強烈なきつけ
魔物という“魔”の存在が生み出すにしては、その風はあまりにも心地よく吹き付けた。
嵐の前触れさも感じない。
手足のように風を従える魔物は見る影もなく縮んだ体躯――人間に近しい大きさ――で超然と佇んでいた。風を愛でるように、風を飼い慣らしているかのように呼び込む。
出入り口というにはあまりにも巨大な通路を塞ぐように空気の密度が増す。行き場のなくなった風は幾つもの気流を広大な部屋内に生み出し始めた。
風の、空気の集合体が魔物の前で構築されていく。
無色透明であるはずの風に膨大な魔力が注がれることによって可視化される。
室内に満たされる空気が一斉に一点目掛けて流れ始めた。その中心には青白い光点が瞬いている。
魔力と混合され魔法として組み上がる様は、本来なら全身を恐怖に染めただろう。敵意や殺意といった身に降りかかる命の簒奪を直に感じ取っていたはずだ。
しかし、そういった悪意ある攻撃とは寧ろ真逆な魔法だというのは、これまでとは著しく異なる情報量が介在していることから間違いない。
魔物が生み出す魔法と魔法師――人間――が生み出す魔法。過程の違いは大きいのかもしれない。
魔法という事象改変は同じでも、決定的に違う部分が一つある。人が組み上げる魔法は多くの情報が含まれる、ということ。魔力とはそのもののパーソナルデータに等しく、生きた経験が蓄積されたもの。つまり個人を定義する証のようなものだ。現に個人に関するありとあらゆる情報が魔力というエネルギー体によって証明されている。
一瞬の内にロキの脳内に過ぎった名が、胸中で呟かれた。
――【東の新生害気】
不意に脳を過る名前は雷系統の魔法を修める者として、過去【雷帝の八角位】を調べていた際、目にしたものだ。魔法の分類、いや性質の意味において必ず素となる“始まり”は存在する。
魔法といった超常的な事象改変現象は多くの場合、始まり皆、空想から。空想を現実に落とし込むために魔力があり【失われた文字】があり、理論化する式を編み出してきた歴史がある。
出来うる可能性が魔法には多く残されていたためだ。無論、魔物という人類史に残るであろう滅亡期になるかの瀬戸際に差し迫ったことが、魔法に可能性を与えたのは紛れもない事実だ。
つまるところ魔法の軍事転用はその発想元を空想――創造ではなく、想像――から得ていた。大いに寄与したことは言うまでもない。
魔法の歴史の中でも最初期といえる段階であったためだろう。いわゆる扱える者が不在の、魔法式のみの完成。
魔法師側のレベル向上により近年になってようやく扱える者が出始めたが、それでも未だ最高難度と言われているものが多い。
扱える者を選ぶという意味でも、まず【雷帝の八角位】がある。
また風系統は初期に【東西南北】の四方になぞらえて生み出されたものがある。
【極地】に分類されるであろう魔法とわかっていたとしても、ロキの意識がアルスから離れることはなかった。
後ろの恐怖など埒外だ。
自分ではどうすることもできないのならば、全神経をアルスに向けた方が終わるにしても、始まるにしても有意義と言えよう。
彼の左右で流れる涙の色はロキの胸を打ち、見ること以上の感情を訴えてくる。
ここから大きな何かが変わる予感はもはや確信に近い。
自分にとってもアルスにとっても大きく小さな第一歩。
風がアルスの髪を揺らし、ロキの髪を巻き上げる。
毛先が視界を邪魔しようともロキの目はしっかりとアルスの瞳を捉えていた。
呆然と立ち尽くすアルスに初めの一歩を踏み出させるためにロキは身体に強烈な鞭を打つ。
「助けましょう、アル」
原点回帰、当初の目標。
そのはずなのにまるで忘れていたかのような響きをともなってロキの口から発せられた。
救出というミッションは誰よりも信じるアルスならば造作もないこと。ロキは信じて疑わない。
自分が信じた世界最強は1位という評価からではない、ロキの中での世界最強なのだ。
故に、
「アルならば、いつだって、何だってできます!」
魔物の蔓延るこの外の世界を誰よりも憧れ求めたのがアルスだ。人類の守護者たる魔法師が、外界の素晴らしい世界に気づくことができた。
ロキは知っている、それはアルスだからだ。1位じゃない、アルスでなければ気づくことができなかったことなのだ。
幾度と自分の小さな命はこの人のためにあるのだと思わされたことだろうか。
枷じゃない、ロキは己をアルスの“寄り添う第一人者”になろうとさえ思い始めていた。
もっと彼のことを知りたいし、伴に多くを見ていきたい。
同じ時間を過ごしていきたい。
だが、そんなロキの願いも虚しくアルスは一切の反応を示すことがなかった。
(――!! 目が……)
抜け殻のように立ち尽くすアルスの片目。墨を落とされたように覆われようとしていた正常な眼。
鮮やかで深い色の瞳は、今やその大半が漆黒に染まっていた。亀裂のような罅が生じ、ペリッと剥がれるようにして奥に潜む眼が覗いた。
眼球が完全に割れたわけではない。寧ろ殻にでも覆われていたかのように破片が二片、剥がれ落ちたのだ。
黒く淀んだ涙が、割れた眼球の奥から溢れ出る。下の瞼に溜まり、漏れ落ちた黒い雫は先程と同じく、小さな【暴食なる捕食者】の化身となって宙をあてもなく泳いだ。
その小さな変化をロキは見逃さない。【東の新生害気】は指向性の存在しない無差別領域魔法である。正確には指向性は存在するが、幾つもの流動を与え、多角的に球体を一周する無限軌道を実現している。その影響は物質の軌道制御に浸蝕干渉するものだ。
地を洗う息吹とも言われる【東の新生害気】は対象物の慣性を奪うことだ。そして力の作用は生み出した球体の気流に比例する。
つまり標的の位置情報を複写するのではなく、位置情報に直接干渉することができるのだ。
こんな密閉空間で発現すれば個としての物質は全てが気流の軌道を強制的に追わされ、壁面目掛けて擦り潰されるだろう。
場所は悪いのかもしれない。この魔法の目的は対象物を強制的に離脱させることにあるのだから。
故にそこに目的じみた情報は介在しない。果たして魔物相手に魔法師の理屈が適用されるとは思わないが。
ロキは【暴食なる捕食者】の動きが活発になり始めたことに逸早く気づくことができた。敵意や殺意に反応しているわけではないのだろう。魔力を喰らうというシンプルな目的は、同時に曖昧と言わざるを得ない。
アルスの支配下として制御出来ていたものだが、あくまでも本質は魔力を喰らうモノのはず。
だから魔力としては希薄な構成初期の【東の新生害気】に反応を示さなかったのかもしれない。もしくはそこまではアルスがしっかりと手綱を握っていたのかもしれない。
だが、今になって【グラ・イーター】の動きは明らかに魔物を意識している。涎でも垂らすかのような黒い魔力が口から垂れていく。
微弱ながら自我を持つ黒き魔力は、相手の魔力をつまみ食いでもするかのように捕食し始めている。
脈動する度に肥大化する【グラ・イーター】はパカリと口だけを開けた。口腔内の奥から吐瀉するように真っ黒な魔力が吐き出され、その先端が割れて一際大きく開口した。
ドスッと崩れ落ちるようにアルスの膝が地面に落ちる。
魂が抜けたような白い顔の中で、焦点の合っていない黒々とした双眸が魔物へと無為に注がれていた。
(――呑まれる)
直感的にそう悟ったのは【グラ・イーター】の活発化とアルスの意識が反比例して薄弱になっていったからだ。
同時に、ふつふつとロキの中で得も言えぬ怒りに似た感情が込み上げてきた。
焦りもある。でも……。
「そんなのないじゃないですか」
ピクリとも反応を示さないアルスの身体をロキは精一杯揺すり、掠れながら声を絞り出した。
己の勝手な解釈なのかもしれない。
でもロキはアルスが選択そのものを放棄したように映った。どんなことにも立ち向かう力があるのに目の前――視界に映し出された受け入れ難い光景から顔を背けた。
感情の赴くままにロキはアルスを真正面からきつく見据えた。
そして突き出して服を掴んだ両腕の間に、力なく顔を落とす。
俯きながら、
「逃げるのも賛成です。討伐すると決め、実行に移すのも賛成です。アルが自ら選んだことならば私は茨の道でも裸足で歩いて見せます。でも、見なかったことにするのはダメです……それだけはして欲しくない……」
いや、見なかったことにする、それさえも自らで決めて欲しかったのかもしれない。
気づけばロキの瞳は湿っていた。
混濁する頭で吐いた言葉はただの身勝手な要求なのかもしれない。
それでも、いつものアルスならばこの選択はありえないとロキには断言できた。
だから具申する。今一度その眼でしっかり見てほしい、と。
ロキは勢いよく顔を上げ、涙を切る。そして大きく仰け反って頭を引くと反動を付けてアルスの額へと打ち付けた。
脳震盪さえ起こしかねない衝撃が鈍い音と一緒に脳を貫いた。この程度、ロキにとって痛い内には入らず、寧ろ良いきつけ薬となった。
それからロキは額を密着させたまま至近距離でアルスの両目を見据える。
白い結膜――白目――のほとんどを見ることが出来ないほど黒に染まっていたが、幸い全てではない。
硬い意思の宿った表情を崩すことなく、ロキは瞳の奥を貫くように見る。
頭突きで裂けたのか、ぶつけた額から血が眉間を通って流れ落ちていく。
「アルッ!!」