黒い涙
アルスが地面へと衝突する間に、魔物は小さな太陽に指を触れさせた。細く長い、歪なその指は真っ赤に照らされ、そうすることに何の躊躇いもなく【煉獄】へと一本差し込む。
直後、まるで内部から侵食するかのように【煉獄】は黒々とした風を吐き出し始めた。アルスが円盤型の魔法にしたのと同じ、いやそれ以上の現象。今度は魔物がアルスの魔法を乗っ取ってみせたのだ。それも完璧な――芸術的な魔法の改変。
アルスの不調や、散らばった鎖の輪という離れたところにあるAWRを経由していたとしても……異常な光景に変わりない。
奇妙に揺れる不気味な指の動きは、まるで何かを編んでいるかのようだった。
巨大化する太陽は腐敗した星のように、暗澹たる魔法へと再構築された。寒々しい黒風の渦は、熱を発することはない。もはや魔法なのかすら判断のできない自然現象の凝縮を思わせた。そこには意図や意思はなく、人智を越えた災害のみを内包しているようだった。
最上位級レベルの魔法は、その内包魔力や構成密度を大凡察知できるものだ。測れずとも比較はできる。そうした物差しは魔法師ならば持っているもの。しかし、目の前の現象は、ロキでさえ測りかねた。
一方、地面に叩きつけられる直前、アルスは四肢を突っ張って堪え、すぐさま身体を弾くように空中で回転する。すると頭上からの圧力はまるでそよ風にでも変わったかのように消失していた。
先程よりも禍々しい魔力がアルスを取り巻いており、それは底しれない闇を含んでいた。彼の周囲だけを暗闇が取り囲んでいる。
その闇を作る存在をロキは既知としていた。
「【暴食なる捕食者】……」ふいに心当たりのあるワードが口から小さく零れ落ちる。魔力を喰らう魔力。その異能は魔法の源である魔力を食い尽くす。
だが……異能というにはそれは従順とは言い難く、寧ろアルスさえ持て余す力。完全に食い尽くすことができなかったのか、主であるアルスも無傷とはいかない。
まるで自我を持つかのような魔力の揺らめきは、不安定と言わざるを得なかった。
(やっぱりアルの……身体、ううん……精神的な問題が大きいのかもしれない)
身体の不調を否定したロキは、その最大の要因が心にあると考えていた。故に、魔力に影響が大きくでたのだ。ならば、【暴食なる捕食者】が機能不全を起こしていたとしても不思議ではないし、十分説得力のある理由であろう。
ロキが得も言えぬ不条理な強さをアルスに見たのは、この力があるからではない。それよりももっと根本的なところで底知れない恐怖がある。
頭上からの魔法を退け、再び足が地面を踏みしめた刹那――アルスの眼前に揺らめく魔力の気配が空間に僅かばかりの小さな渦を生んだ。
すでに攻防の均衡は崩れ、いつの間にか攻めていたはずのアルスが後手に回っていた。
彼の目の前に、黒風の球体が音もなく渦の中から出現する。一度構築した魔法を、別座標に飛ばしたのだ。魔法が発現するまでには必ずと言ってよいほど、予兆がある。
それは対峙した者にとって生命線ともいえるものだ。練度によって速度差はあるが、魔物が使った技法はそうした発現予兆がゼロに等しい。つまり、発現してからでないと、反応できないということ。
だから押し込まれるように黒風の球体がアルスに触れた時、覆りようのない致命傷になることは想像に難くない。受けたが最後、一見すれば大きな開きがない魔物との戦いの決定打となる。
黒風の球体は、その内部は覗けず、渦とは別物のようだった。ロキが一度目に受けた風の斬撃を無数に吐き出す球体とは別……。
アルスの身に異変が起きたのは一拍置いた直後だった。
上半身の服が弾け飛ぶと同時、彼の身体から逃げるように血が噴出する。血のシャワーそのままに、無数に走った傷口から異常な量の血液が抜ける。
力なく立ち竦んだ身体は飛び散った血に、倒れそうに揺らいだ。
一瞬で抜かれた血の量は、もはや致死量にまで達していただろう。
大きく目を見開いたロキの目の前で、無残な光景が映像の如く流れていく。
立ったまま死んだように俯くアルスに、生気と呼べるものは皆無。
茫然自失のロキに追い打ちを掛けるかのように、黒風は役目を終えて消失する。まるで後から来る痛みのように、一時の猶予とばかり静寂と制止が空間を埋め尽くした。
消失の際に生じた一陣の突風の後、矢を射るかのようにアルスの身体は風に囚われ、一直線にロキの頭上を越えて壁面に打ち付けられた。
ドンッという耳に残る嫌な音が響き、飛散した血がミスリルの上に飛び散った。
えっ、そんな拒絶の声がロキの喉を震わせた。それは本当にあっという間の出来事だった。外界で生命を落とすのは常に“一瞬”と言われるように……。
だからなのか、ロキの表情は戸惑うように微かな疑問の笑みを作っていた。笑い飛ばしてしまいたい程の、虚像の光景だったのだ。
室内に小さな恐怖の音が響く。
カタカタと歯を鳴らしたロキは、突っ伏したまま顔だけをアルスへと向けていた。
瞳孔の開ききった目。
殻に籠もるように頭を抱える手。
追い打ちを掛けるように、フェリネラを模した魔物は避けた大口から超音波に似た奇声を上げる。雄叫びなのか、どこか笑い声にも聞こえて空気を震わせた。
涙を流すという正常な機能さえ失われて、ロキはただただ視界の光景を拒んだ。
「――――!!」
だが、僅かにロキの心が完全に折れる手前で、彼女の目はその動きをしっかりと捉えることができた。死んでいてもおかしくない負傷。
それでもアルスの指は壁面を掴むように立てられていた。
身体の血は止まっていた。
ミシッと壁面を崩したアルスは、確かに自らの足で地面を踏みしめて立った。
【摂理の失墜】を受けた時から、明らかに異変は目に見えて始まっていたのだから。
どれもこれも、受けた魔法は消失していた。存分に効力を発揮できずに、消えたていたのだ。
先程の魔法もそう、どんな現象を引き起こすかは分からないまでも、アルスが立っていられることにこそ、目を向けるべきだったのだ。
(――!!)
覚束ない足取りで魔物へと愚直に歩き出すアルスは、幸いにも進行上にロキ自身がいた。
真正面からアルスをやや見上げる形で、ロキは辛うじて意識を手繰り寄せる。
混濁したロキの意識はただただ恐怖が支配していた。アルスがいなくなるという可能性が一瞬でも脳裏を過ぎれば、もう心は傾いてしまう。
ふと、ロキの目に異変足る原因が飛び込んできた。
アルスのゆっくりとした足取りに混じって、ポタポタと何かが零れ落ちていた。それは血ではなかった。
黒い液体のようでいて、地面に落ちた直後、何か幽鬼のような細い線がうねうねと地を這う。
(蛇……?)
酷似する物を思い浮かべたが、そんな悠長な想像はさらなる怖気が駆け巡ったことによって掻き消された。
落ちた出処は、アルスの目――片目――であったのだ。薄っすらと足元を探るように落とされた視線。
微かに開かれたその目は常闇のような黒に沈んでいる。
いや、正しくは瞳の中を泳ぐように蠢く気配があった。血管のように眼球に罅が生じ、割れたようにさらなる奥の闇を映し出していた。
左右の目で絶対的な違いがあり、すでに人のそれではなかった。
だが、同時にその目に見覚えがあることにロキは気づいた。
【背反の忌み子】の際、アルスの異能が暴走した時。
そこに出現した巨大な魔力プールに現れた無数の目である。
酷似しているというよりも、アルスの片目……目線といった“見る”行為を相手に感じさせない寒々しい瞳がロキに想起させた。
(【暴食なる捕食者】……異能、違う……あれが、【魔眼】なんだ)
魔眼と呼ばれる異能を保持している者、近しい者でいえばイリイスやリンネがいる。傍から見れば、苦労はあったのだろうが、それは結果として宿主の力となっていた。
主観的ではあるが、ロキは魔眼と呼ばれる物に基本的には意思のような自我は存在しないと感じていた。これは口には出さないが、アルスも抱いていた疑問なのかもしれない。意思の力と言った曖昧な方法が効果的とされるが故の発想なのかもしれない、と。
謎多き異能に、合理的な理由を与えるなど無駄なのかもしれない。
しかし、ロキはその目の異常さをもっと理解していなければならなかった。自在に魔眼を操るイリイスや、制御しているリンネがいるせいで深く考えなかったのだ。
こうしてアルスの目を直視すると、心底冷たいものを感じる。萎縮せずにはいられない。
うつ伏せのロキを路傍の石のように、素通りするアルスの足を彼女は全力を込めて掴んだ。
「アルを、アルをどうするつもりだッ!」
反射的にロキはなけなしの声を張った。
その瞳がアルスの身体を乗っ取ってしまったように、ロキには見えたのだ。
片目だけが別物のようだった。
声に返ってくる言葉はない。
それどころか、まるで気づいていないかのように歩きづらそうに二歩、三歩とロキを力任せに引きずる。
「くっ……」
全身に響く、痛みに堪えながらそれでもロキはアルスの足を掴む。振りほどくように止まらない歩みに、一瞬手が離れてしまったが、ロキはすぐさま身体を押し出すように指を伸ばす。
裾に引っかかってくれた指、裾を皮膚に食い込ませるように力強く掴み直す。
意地でも放さない強い意思が、ロキの身体をずるずると引きずった。
これほど近づいてやっと聞こえる程の声量で、アルスは何事か呟いていたことに気づく。
「殺す、殺す……殺さないと」
繰り返し繰り返し繰り返し……それこそ呪詛じみた自分への言い聞かせ。
それを聞いて、ロキは胸が痛い程締め付けられるのを感じた。そこまでしてしなければならないことなのか。アルスでなければならないのか。
自分の声など聞く耳を持たない今のアルスを説得することなど不可能なのかもしれない。
それでも、とロキは足の先でどうにかこうにか地面を蹴る。そして抱きつくようにして、アルスの足にしがみついた。
「アル、アルッ!? もういいですから! もう帰りましょう、誰かに託しましょう。もう良いですから」
苦鳴に混じって発せられた聞き取りづらい言葉の羅列。でも、そこに全てが込められていたことも事実。
もういい、ロキは本気でそう思った。
責任なんてない。
心を病んでしまうならまだ良い、回復の余地があるならばまだいい。
でもここから先は、もう回復の余地などない、己の身を砕く戦いになってしまう。
それはもう戦いにすらならない。どんな結果になっても不幸にしかならないのだから。
途端、アルスの歩みが止まり、彼は違和感を感じたかのような訝しげな様子で自分の足を見下ろした。
「あぁ、ロキか、何をしてる」
「――あっ」
肩越しに見下ろすアルスの目に射すくめられ、ロキの喉が固まる。今の今までロキがいることすら忘れてしまっていたような台詞。
抑揚のない声で、信じ難い言葉が紡がれた。
無感情な瞳はロキを反射する光すら失い、闇に巣食う禍々しい蠢きだけを宿している。
目から漏れる黒々とした魔力は小さな口を付け、宙空を泳いでいた。敵味方など識別できない、渇望に染まった飢えた化物。
「か、か……帰りましょう、アル……もう」
聞こえているのかわからない無表情に、ロキは一層の恐怖に支配された。返ってくる言葉は賛成の類ではないと確信してしまえる程だ。
「もう終わる」
「え――」
直後、ロキの背後で激烈な爆音が響いた。
恐る恐る振り返る。そこにはフェリネラを模した魔物が奇妙な体勢で立っていた――傾いていた。ただし頭部だけがなくなっている。
巨大な頭部は真横から食い千切られたように吹き飛んでおり、砲弾を打ち込まれたかの如く壁面に埋め込まれている。
その上から無数の黒い魔力――【暴食なる捕食者】――が捕食していた。ハイエナのようにブチブチと喰らう光景は、悲惨そのものだった。
魔力だけを喰らうはずの【暴食なる捕食者】が頭部を食い千切る。
フェリネラを模した頭部は、実体的な肉片を喰われていたが、すぐさま布のようなはためきを見せ、魔力へと還っていく。それさえも黒き捕食者は逃すまいと一片残らず喰い、一帯は黒い蛇のような魔力が群がる悍ましいものに変わった。




