謬計訂正(びゅうけいていせい)
視界の端でアルスはテスフィアとアリスの戦いを見届けていた。
嬉しい誤算であるのは認めなければならないだろう。二人で2体の敵を倒したのだから。
間違いなく成長した姿がそこにあった。
♢ ♢ ♢ ♢ ♢
「えっ!!」
声の先――そこにはナイフ一本で複数の敵を同時に相手しているアルスの姿があった。
その熾烈な戦いに加勢に向かうという思考は一切浮かばない。
ナイフと呼ぶには長大なそれは刀身から先を魔力の刃が形作っている。
鎖を巧みに操り、敵の攻撃を防ぎ一斉に受けることなく確実にねじ伏せていった。
実力差は歴然だ。
アルスの後ろから的確にナイフを投擲するロキは確実に胸を貫いていた。
魔物の外皮をも貫く威力の投擲は実験体の体を易々と貫通する。
ロキが人間を殺すことに対してアルスは良い感情を抱かなかった。それがたとえ任務であったとしてもだ。避けられないことではあったが、ロキの覚悟は証明されたことになる。それによってアルスが少なからず助けられている面も否定できない。
だから今はそれでよかった。テスフィアとアリスにしても殺すという選択しかできなかったのだ。
アルスも割り切ることにする、だが、同時に楔を課した。ロキ達が命の危機以外に人間の命を故意に奪うようなことがあればそれは自分の責だと。
そう決めてからのアルスの動きはさらに洗練されたものに変わる。
アルスの一振りで確実に1体以上の実験体が息を引き取る。
見入った二人が息を呑んだときには残りの実験体は2体まで減らされていた。
「ロキッ!」
ちょうど交戦していた一体を沈黙させたロキはその声にナイフをアルスに向かって投擲した。
左右から迫る敵の一体に向かって一閃させたアルスは飛来するナイフを指の間で挟むと付与させられた魔力を損なうことなく反対側から迫る敵の眉間に命中させる。
見事過ぎるコンビネーション、阿吽の呼吸とはこのことだと感じた二人。
「私たちって……」
いなくても、とは口に出せなかった。
その呟きにアリスは苦笑いを浮かべ。
「……頑張ろうフィア」
アルスのようにはなれなくともロキのように立ち回れたらどれほど頼もしいかと考えるのだった。
それでも――
「ロキ、コンマ1秒遅い」
「失礼しました。精進します」
それでもダメだしを受けるのだ。
「ははっ……」
敵わないなとアリスは笑うしかなかった。だが、その域に達することを目標に据えたのはテスフィアも同じはずだ。
夥しい死体の山、それを見て何も思わなければ人間として欠陥があるのかもしれない。
それを事後の結果として見るアルスに思うところは何もない。
これは敵……それしかアルスの中には無かった。
こういうときに近寄ってくるテスフィアとアリスが足を止めてしまう姿を見ると自分の欠落した感覚(慣れかもしれない)を自覚する瞬間だ。
感傷に浸るでもない考えは1秒にも満たなかった。
それより、と一方向に顔を向ける。
「何故だ……」
グドマの顔は焦りというよりも試算が誤ったことへの信じ難い驚愕のもの。
白衣には飛び散ったのだろう赤い染みがついている。
「俺が強いだけだ」
辛辣な言葉はそれだけでグドマの研究を根底から否定するに足るものだ。実験体、感情をコントロールされた人形には到達できない領域を示したのだ。
周囲を確認するまでもなく、この場にはグドマ一人しか残っていない。
「俺は失敗したのか……いや、そんなはずはない。十分評価してくれる者もいた」
誰に発するでも無い言葉は自分の研究を正当化するため。
「失敗すらしていない。お前は生身にメスを入れた時点から研究にすら至っていなかったんだ」
「黙れぇ!!」
声を荒げたものの現状は如実に語っている。瞬間的な怒りは机の上にある資料を力任せに薙ぎ払った。
血走った眼も力がない。
「そうだな、お前の言う通りだ……成果としては最悪だ」
項垂れたグドマは抵抗しまい。ガクリと落とされた肩には反抗的な力は残されていないようだった。
研究者なのだから殺気の類も魔法師としての技量もないグドマは脅威ではなかったが、それを油断とするならば、アルスでなくとも同じ結果を招いただろう。
グドマの目には敵意よりも好奇心が強かったからだ。それはまさに研究者として探求する者。
「成果としてはダメだ。だが、無意味と断ずるのは早計だ」
メガネをクイッと持ち上げたグドマは年相応な儚い顔でアルスを見た。
グドマが今日最も張りのある声を上げたのはそのときだ。
「俺の研究は今この時を以て成功する」
それは成果を見届けられない未練からの言葉。
半身になっていた――アルスから死角――奥の手を勢いよく胸に突き刺した。
「「「――――――!!!!」」」
「馬鹿が……」
その手には銃のような注射器が握られ、先端を自分の胸に押し当てていた。銃身部分にはどす黒い血のような液体が満ち。
プシュ、と音を立てると一気にグドマの体内に流れ込んでいく。
「アリス君のおかげで形にはなった」
狂人な思想の中に昔のグドマを連想させる呼び名が出たことにアリスは悪足掻きではなく、末期の水代わりのようなものだと思って注入された液体を見た。
「アルス様――」
「いや、見届けよう」
そう言うのは同じ研究者の目を見たからなのかもしれない。どんなものであるにせよ胸……心臓に注入した液体は命を捨てたことを意味する。
「がっ!! がはっはぁぁあぁぁ……くっ、があぁああ……」
もがくようによろよろと動き回ると、刺した胸を掻き毟る。
転がる実験体を踏み付け、額に血管が浮き上がる。顔色も薄らと黒くなっていった。
「何! どうしちゃったのよ」
テスフィアがそう声を上げるのも仕方の無いことだ。今、人間が別の何かに変容しようとしているのだから。
「…………」
それを黙って見届けるアリスの目には憎悪の類はない。哀れで、みじめで……悲しいと思っていたのだから。
動きを止め、蹲ったグドマの体が次第に肥大化していく。特に右手は異様な変貌を遂げ、人間のそれではない。
服が肥大に耐えきれずに裂け、治まると――――
猛烈な勢いで跳ね上がるように頭が持ち上がり、アルス達を見据えた。
「「「――――――!!」」」
金色に染まった瞳、その瞳孔が爬虫類のように絞られる。
「それがお前の成果とやらか」
液体の中に何が入っていたのか? 全ての成分まではわからないが、確実に入っているものはアリスの血液と…………魔物の血液だ。
人間と呼ぶには異様な形を模している。グドマだった物。
アルスは蛇足だとは思わなかった。一人の研究者と呼ばれるものが到達した結果だ。
受け入れ難いものであることに違いはない。
だからここからはアルスが相手をする番だ。
「化け物に成り下がるのがお前が研究してきたことだったのか」
彼もまた異才であることに違いはない。道さえ違えなければ人類にどれほど貢献できたかと思うと惜しい才能だ。
「魔物!?」
変貌を遂げた姿に驚愕の声を上げたテスフィア。アリスはただ唇を噛んだ。
「ガガガガガ、ギヴィ!?」
嘲笑うように裂けた口。
濃いグリーンに染まった体は魔物のそれだ。右腕が異常に肥大化した以外にも人間の部分は僅かだ。2mはある体躯、鋭利な爪が互いにぶつかり金属質な音を鳴らした。
「人型か」
魔物の種類の中で特に人型を模した魔物は高ランクのものが多い。何故人間に酷似した形を取るのかは諸説あるが確証に足るものはない。
それに当てはめればグドマだったこの魔物も高レートに匹敵する可能性はあるが、魔物になるという例はないはずだ。
AWRを構えたテスフィアとアリスに恐怖心はなかった。課外授業で少なくとも経験を積んだからだろう。
しかし、アルスは叱責するように声を上げる。
「お前らは手を出すな」
「でも、私達だって……」
テスフィアが反論の声を上げ、アリスの顔にも戦う意思が宿っている。
「レートがわからない以上、俺が――――!!!」
視線を外した覚えはアルスにはなかった。だというのにそこにグドマだった魔物の姿はない。
テスフィアやアリス、ロキは不思議に思っただろう。アルスの背中を見ていたはずが、一瞬にして魔物が間に割り込んで来たのだから――――いや、来た、というのは正確ではない。気付いたときにはそこに居たのだ。
最初からいたようにすら錯覚するほど眼では追うことができなかった。
「――――!!」
アリスの眼前に魔物の顔があった。覗き込むおぞましい顔、金色の眼が間近で合う。
「えっ!」
匂いを嗅ぐ仕草を取ると口から黒い息が漏れて孤を作った。
次の瞬間ビクッと体が反応する――――
アルスのナイフが横薙ぎに払われる。
またしても入れ替わりにナイフがアリスの前でピタリと動きを止める。
魔物は元の位置に戻っていた。床に引っ掻いたような痕が残っている。ブレーキ代わりに巨大化した右腕を使ったのだろう。
魔物にも含まれるアリスの血液、その元に同じものを感じたのか。
「アリス大丈夫か?」
「あ……うん」
外傷はないが、勝てないことがわかってしまったのだろう。薙刀を握る手が小刻みに震えていた。
「最悪だな」
アルスが一人溢した。
「クヒィッヒィィィィィ!!」
眇められた金色の瞳はアルスでなく、その奥、アリスに向けられていた。
「わかったろ。お前らは手を出すな」
「…………」
今の動きを見て頭を振る者はいない。それはロキにも言えることだ。
「三人で死角を作らないように陣形を取れ、いいな」
すぐにアルスと魔物から距離を取り、ゆっくりと後退した。
「ガアアァァァァァ!!!!!」
「……!」
徐に魔物が口を開けると――――
「くそっ――!」
口の奥に淡い光が見える。
アルスは咄嗟に指をクイッと折った。
空間掌握魔法、長方形に切り取った空間自体を魔物の顎に向けて下から持ち上げた。
見ている景色が長方形に切り取られてずれる。
首を跳ね上げられた魔物の口は上方に向き、次の瞬間――口から圧縮された膨大な魔力が光線として打ち出される。
地下3階分もある天井を易々と貫き、天に光の柱を作った。
「嘘!!」
テスフィアがそう思うのも課外授業で襲われた魔物の比ではないからだ。
「ロキッ!」
「――――!!」
アルスが何を意図しての呼び掛けなのかをすぐに理解すると返していなかったアルスのライセンスで回線を開く。
「大丈夫です。今ので通じました」
「良し、なら司令に少し遅くなると伝えてくれ、それと変異Aレートが現れたともな」
「――――!! わかりました」
この場合を変異としてよいものか迷ったが通常の魔物でないためしょうがない。
本来変異とは魔物同士が同化することでなる変異体、異種の魔物のことだ。
アルスは距離を取ったテスフィア達に見えない空間の障壁を作った。もちろん真正面だけの壁でしかないが、戦闘の巻き添えを食らうことは避けられるだろう。
こんな時でも好奇心を隠そうともしないテスフィアは真っ先に歪んだ空間に触れてみた。
「何これ……壁?」
「おそらくアルス様の魔法です」
「…………はぁ~まったく何よこれ」
それだけの口が叩けるなら心配は無用だろう。
上を向いていた魔物の頭がゆっくりと戻ってアルスを見た。瞳孔がさらに絞られ、標的が完全に固定される。
敵と見なした感覚、魔物の敵意はわかり易いなとナイフを構え直す。
アルスも目の前の魔物に専念する。頭が冷える感覚、それは殺すための最善の手を瞬時に選び出す思考だ。
ローブを脱ぎ、一瞬で魔物との距離を詰める。スピードはほぼ互角。
この時点でアルスはグドマだった魔物の速度に感心していた――魔法師でもなく、武芸に心得があるわけでもない研究者が、魔物へと変貌しただけで圧倒的な肉体を手に入れることができることに。
さっきはそこまでとは思わなかったための油断。
しかし、今は速度がわかった以上アルスが遅れを取ることはない。
魔力刀による一閃をかわされるとすぐに追撃する。見えていればどうということはない。
蓋を開ければ予想を超える力だったが、わざわざ待ったのはそれを迎え撃つためだ。
グラ・イーターの使用による頭痛は治まった。その代わりに吸収した魔力が有り余っている。
魔物はアルスから距離を取るため直角移動する。速度が落ちた所を狙いナイフを投擲するが右腕によって弾かれてしまう。
予想以上の硬さに、だろうなとアルスは鎖を掴んだ。
「70番鎖式、煉獄」
弾かれたナイフの先端から巨大な火球が生み出されて魔物を一飲みにする。
「ガアアアァァ!!」
それは初位級魔法の《バーニング》とは似て非なるものだ。まるで縮小された太陽であるような高温度。
火系統魔法の最上位級に位置する魔法だ。
一気に熱せられた空間にアルスは障壁を張るがすぐに歪みが見られた。時間的にも数秒しか使うことができない。
融解された壁面が赤くなる。
室温が急上昇したと感じる前に魔法を解く。こんな密室同然の空間では焼死してしまいそうだ。
黒煙の中から膝を折った魔物が姿を現す。高温に熱せられた外皮が一部炭化している。
その程度で済んだのはおそらく膨大な魔力を魔法として変換し、体外に放出し続けたからだろう。
「…………!!」
アルスは驚愕していた。魔物は生物としての生存本能にしたがって防衛することはあるが、これは計算された防衛だった。
「少なくともグドマの知識が生きているということか」
アルスが言い終えるのと魔物が再度動き出したのは同時だった。
肥大化した右腕は外皮が相当堅いようで炭化していても動かすのに支障はないようだった。
振り被られた腕を交差したナイフと腕で受け止め、ナイフを引く。やはり相当堅い。
腕を斬り落とすまでには至らなかった。
それでも魔物は腕を引っ込めようとはしない――――瞬間、手の平に光球が生み出される。
それはアルスの背後にいる三人に向けたものだった。
「お前の相手は俺だろっ!」
アルスも手を開き、握る動作をする。
それはスムーズなものではなく、何かを握り潰すように徐々に閉じていく。
それとリンクするように魔物の右手が閉じていった。開く意思はあるのだろうが、そうさせない何かが魔物の手に圧を与えているのだ。
空間掌握魔法によって重力をピンポイントに制御、圧縮を掛けたのだ。
完全に閉じ切る前に魔物の腹部に蹴りを入れ、後方に吹き飛ばす。距離ができるとアルスの手が完全に閉じた。
そして空中に投げ出された魔物の手も閉じ、潰される。
キャンセルされない魔法が魔物の手の中で破裂して右手を吹き飛ばした。
加算された衝撃に床を擦りながら壁面にぶつかると、右腕から緑色の血が粘液を感じさせるように溢れ出る。