手負いの魔法師
高速で抜けていった四つの円盤はすぐさまアルスの位置を捕捉し、旋回しながら回り込む。自動追尾に近い動きだが、一度見失った情報を追加したのかフェリネラを模した魔物の手が関節のみを不気味に動かしていた。
直後、規則正しい動作で円弧を描く円盤を置き去りに、アルスは真っ直ぐ魔物へと駆けた。AWRからは大剣並の刀身が魔力によって形成されており、引いた構えのまま間合いを詰める。
魔物の揺らめく霧の裾は、先程から同じ位置に留まっている。魔物がアルスを目の前に涼しげに口端を持ち上げた。
一足飛びで肉薄するアルスの手には突き刺すような形で、水平にAWRが握られていた。
魔力刀の刃先が吸い込まれるように空を滑り、完璧な水平を維持したまま魔物の顔面へと伸びていく――が、後僅か、魔力刀はほんの数cm手前で、ピタリとアルス自身が制止した。形勢をひっくり返す一太刀が届かない。
背後に差し迫った円盤は、もう少しという距離を縮めさせなかった。アルスは正確にコンマ一秒未満で時間を分析し、己の意思で攻撃の手を止めたのだ。
甲高い擦過音はアルスのすぐ後ろで胴体を引き裂く寸前まで舞い戻ってきていた。
追いつかれることなど折り込み済みだったのか、またもアルスの姿が掻き消える。肉体さえも情報として細分化されたように……ありとあらゆる物質情報が魔力で説明が付くと言われているかの如く、アルスの姿は見慣れた細かい粒子を微かに漂わせて消失した。魔力ではなく、その残滓が、アルスという個体を構成していた残骸として僅かに舞う。
今度は5m程後ろに現れた。
空を切った円盤は背後からの軌道を辿っており……つまり、一転して魔物へと猛刃を突きつけた。
だが、これも……高速で飛来する四つの円盤は魔物を目の前に、空中で時間を止めたように制止する。
アルスの目論見など端から問題にしていないかのようにあっさりと挫いた。
見ようによっては絶え間なくアルスを追尾していたはずの円盤は、瞬時に構成を書き換えられたのか微動だにしなかった。身を引き裂かれたかのような悲鳴にも聞こえる音が四つ、そこにあるだけ……。
直後、高速回転する円盤が微かにぶれ始め、輪郭までもがぼやける。その異常は魔物の意図したものではなかった。
同時、アルスは俯きながら、短剣を持つ手を軽く振り、刃先を揺らす。風の円盤は合図に従い、干渉下から抗った動きを見せた。
円盤への干渉は次第に魔物とアルスとの拮抗状態に移り、主導権の奪い合いへと変わっていた。円盤を制御していたはずの魔物に微かな動揺が走る。
整った薄い唇の端から力んだような罅が頬へと伸びる。
制御する力にアルスが介入したのだ。
ロキの視界には魔力の光に溢れた鎖の輪が映り込む。落ちた輪が何の魔法を示しているのか、ロキでさえわからない。しかし、魔力光を帯びた輪は確かに魔法としての構成を紡いでいた。
確かなことは付け入ることさえ不可能な魔物が編んだ魔法に、人間であるアルスが介入しているということ。低レートでさえ魔法の構成に対して干渉することは酷く困難なものだ。
いくら魔法の造詣が深いアルスといえど、魔法という領域に関しては魔物の上を行くことはできないはずである。
それほどまでに魔物が構成する魔法は完璧なのだ。完全に解き明かす日が来たとしても、外部から手を加えることはできないだろう。SSレート級の魔物が編む魔法は尚更、人の身では到達できない叡智の結晶と言える。
不可能に対して無策でアルスが挑むとは思えなかった。しかし、その絡繰り自体をロキが認識するのはそう時間は掛からなかった。四つの円盤は高速回転する中で、内部に異質の魔力を混ぜこんでいた。
先程アルスが転移する際に発した膨大な魔力。それが円盤の内部に混じって異様な風の渦を形成していた。
これは学園祭の折、イリイスがテスフィアやアリスに使った下地作りに似ている。事前に魔力を散布し、一帯に干渉しやすくすることで魔法を瞬時に構成できるというもの。
アルスはそれを逆手に取って干渉の隙を円盤に作ったのだ。ロキは安易な推測だとわかっていてもそう解釈するしかなかった。いずれにせよ、同じことができたとしても、魔物の魔法に干渉できるとは到底思えないが。
だが、この拮抗……円盤の主導権の奪い合いはアルスに分が悪い戦いに違いない。
四つの円盤は目に見えて安定し始めている。
直後――魔物は黒い風を残像のように残し、この戦いで初めての移動をした――後退という不利の感知。
回避という選択が嫌に人間的な戦術を連想させるが、その判断はやはり間違ってはなかったのだろう。
魔物が滑るように下がった直後、四つの円盤は黒風を粘性のある深い闇色へと変えて、凄まじい衝撃を伴い破裂した。
空気に伝わる激震は、魔物の輪郭を微かに揺らし、周囲のミスリルさえも砕き割って広がる。
【振格振動破】の広範囲版とも言える、内部からの形状破壊。
アルスは円盤の魔法内部に己の魔法を時限式に構成するよう仕込んでいたのだ。
不気味な黒風を曳きながら大きく距離を取った魔物。その陶器のような滑らかな外装は見る影もない程罅割れ、ボロボロと破片を落としていた。また破片が地面に落ちたと同時、黒い風となってまた身体の一部に戻っていく。
フェリネラを模しただけで魔物の一部に変わりはない。故に、剥がれ落ちた傍から罅を埋めるように修復が始まったのだ。
魔物の奇妙に背を曲げた態勢でじっと修復を待とうとする。アルスの仕掛けた衝撃は、わざわざ作った繊細な造形に思わぬダメージを与えていた。
当然、修復の間すらアルスは与えず、長年そうして来たであろう迷いのない動きで次手に転じていた。すでにその兆候は現実となって魔物を追い詰めている。今やフェリネラを象った綺麗な顔や身体のフォルムは、赤々と照らされ、熱せられていた。
魔物の目の前で、間髪入れずに生み出されたのは“小さき太陽”。炎の源とさえ思えるその熾烈な様は次々と熱を生み出し、凄まじい熱源となって魔物の表層を炙る。
【煉獄】は刻々と熱量を増して、肥大化していく魔法だ。発せられる熱波は肌を焼き、肺を焦がし、水分を蒸発させる。
一瞬で部屋内の気温は上がり、それは術者であるアルスとて例外なく熱せられることになる。
ハイレベルという次元を越えた魔法の応酬は、目に見えている以上に複雑な情報戦だ。それを表情一つ変えないアルスもまた、ロキには化け物じみて見えてしまっていた。
無味乾燥な魔物の顔は、ジリジリと陶器のような白い外皮を焼かれながら、それでも苦戦することもなかった。焼かれることに対して恐怖など微塵も感じさせず、枯れ枝のような指を小さな太陽へと差し伸ばした。
それを微かな異変と察したアルスは、魔物までを一直線に走る。全面に張られた障壁は気休め程度に熱を跳ね除けるが――。
不意を突かれた形でアルスは真上からの強風に気付くのが遅れる。
(さっきの【摂理の失墜】!)
内心でロキは、己が一撃の下、戦闘不能にまで陥らせた魔法をアルスに伝え損ねたことへの後悔が湧き上がる。大規模魔法を限定的な範囲内に留めた、いわば略式魔法とでも言えるものだ。
そんな後悔も時すでに遅し。
アルスが鈍器で後頭部を強打されたようにその場で地面へと押し付けられる。運悪く頭から落ちれば、十分生命を落とせる威力だ。
唐突に襲われる風の圧力は、全身を包み込み、拘束する形で堪えられない負荷が掛かる。あの身動きができず、臓腑にまで掛かるような圧力は思い出すだけで、全身に強烈な痛みが走るようだった。