ。治癒はお前の分野だが、今回はおそらく俺の分野でもある」
フェリネラを取り込んでいた魔物をアルスは、【暴食なる捕食者】で食い尽くした。
だからアルス自身、感覚に基づいた仮定で話を進めるしかなかった。
「フェリは魔物に取り込まれていた。俺の力で魔物は食い尽くしたが……」
「食い……?」
戦闘に関しては全くの無知であるフリンは、アルスの言う“食う”行為がどういったものなのか見当も付かない。だから一先ず反芻すると言った曖昧な言葉しか出てこなかった。
アルスも今、それを説明する時間を惜しんで、話を先に進めた。
「魔物を食うことはできたが、魔核を食らった感覚がない。何よりフェリの中にはまだ魔物の魔力が残っている状態だ」
「——!! そんなことは!?」
そんなことは通常ではあり得ない。確かに魔力の性質上、体内に混入すれば毒素となって身体を蝕む。拒絶反応はまず免れないだろう。魔力は外気に触れるだけで劣化してしまうものでもあるため、混入することはまずあり得なかった。
体液と混同している可能性も頭を過ぎったが、フリンはすぐさま思案を打ち切った。それこそ不可能だと。
魔物の体液はやはり分離し、外気に溶け込んでいく——気化すると言った方が分かり易い。
ならば魔力を含んだ体液の可能性もある。しかし、それならば彼女の命はとうに生命活動を止めている。
「早く治療に入りたいのですが、確かに迂闊な治癒魔法では意味が……でも」
フリンは無力感を抱いたが、かと言って何もしないわけにもいかない。プライドがそれを許すはずがなかった。
「だから必要な手順を踏まえて、一度お前と施術方法を検討する必要があった」
「確かに、こんなこと誰かに聞かれたら」
そう、フェリネラの体内に魔力だけとはいえ、魔物の存在を証明する情報が混入している今、彼女の身に何が起きても不思議はなかった。つまり彼女の中に今も魔物は存在していることになる。
「ですが、アルスさんの話は矛盾があります。そもそもそんなことはあり得ません。私だって魔物に関する勉強はしてきましたから」
「あぁ、言いたいことは分かる。魔力なら体外に排出されていなければおかしい。血液など何かしらの方法で、フェリの中に混入した場合は、拒絶反応でショック症状なりで確実に死んでいるはず」
ここでアルスは顔を上げて、真正面からフリンを見据えた。
「おそらく魔物の魔核がフェリの体内、心臓と同化している可能性が高い」
「えッ——!! そんな馬鹿な話が……機能不全を起こすに決まってます。でも、彼女は生きて、いる」
純然たる事実をアナウンスのように、口にしたフリンは、同時に発した言葉の矛盾に気づかされた。
命が今も活動している事実は、フリンが保証している。
アルスも一つ頷き返した。魔核が体内に残っているとする方が理屈は通る。
少量ではあるが、確実に取り逃がしは存在する。食らった張本人であるアルス自身が、そう感じているのだから間違いない。
あの一瞬、アルスはフェリの魔力までも誤って吸い尽くそうとした。それほどまでに区別が付き難い状況だったのだ。
「幸いにもフェリはまだ死んでいない。だが、いずれフェリの中で魔核は成長する。元通りになると言った方が正しいな。そうならないかもしれないが。それでは助けたとは言わない」
「え、えぇ、もちろんですけど、でも、今のままではどうやっても治癒できません」
「わかってる」
アルスも道中や、フリンが来るまでの間、いくつか方法を模索していた。
しかし、アルスの知識だけでは限界がある。フリンの納得した上で、彼女の治癒魔法師としての知識を借り、できるかの是非を判断しなければならない。